「信頼をベースに」

shuichifujii2017-04-28

 わたしはあまりテレビを観ないのです。観るとしても「いま、あえてこの情報を流すことの意図」はなにか、と批判的に見るようにしています。扇動されないためです。

 特にいま、テレビでは繰り返し北朝鮮に関する報道がなされ、特に「ミサイルが飛んでくる」と不安をあおるような言動については注意すべきだと思っています。

 また政府は「北朝鮮弾道ミサイルが日本に飛んで生きたら、丈夫な建物や地下街に避難してください」というマニュアルを国民保護ポータルサイトに掲載し、全都道府県の担当者に住民への周知を呼びかけたとも聞きます。現実にはあまり役に立ちそうにない避難指示を、あえて政府が周知することで、むしろ不安をあおっているようにも見えます。

 人は「不安」の感情に支配されるとき、冷静な判断が出来なくなります。たとえば湾岸戦争のとき、当時のアメリカ大統領はイラク大量破壊兵器を持っている(実際はなかった)とテレビで発言し、人々の不安をあおることで、結果的には「やられる前にやってしまえ」と、イラクへの先制攻撃を認めざるを得ない世論へ誘導していったことを思い起こします。このように、冷静なときにはしない判断を、人は「不安」になることでしてしまうことがあるわけです。

 さて、かつて二度も廃案となった「共謀罪」が「テロ等準備罪」と名前を変えて国会で審議されています。「共謀罪」と「テロ等準備罪」は目的も内容も別だと主張されますが、細かい相違点が問題なのではなく、そもそも「なにも犯罪が行なわれなくても、話し合いの内容によっては、犯罪とみなす」という考え方に問題があるわけです。これも突き詰めれば「やられる前に捕まえてしまえ」ということであり、「不安」をベース(土台)とした考えです。こういう考え方が、この社会をますます住みにくくしていくのです。

 人と人とが共に生きあう社会は、基本的に「信頼」をベースにしなければうまく回りません。わたしたちは、何の疑いもなく町の食堂で食べ物を口にし、スーパーで食品を買い、口に入れています。一日三度の食事ごとに、いちいち毒が入っているのではないかと疑っていたら、非常に不自由な生活になってしまいます。疑い、検証し、身を守ることはもちろん大切なことですが、それ以上に大切なことは、互いに相手を信頼し合う、自由で平和な社会を共に作っていくことのはずです。そのような社会は「不安ベース」ではなく「信頼ベース」の関係の上にしか成り立ちません。ところが時代はますます「不安ベース」の「監視社会化」へと向かっているように見えます。祈りが必要です。

 復活の主イエスは弟子たちに第一声「あなたがたに平和があるように」(ルカ24:36)と言われました。人の罪を引き受け十字架に死なれたイエスを、天の神は復活させ、主イエスを仰ぐ人と人の間に、信じ合い共に生きる「平和」を、与えて下さいました。

この「平和」が、この地に満ち溢れますように。

「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)