マタイによる福音書1章18節〜25節
主を待ち望むアドベントクランツに4本目の火が灯りました。
先週の13日の火曜日。わたしたちの教会員の、Yさんが、主のもとに召されていきました。
施設から、月に一度、車椅子のベットで、会堂の入口付近で、礼拝をささげておられましたから、花小金井教会員でない方も、お姿を見られた方も、おられるでしょう。
水頭症という先天性の障がいを負われて、入所していた施設で、44歳の時に主イエスに出会って、それから37年。81歳の人生を生き抜かれて、天に帰って行かれました。
天に召される日まで、それほどお変わりなく、夜になって急に、主の元に召されていったように、伺っています。
ご家族の意向で、教会でのお別れができませんでしたので、今日の礼拝を、Yさんを覚えつつ、主に捧げたいと思います。
わたしたちも、だれ一人例外なく、やがて天に召されていきます。その時がいつなのか、どのようにやってくるのか、それは人間には分かりません。
ただ、その日がいつやってこようと、わたしたちが確信していることは、
この地上に命与え、地上の最後の日まで、守り導いて、天に招いてくださるお方は、
天の親は、わたしたち神の子を、この上なく愛してくださっているのだと。
それゆえに、決してみなしごにはしない。一人孤独になどなさらない。
天の親である神は、今も、そして天に召されるときも、召されたあとも、永遠に、ともにいてくださること。
わたしたちは、この神の愛と神が共におられることを信じて、
ここ集い礼拝する仲間です。
時に、とてもとても、神が愛であるとは思えない、過酷な試練、時代の嵐、戦争、災害、さまざまな不安の出来事のなかに、わたしたちは、投げ込まれることもあるでしょう。
目の前の悲しい出来事に、神など、この世に、おられるのかと、疑いの波に飲み込まれることがあるでしょう。
その時、それでもなお、いや、そうであるからこそ、なお、
神の愛にすがる。神が共におられることに、すがる。
神などいないと言いたくなる、今、この状況のただなかに、実に神は、共におられる。
なお、そのように信じ、平安をいただくことができるなら、それこそ、「救い」の現実そのものではないでしょうか。
わたしたちは、「信じるから救われる」というよりも、
むしろ反対に、「救われているゆえに、神を信じざるを得ない」
「神を信じることを、選びとるしかできない」ということなのではなにでしょうか。
そうであるからこそ、何千年もの長い時をへて、どのような状況のなかであっても、のりこえ、人は、神が愛であること、そして共におられることを、信じつづけてこれたのでしょう。
神に救われるために、信じつづけるという、人間の信心ではなく、
すでに、神に救われているからこそ、自分は、もはや、神から離れられない自分であることに、あるとき目覚めていく。
すでに、神のめぐみによって、救っていただいたことに目覚める。
救いへの目覚め。その招きが福音。よい知らせ。
そして、それがクリスマスの中心メッセージでもあります。
主イエスの母となる、マリア
彼女のおなかの中に宿る、この世を救う救い主は、「聖霊」によって宿りました。
マリアの夫となるヨセフは、夢の中で天使から、
「この子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」
と告げられ、眠りから目覚める。
そして眠りから目覚めたヨセフは、救いにも目覚め、神の言葉を信じ、受け入れていく。
この出来事のなかに、すでに、神の一方的な救いの出来事、神の恵み。神があなたとともにおられるという、
神の愛への信仰に、ヨセフは目覚めさせていただいた。
これはヨセフの信心深さが、彼を救ったというお話ではなく、ヨセフの信仰の決断の背後に、神の救い、神の恵みがあったことが、ここに語られているのです。
そこに至るまで、ヨセフは、身に覚えのないマリア妊娠に、痛み苦しみ、
考え抜いた結論が、もはや、ひそかに離縁するしか、お互いを救う道はないということでした。
マリアが、姦淫の罪で石打の刑にならないためにも、そしてヨセフ自身も、自分の社会的立場を守るためにも、「ひそかに離縁する」ことが、お互いを救うために、ただ一つ、残された選択だと彼は思った。
それは、人間の救い。ヨセフが求めているのは、人間が人間を救う。人間の救い。
しかしその後、夢の中で神の声を聞き、眠りから目覚めたヨセフは、神の救いに目覚めた、新しいヨセフとなっていた。
人間が人間を救うという救い。
そういう、人間の救いを超えた、神による救いへと。
その名を「イエス」つまり、「主は救う」と名づけられ、生まれてくるお方によって、
人間が救うという、「人間の救い」ではない。
神である、「主が救う」救い。
つまり、「神が人を、罪の束縛から救い、もはや神は、決して離れない、永遠に共にいてくださるという
「神の救い」が、イエスと名付けられる、マリアのお腹の子によって、この世にやってきたのだ。
この神の言葉を聞き、眠りから目覚めたヨセフは、
同時に、この「神の救い」にも目覚めていったのです。
ヨセフの最善の判断という、人間の救いを超えた、
