「あなたがたに平和があるように」(花小金井キリスト教会4月30日主日礼拝メッセージ)

ルカ24章36節〜53節

今日も、もう二度と来ない今日という日に、ここで皆さんと顔を合わせ、心をあわせて、天の神さまを、礼拝させていただける。この恵みに、心から感謝です。

初めて来られた方、最近来られるようになった方、入院していて、久し振りにここに来ることが出来た方。いつものように、ここに来られた方。

ひとりひとり、それぞれの思いをもって、いきてきた人生。

ここに集うまでは、それぞれ、バラバラに、違う場所で、ちがう時を過ごしてきた、私たちが、

今、この場において、その人生の場所と、時が一つとなっている。実に不思議なことではないですか。

この礼拝において、私たちひとりひとりの人生が、交差して交わり、一つの点となっているわけですから。

その交差して、あわさり、一つとなった、その点の中心におられるお方こそ、死から復活した、主イエス・キリストです。。


人と人とが、愛し合えず、共に生きられず、バラバラになってしまう、その罪の痛みと悲しみを、

すべて引き受け、十字架のうえで死んでいかれた主イエスを、

天の父なる神は、三日目の朝、復活させられました。

人と人とを、バラバラにする、「罪」の力は、復活によって、打ち砕かれました。

復活。それは、罪によって、バラバラにされ、争うしかない人間の間に、

平和を与え、一つにする、神の神秘。神の業。

復活。

先ほど朗読されたみ言葉において、主イエスを見捨て、自分も捕まることを恐れ、そんな、自分のことしか考えられずに、バラバラになって逃げ、隠れていたであろう弟子たちが、

「イエスさまがあらわれた」自分は見た、私も見たと、言い出す人があらわれて、

これはいったいどういうことかと集まり、話し合っていたその真ん中に、

復活した主イエスが、お姿を表された箇所を読みました。

自分の思いでいっぱいで、バラバラに散らされていたはずの弟子たちが、

もう一度集められた、その真ん中に、主イエスは現れ、こう宣言なさったのです。

「あなたがたに平和があるように」と。

これは、今、それぞれに、違う人生を生きてきた私たちが、

ここに集められている、その真ん中で、復活の主イエスが、語ってくださっている宣言でもあるのです。

「あなたがたに平和があるように」

昔の、文語訳聖書では、こうなっています。

「平安なんぢらにあれ」

いいですね。「平安なんぢらにあれ」

もう、この言葉を聞くことが出来たら、十分ではないですか。

ヨハネ福音書に記されている、復活の出来事においても、

鍵をして閉じこもっていた弟子たちの、その真ん中に、復活の主イエスが現れ、

同じ事を言われています。

「平安なんぢらにあれ」

「あなたがたに平和があるように」


この宣言を聞いた、弟子たちも、この福音書を最初に読んだ教会も、

そして、その後2000年以上に渡って、この宣言を聞いてきたすべての時代の教会

そして今、ここに生きる私たちも、

この復活の主イエスの一言。

「平安なんじらにあれ」

この言葉に支えられ、生かされてきたはず。

わたしたちには、どうにもならない、どうにもできない「罪」と「死」の絶望の暗闇。

その罪の絶望を引き受け、死なれ、その暗闇を打ち破って、復活させられた、唯一のお方。

この主イエスの、力強い宣言

「平安なんじらにあれ」

「あなた方に平和がありますように」

この一言が、私たちひとりひとりを、そして、この世界を、絶望から救いました。

「平安なんじらにあれ」
「あなたがたに平和があるように」

あとは、わたしたちひとりひとりの、心の目が開かれ

この復活の主イエスの宣言。「平安あれ」言い換えるなら、「もう大丈夫だ」という宣言を

開かれた、心の目と耳で、受け止めることさえ出来ればいいのです。もうそれで十分なのです。

ここから、また勇気をもって、歩み出していけるのです。

復活。それは、人が説明できることでも、すべきことでもありません。

復活は、命です。神の命のあらわれです。

人の小さな頭の中には、おさまらないのです。

復活は、神の命の現れ。無から有を作り出し、滅びから命を救い出す、神の出来事。

復活。

違う言い方をするなら、永遠なる天と、限界を抱えたこの「地」が、触れあう瞬間。

それはやがて、終わりの日に、天と地は一つとなり、この限界を抱えた、地上の悲しみは、すべて、永遠の天の命に、飲み込まれるように、やがてすべてが新しくされる。

私たちすべてが、神の命。永遠の命に飲み込まれるようにして、復活する。

たとえるなら、地面を這いつくばるしかなかった「青虫」が、「さなぎ」となり、眠りについたその後で、時が満ちて、まったく違った、新しい美しい蝶となって、大空に飛び立っていくように、

