その名は「主は救う」(2016年12月18日 花小金井キリスト教会礼拝メッセージ)

マタイによる福音書1章18節〜25節

 主を待ち望むアドベントクランツに4本目の火が灯りました。

 先週の13日の火曜日。わたしたちの教会員の、Yさんが、主のもとに召されていきました。

 施設から、月に一度、車椅子のベットで、会堂の入口付近で、礼拝をささげておられましたから、花小金井教会員でない方も、お姿を見られた方も、おられるでしょう。

 水頭症という先天性の障がいを負われて、入所していた施設で、44歳の時に主イエスに出会って、それから37年。81歳の人生を生き抜かれて、天に帰って行かれました。

 天に召される日まで、それほどお変わりなく、夜になって急に、主の元に召されていったように、伺っています。

 ご家族の意向で、教会でのお別れができませんでしたので、今日の礼拝を、Yさんを覚えつつ、主に捧げたいと思います。

 わたしたちも、だれ一人例外なく、やがて天に召されていきます。その時がいつなのか、どのようにやってくるのか、それは人間には分かりません。

ただ、その日がいつやってこようと、わたしたちが確信していることは、

 この地上に命与え、地上の最後の日まで、守り導いて、天に招いてくださるお方は、

天の親は、わたしたち神の子を、この上なく愛してくださっているのだと。

それゆえに、決してみなしごにはしない。一人孤独になどなさらない。

天の親である神は、今も、そして天に召されるときも、召されたあとも、永遠に、ともにいてくださること。

わたしたちは、この神の愛と神が共におられることを信じて、

ここ集い礼拝する仲間です。

 時に、とてもとても、神が愛であるとは思えない、過酷な試練、時代の嵐、戦争、災害、さまざまな不安の出来事のなかに、わたしたちは、投げ込まれることもあるでしょう。

 目の前の悲しい出来事に、神など、この世に、おられるのかと、疑いの波に飲み込まれることがあるでしょう。

その時、それでもなお、いや、そうであるからこそ、なお、

神の愛にすがる。神が共におられることに、すがる。

神などいないと言いたくなる、今、この状況のただなかに、実に神は、共におられる。

なお、そのように信じ、平安をいただくことができるなら、それこそ、「救い」の現実そのものではないでしょうか。

わたしたちは、「信じるから救われる」というよりも、

むしろ反対に、「救われているゆえに、神を信じざるを得ない」

「神を信じることを、選びとるしかできない」ということなのではなにでしょうか。

そうであるからこそ、何千年もの長い時をへて、どのような状況のなかであっても、のりこえ、人は、神が愛であること、そして共におられることを、信じつづけてこれたのでしょう。

神に救われるために、信じつづけるという、人間の信心ではなく、

すでに、神に救われているからこそ、自分は、もはや、神から離れられない自分であることに、あるとき目覚めていく。

すでに、神のめぐみによって、救っていただいたことに目覚める。

救いへの目覚め。その招きが福音。よい知らせ。

そして、それがクリスマスの中心メッセージでもあります。


主イエスの母となる、マリア

彼女のおなかの中に宿る、この世を救う救い主は、「聖霊」によって宿りました。

マリアの夫となるヨセフは、夢の中で天使から、

「この子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」

と告げられ、眠りから目覚める。

そして眠りから目覚めたヨセフは、救いにも目覚め、神の言葉を信じ、受け入れていく。

この出来事のなかに、すでに、神の一方的な救いの出来事、神の恵み。神があなたとともにおられるという、

神の愛への信仰に、ヨセフは目覚めさせていただいた。

これはヨセフの信心深さが、彼を救ったというお話ではなく、ヨセフの信仰の決断の背後に、神の救い、神の恵みがあったことが、ここに語られているのです。


そこに至るまで、ヨセフは、身に覚えのないマリア妊娠に、痛み苦しみ、

考え抜いた結論が、もはや、ひそかに離縁するしか、お互いを救う道はないということでした。

マリアが、姦淫の罪で石打の刑にならないためにも、そしてヨセフ自身も、自分の社会的立場を守るためにも、「ひそかに離縁する」ことが、お互いを救うために、ただ一つ、残された選択だと彼は思った。