「神の救い」に、ヨセフは目覚めたからこそ、マリアを妻として迎え入れていく。たとえ、その決断が、セフにとってマリアにとって、過酷な人生になるとしても、
「人間の救い」ではなく、「神の救い」に目覚めたヨセフは、
周囲の人々の疑惑や、陰口、非難、不利益を、マリアと共に背負って、生まれてくる子と共に生きる決断をするのです。
「人の救い」
人が思い描く「幸せ」
そういう、限界ある救いを超えた
神が、我々と共におられる救い。
その「さいわい」に目覚めたヨセフ。
彼の姿は、また、わたしたち一人一人の姿でもあるのではないでしょうか。
天に召されたYさんが、37年前、クリスチャンになったときの信仰告白が保管されていました。
その最初の文章は、こう始まっているのです。
「わたしは、生後一年の時に、日大病院で「おかしい」と言われ、1年8か月の時に東大病院で、「これは治らない」といわれ、母はがっかりしたそうです」と。
わたしはこの最初の数行を読んで、心が痛くなりました。
「母はがっかりしたそうです」という言葉の奥に、Yさんの心の痛みを感じたからです。
Yさんを産んだお母さんの苦労、治らない病と知らされたお母さんの悲しみは、わたしにはとうていわかるものではありません。
ただ、この告白をなさった当時44歳だったYさんが、御自分が病のうちに生まれたことを、「母はがっかりしたそうです」と、言葉になさったその気持ち、痛みを、わたしは感じ取ってしまったのです。
人が人を生み育てるということは、なんと重たいことでしょう。
限界、そして罪を抱えた人間は、完全に人を愛し、育てることができるでしょうか。
この世に、罪に痛み悲しむことのない家庭があるでしょうか。
人は、いちばん身近な人一人さえ、救うことなどできはしない。
人間は人間を救い得ないのです。むしろ罪はお互いを傷つけ、滅ぼしているではないですか。それがこの世界の、現実ではないでしょうか。
もし、この世に、神の救いがなければ、わたしたちに、何の希望があるというのでしょう。
この傷ついた世界を、罪から救うお方を、全世界の人々は、その心の奥底で求めているのではないでしょうか。
Yさんの信仰告白は、さらに続いてこう語られていきます。
・・・30歳まで家族と一緒に生活してきましたが、だんだん障害が重くなり、身の周りのこともできなくなってきました。そのため、4年前に施設に入れていただきました。施設に入ってしばらくたって、施設のクリスチャンの方々に集会に誘われ出席してみました。
はじめは全然わかりませんでしたが、何か神さまのお話に心を動かされました。・・・神さまが私のために独り子であられるイエス・キリストを十字架に付けられて、私の罪を赦してくださっておられるということが、実感としてわかってきました。・・・・わたしは難しいことはわかりませんが、ただイエスさまを信じていきたいと願っております。・・・」
Yさんを救うことができるのは「人間の救い」などではなかったのです。
難しいことはわからなくていい。難しいことが分からなければ、救われない救いでは、人は救われないのだから。
ただ、神は、我々のために、独り子イエスさまを、十字架に付け罪から救ってくださった。
人が神から離れてしまっているという、根源的な罪を、
人間にはどうしようもできない、救うことのできない、
この罪の滅びを、孤独を、苦しみを、
神は、主イエスの十字架において、救ってくださった。
難しいことはわからなくていい。ただ、このことさえわかったら、「神の救い」に目覚めたら、「さいわい」なのです。
信じたなら、救われるのではなく、
神に、救われ、信じるものになっている自分に、目覚めていく。
すでに、神はこの世に、神の救いを、主イエスを、与えてくださっているのです。
すでにこの世に、神の救いは、やってきているのです。
イエスさまが、マリアのおなかの中に宿った瞬間。
神の救いは、この世に宿ったのです。
神は、すでに、われらと共におられる、神となられたのです。
インマヌエル。神は我々と共におられる。
これこそ、「神の救い」の極み。
やがて過ぎ去っていく、人の救いではない。
永遠の神の、普遍的な、過ぎ去ることのない「神の救い」。
旧約聖書の、有名な、詩編23編のなかで、よく知られている一節、
「たとえ、死の蔭の谷を歩むときも、わたしは災いをおそれない」
という、この信仰者は、その理由をこう告げます。
「あなたがわたしと共にいてくださる」からだと。
主が共に。インマヌエルゆえにだと。
最後に、バッハの作曲した長大な、クリスマスオラトリオのなかの、
一曲の歌詞をご紹介して、メッセージを終わります。
「インマヌエル、ああなんと甘美な言葉でしょう。
主イエスはわが牧者
主イエスはわがいのち
主イエスはその身をわたしに下さった方
主イエスは夜も昼もわたしと共にいます方
主イエスよ信じます。たといこの命が果てるともわたしが朽ちぬことを
主のみ名がわたしにしるされ
そのみ名が死の恐れを追い払ってしまうのです。
わたしは死を恐れてよいのでしょうか
いいえ、あなたの甘美なおことばがあるかぎりは
わたしは死をも喜ぶべきでしょうか
そのとおり 救い主よ あなたが 然りと おっしゃるのですから」
「その子をイエスと名付けなさい。
この子は、自分の民を罪から救うからである。」