この地上は、私たちひとりひとりの命は、やがて蝶のように新しくされ、天に羽ばたく日がくるでしょう。

この神の壮大な救い、この世界を丸ごと救う、その救いの初穂、最初として、

死から、三日目の朝、復活なさったのです。

この復活の神秘は、後に使徒パウロが、神さまから受けた啓示として、彼の手紙の中で、少しずつそのことを明らかにしていきます。

しかし、このときの弟子たちは、そんなことがわかるわけがありません。

主イエスが復活している意味など、まったくわからなかったでしょう。

ただ、弟子たちは恐れおののき、亡霊をみているのだと思ったのです。

当然です。彼らには、それ以外、理解しようがないのだから。

亡霊とか幽霊というものが、実在しているわけではないでしょう。

見えないものが見えるということは、なにも不思議なことではないのです。

人間の脳みその中で、何らかの理由で、見えないものが見えてしまったり、聞こえてしまう、「幻聴」や「幻覚」は、なにも不思議なことではないのです。幽霊とか亡霊がみえることは、なにも不思議なことではない。

ですから、わたしたちはつい、「自分の目で見た」とか「聞いた」ということを、「絶対だ」と信頼しがちですけれども、脳みその状態では、そこにないものが、見えてしまったり、聞こえたりする。人間の認識なんて、その程度のことです。

自分だけが見て、周りの人には見えない、という場合は、自分の脳みその中だけの、幻想である可能性が高いでしょう。

実は、今日のみ言葉の少し前のところで、11人の弟子たちは、イエスさまが復活して、シモンペトロに現れたと、言い合っていたと書いてあります。ペトロは言い張ったのでしょう。自分は見たのだと。イエスさまを見たのだと。

そして、次は二人の弟子たちが、「エマオという村に向かう途中で、自分たちはイエスさまを見たのだ」とエマオから引き返してきて、言ったのです。

確かに、パンを裂いて、私たちに渡してくださったときに、その方がイエスさまだと分かったのだと、証言したのです。

こういう証言によって、弟子たちが集まってきていた、その真ん中に、復活のイエスが現れた。

でも、弟子たちは、亡霊だと思った。現代風に言えば、脳内現象だと思った。幻だ、幻想だ思った。本当はいないのに、ただ見えてしまっているだけだ。目の錯覚だと思った。

これは、実に面白い逆転現象です。

復活の主イエスが見えているのに、出会っているのに、

弟子たちは、「ああこれはなにかの勘違いだ。いないのに見えているのだ。幻だ、亡霊なのだ」と弟子たちは言ったのです。

聖書は、こういう、復活を信じられない弟子たちの姿を、ちゃんと書いている。

決して弟子たちとか、最初の教会の人たちは、単なる、神秘主義者とか、みえないものが見えやすい、なんでも信じてしまいやすい、共同幻想をみただけの、変わった人々だったわけではない。

聖書はむしろ反対だったのだといっている。

復活のイエスを目の当たりにしながら、弟子たちは、そんなことがあるかと、うろたえ、疑ったと、正直に記しているのです。

復活のイエスさまから、なぜ疑うのかと叱られた出来事を、包み隠さず、

そして、主イエスを見たのは、頭の中の幻想などではないのだ。亡霊ではないのだ。

わたしたちは、あの方と一緒に食事をし、焼いた魚を食べたのだ。

あの方は、幻でも幽霊でもなく、本当に体を持って、この地上に復活なさったのだ。

このことを、どうしても伝えないわけにはいかない。そういう熱い、熱い思いが、伝わってくるではないですか。

そして弟子たちは、自分たちは、心の目が閉じていたのだ。

旧約聖書が語っていることも、イエスさまが語っておられたメシアは、このように苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」といわれていた、その言葉の意味が、ちっとも分かっていなかったのだと。

しかし、主イエスが現れ、わたしたちの心の目が開かれたのだ。そして、わたしたちはわかったのだ。確かにこの方こそ、メシア、キリストであることが、分かったのだと。

この、復活のイエスに出会い、心の目が開かれた、弟子たちの喜びが、伝わってくるではないですか。。

この非常な喜びに、押し出されるようにして、神の霊、聖霊に導かれ、この逃げかくれていた弟子たちは、そこから出て行き、

恐れることなく、人々に向かって宣言していくのです。

「人々が十字架につけたあの方は、イエスさまは、復活したのです。この方こそキリストなのです。あなたを、この世界を救うメシアなのです」と。

語り伝え、どんどん教会が出来ていった。

やがて、直接直接イエスさまを知らない時代に生きる人々に、この復活の喜びを伝えるために、福音書は記され、この復活のイエスに出会った熱い思いは、今、約2000年たった、この日本のわたしたちにまで、届いている。

復活のイエスに出会った、この弟子たちの驚きと感動。

この非常な喜びに、今、わたしたちも触れているのです。

この復活のイエスとの出会いが、どれだけの人々の人生を大きく変えてきたことでしょう。

希望を与えてきたことでしょう。

新しい人生へと、人々を悔い改めさせ、主イエスを礼拝する人へと、変えていったことでしょう。


 4月10日。ラジオ牧師として、大衆伝道の働きに長く仕えられた、羽鳥明(はとり・あきら)さんが、96歳で天に召されました。

だいぶ前ですけれども、わたしは羽鳥明さんが、弟さんの証を語っていたラジオかテープを聞いたことがあります。

 羽鳥明さんの弟さんも、牧師をしておられ、羽鳥純二さんといいますけれども、弟の「純二」さんは、まだクリスチャンになる前、若い頃は信仰とは遠い世界にいきていて、東大をでて、共産党の幹部になって、赤旗の編集局長をしていたこともあるそうですが、