それは、人間の救い。ヨセフが求めているのは、人間が人間を救う。人間の救い。


しかしその後、夢の中で神の声を聞き、眠りから目覚めたヨセフは、神の救いに目覚めた、新しいヨセフとなっていた。

人間が人間を救うという救い。

そういう、人間の救いを超えた、神による救いへと。

その名を「イエス」つまり、「主は救う」と名づけられ、生まれてくるお方によって、


人間が救うという、「人間の救い」ではない。

神である、「主が救う」救い。

つまり、「神が人を、罪の束縛から救い、もはや神は、決して離れない、永遠に共にいてくださるという

「神の救い」が、イエスと名付けられる、マリアのお腹の子によって、この世にやってきたのだ。


この神の言葉を聞き、眠りから目覚めたヨセフは、

同時に、この「神の救い」にも目覚めていったのです。

ヨセフの最善の判断という、人間の救いを超えた、

「神の救い」に、ヨセフは目覚めたからこそ、マリアを妻として迎え入れていく。たとえ、その決断が、セフにとってマリアにとって、過酷な人生になるとしても、

「人間の救い」ではなく、「神の救い」に目覚めたヨセフは、

 周囲の人々の疑惑や、陰口、非難、不利益を、マリアと共に背負って、生まれてくる子と共に生きる決断をするのです。

「人の救い」

人が思い描く「幸せ」

そういう、限界ある救いを超えた

神が、我々と共におられる救い。

その「さいわい」に目覚めたヨセフ。

彼の姿は、また、わたしたち一人一人の姿でもあるのではないでしょうか。


 天に召されたYさんが、37年前、クリスチャンになったときの信仰告白が保管されていました。

その最初の文章は、こう始まっているのです。

「わたしは、生後一年の時に、日大病院で「おかしい」と言われ、1年8か月の時に東大病院で、「これは治らない」といわれ、母はがっかりしたそうです」と。

わたしはこの最初の数行を読んで、心が痛くなりました。

「母はがっかりしたそうです」という言葉の奥に、Yさんの心の痛みを感じたからです。

 Yさんを産んだお母さんの苦労、治らない病と知らされたお母さんの悲しみは、わたしにはとうていわかるものではありません。

 ただ、この告白をなさった当時44歳だったYさんが、御自分が病のうちに生まれたことを、「母はがっかりしたそうです」と、言葉になさったその気持ち、痛みを、わたしは感じ取ってしまったのです。


 人が人を生み育てるということは、なんと重たいことでしょう。

限界、そして罪を抱えた人間は、完全に人を愛し、育てることができるでしょうか。

この世に、罪に痛み悲しむことのない家庭があるでしょうか。

人は、いちばん身近な人一人さえ、救うことなどできはしない。

人間は人間を救い得ないのです。むしろ罪はお互いを傷つけ、滅ぼしているではないですか。それがこの世界の、現実ではないでしょうか。

もし、この世に、神の救いがなければ、わたしたちに、何の希望があるというのでしょう。

 この傷ついた世界を、罪から救うお方を、全世界の人々は、その心の奥底で求めているのではないでしょうか。


Yさんの信仰告白は、さらに続いてこう語られていきます。

・・・30歳まで家族と一緒に生活してきましたが、だんだん障害が重くなり、身の周りのこともできなくなってきました。そのため、4年前に施設に入れていただきました。施設に入ってしばらくたって、施設のクリスチャンの方々に集会に誘われ出席してみました。

 はじめは全然わかりませんでしたが、何か神さまのお話に心を動かされました。・・・神さまが私のために独り子であられるイエス・キリストを十字架に付けられて、私の罪を赦してくださっておられるということが、実感としてわかってきました。・・・・わたしは難しいことはわかりませんが、ただイエスさまを信じていきたいと願っております。・・・」


 Yさんを救うことができるのは「人間の救い」などではなかったのです。

難しいことはわからなくていい。難しいことが分からなければ、救われない救いでは、人は救われないのだから。

ただ、神は、我々のために、独り子イエスさまを、十字架に付け罪から救ってくださった。

人が神から離れてしまっているという、根源的な罪を、

人間にはどうしようもできない、救うことのできない、

この罪の滅びを、孤独を、苦しみを、

神は、主イエスの十字架において、救ってくださった。

難しいことはわからなくていい。ただ、このことさえわかったら、「神の救い」に目覚めたら、「さいわい」なのです。

信じたなら、救われるのではなく、

神に、救われ、信じるものになっている自分に、目覚めていく。

すでに、神はこの世に、神の救いを、主イエスを、与えてくださっているのです。

すでにこの世に、神の救いは、やってきているのです。

エスさまが、マリアのおなかの中に宿った瞬間。

神の救いは、この世に宿ったのです。

神は、すでに、われらと共におられる、神となられたのです。

インマヌエル。神は我々と共におられる。

これこそ、「神の救い」の極み。

やがて過ぎ去っていく、人の救いではない。

永遠の神の、普遍的な、過ぎ去ることのない「神の救い」。


旧約聖書の、有名な、詩編23編のなかで、よく知られている一節、

「たとえ、死の蔭の谷を歩むときも、わたしは災いをおそれない」

という、この信仰者は、その理由をこう告げます。

「あなたがわたしと共にいてくださる」からだと。

主が共に。インマヌエルゆえにだと。


最後に、バッハの作曲した長大な、クリスマスオラトリオのなかの、

一曲の歌詞をご紹介して、メッセージを終わります。

「インマヌエル、ああなんと甘美な言葉でしょう。
主イエスはわが牧者
主イエスはわがいのち
主イエスはその身をわたしに下さった方
主イエスは夜も昼もわたしと共にいます方

主イエスよ信じます。たといこの命が果てるともわたしが朽ちぬことを
主のみ名がわたしにしるされ
そのみ名が死の恐れを追い払ってしまうのです。

わたしは死を恐れてよいのでしょうか
いいえ、あなたの甘美なおことばがあるかぎりは
わたしは死をも喜ぶべきでしょうか

そのとおり 救い主よ あなたが 然りと おっしゃるのですから」



「その子をイエスと名付けなさい。
この子は、自分の民を罪から救うからである。」