お兄さんの羽鳥明さんは、そんな純二さんが、信仰を持ってほしいと、何年も祈っていたのだそうです。

ある年の4月。外国から久し振りに帰ってきた純二さんを、お兄さんの明さんは、勇気を出して、イースターの礼拝にさそってみた。インテリの彼が教会の礼拝にいくとは思わなかったけれども、彼は行ってみるといった。

お兄さんの明さんは、どきどきしながら日曜日、純二さんと一緒に、田舎の小さな教会に行ったのだそうです。

ところがその教会の牧師さんは、方言丸出しのおじいさんの牧師さん。「イエスキリストは十字架について死に、三日目に復活したのじゃ」と、いきなりストレートな復活のメッセージをなさった。

 これにはお兄さんの明さんは、内心困ってしまった。せっかく弟が、教会に行ってみようと思ったのに、東大をでて、共産党の幹部までしている弟なのだから、もう少しインテリな話をしてくれたらいいのにと、思ってしまった。

明さんは、当時も牧師をしていたはずなのだけれど、正直そう思ったのだそうです。ところが、そのあと、次の週も弟の純二さんは、教会にいくという。そして、また、同じ教会に二人でいった。その教会はよく外部から説教者を呼ぶこともあるので、内心、明さんは、今度はあのおじいさん先生ではありませんように、と、祈る気持ちで、弟さんをつれていったけれども、またもや出てこられたのは、あのおじいさん先生

そして、あの強烈な田舎弁で「キリスト死からよみがえったのじゃ」という調子でメッセージなさった。

 ところが、驚いたことに、このメッセージを聞いたあと、純二さんは、イエスキリストを信じる人は手を上げるようにと言われたとき、手を上げたのです。

 お兄さんの明さんのほうが驚いてしまって、おもわず、「純二や、なんで信じたの」と聞いてしまった。そう聞かれた純二さんの答えが、実に心に響くのです。

彼はこう言ったそうです。

 「お兄さん、僕は正義と理想の社会の実現を求めて、共産党に入って、地下にまでもぐって活動してきたんだ。それは本当に真剣だった。しかし、組織の中で、自分はだんだんその理想から離れてゆき、金と力におぼれ、とても人にはいえない罪を犯してしまった。イデオロギーは、社会どころか、この自分ひとりさえも変えることができなかったんだよ。もしこの自分を救うことができるものがあるとしたら、それは、死からよみがえったというイエス・キリストしかいないと思ったんだ。だから僕は信じたんだよ。と」

そして、この純二さんも生涯かけて、キリストに従う道を歩み抜いていく。

復活は理屈ではありません。知性で受け止めることでも、信じられるとか信じられないとか、自分の信心深さの問題でもありません。

神が心の目を開いてくださることによってのみ分かる、神の命との出会いであり、出来事です。

出会った人を、新しい人へと導いていく、神の命との出会いであり、出来事です。

幻や、亡霊に出会っても、人は決して変わることはありませんが、

復活のイエスに出会ったなら、人は変わっていくのです。変えられていくのです。

神の命に出会うのだから。神の命がその人のうちに、注がれるのだから。

私たちが、どんなに愚かで、罪深く、失敗を重ね、

愛し合えず、傷つけあい、悲しみを重ねているとしても、

その人間の、罪の愚かさ、悲しみの先に、

その十字架の死に至るしかない、人間の滅びにいたる、絶望の先に、

神はちゃんと復活を用意してくださったいた。神の命を、神が実現する平和を、用意してくださっている。

愛する子どもの失敗を、子どもを愛する親は、なんどでも見捨てることなく、尻ぬぐいをして助けようとするように。

神の子たちの愚かさを、失望を、失敗を、

もう、どうしようもないと思えるような、この世界の状況さえも、

天の親は、その愛のゆえに、最後には、ちゃんと尻ぬぐいをしてくださる。

復活があるから、わたしたちは恐れないで、なんどでも悔い改め、変わることが出来る。

主イエスは言われます。47節

「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。
エルサレムから初めてあなた方はこのことの証人となる」と

今、ここにいるわたしたちも、その証人の一人です。

復活のイエスに出会い、古い自分を、悔い改めて、罪ゆるされた、新しい自分として生きる、その喜びを証していきる、私たちひとりひとりが、その証人です。

復活のイエスキリストは、今も生き、わたしたちを今日も新しくしてくださる。

だから、ここで主イエスを礼拝し、神をほめたたえたわたしたちは、

恐れることなく、神の霊に導かれて、ここからそれぞれの人生へと、帰っていきます。

そのわたしたちひとりひとりに、復活のキリストは、力強く宣言するのです。

「あなた方に平和があるように」と

祈りましょう。