2015年最後の夕拝メッセージ

 昨日が今年最後の日曜日の礼拝。

午後は浦和にまで行き、夜に帰ってきて夕礼拝

正直、夜の礼拝はお休みにしてもいいんじゃないかと思っていたのだけど、

そんな時に限って、初めて集会に来られる方がいるものなんですね。

昨日も、そんな方がおられて、ちゃんと準備していてよかったなぁと思いました。

ここにも、アップしておきますね。

それでは、よいお年を


「主イエスのあたりまえ」(2015年12月27日 夕礼拝)
ルカ2章41節〜52節

今年最後の夕礼拝となりました。

クリスマスの間、ルカの福音書のクリスマスストーリーを読んできて、今朝の礼拝では、幼子イエス様と出会った、シメオンの出来事から、Nさんがみ言葉を語ってくださいました。

夕礼拝はその続きの個所を、読んで、今年の終わりの礼拝としたいと思います。

今、読んだか所は、もうすでにイエス様が12歳になっているのですね。少年イエスです。

イスラエルの男性は13歳で成人とみなされるそうです。12歳ですから、その前の年ですね。

成人になると、年に三回、エルサレムの神殿に宮詣でをすることが、きまっていたのだそうです。

信仰的な意味で、両親から自立していくということでしょう。

信仰的な自立とは、親が神を信じているように、自分も信じるのは当たり前だ、ということから、神と自分とがまっすぐに向き合うということなのだと思います。

イスラエルではそれが、13歳。今なら中学生くらいですね。わたしの中学生のこどもたちをみていても、それは思います。

小学生のときまでは、親と一緒に教会に行くということが、それほど抵抗なくなっていたのが、中学くらいから、難しくなる。

部活が始まるということもあるのでしょうけれども、親からの自立の意識は当然あるわけです。

むしろ、親のほうが子どもが自立していこうとしていることに、ついていけなくて、なんで礼拝にいかないんだと、中学生の子どもを叱ったりしがち。

わたしのことですよ。もう、乗り越えましたけれど。

反抗期とは、すなおだった子どもが、親に反抗を始めるというよりも、子どもの自立に、親が反抗しているのではないですか。


この一緒に毎年過ぎ越しの祭りに行った帰りに、少年イエスがいなくなって、探しだしたイエスさまに両親が、

「なぜこんなことをしてこれたのです。御覧なさい、おとうさんもわたしも心配して探していたのです」とマリアが叱るのも、

両親から離れ始めた、イエスさまの変化に、親がついていけていない。親のほうが、子どもの変化に、反抗している。そんな言葉に、聞こえます。


当然、親類や知人と一緒に、故郷に帰るその中に、いるべきなのに、なぜ、そこにいないのか。

あなたがいるべき場所に、どうしていないのか。おどろいて、心配して、探したじゃないかというマリア。

その「あなたがいるべき場所」を、今まで決めてきたのは、親である、マリアとヨセフだった。

その「あなたがいるべき場所」に、あなたがいないことに、イエスがいないことを、マリアは、まだ受け入れられないし、反抗しているのは、マリアのほう。

それは49節のイエス様の、冷静な言葉から、よくわかります。

2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」


「どうしてわたしを捜したのですか」(2:49)

 ヨセフとマリアは、息子イエスが当然いるべきだと思っていたところにいなかったことに、驚き、心配していたのに、そんな両親にイエスさまは

「どうしてわたしを捜したのですか」と平然と言うのです。

つまり、「当然いるべきところ」は、もはや地上の親がきめる場所から、天の親が導かれるところ、ここでは、「自分の父の家」と言われる神殿でしたけれども、


そんなイエス様が、「当然いるべきところ」というものが、地上の親の思いから、天の親の思いへと、なっていく。

そういう地上の親から、天の親へと、イエス様の意識が、移っていく。自立していく。そういう言葉として、響いてきます。

「どうしてわたしを捜したのですか」


親がいてほしいところに、子どもがいないということは、親にとって不安で、心配なことです。捜して当然。それを「なぜ探したのか」と逆に問われる。


このやり取りで連想するのは、イエス様の復活の時の出来事なんです。

十字架刑の三日の後、墓にあるべきイエス様の遺体が見当たらないと、戸惑う女性たちに、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」(24:5)と天使が語ったという場面があるのです。

死んだのだから、当然、墓の中にいるべきだ。なぜいないのか。いるはずだと、捜す。

それは、自分の考えのなかに、神を、イエス様を、閉じ込めていることでしょう。墓にいるはずだという、自分の考えに、とらわれているわけでしょう。

でも、そういう自分の考えにとらわれてしまう人間に向かって、神は、「なぜ、捜すのか」と問いかける。

言い換えて言えば、わたしたちが見失うことがあっても、イエスさまはいつもいるべきところにおられるから、大丈夫だということです。

エス様は、わたしたちの考えで、思いこみや、願いによって、どこにいるのかと、捜されるお方ではないのだ。

むしろ、一匹の羊を捜す羊飼いとして、わたしたちのことを、捜しておられるお方。それが聖書が伝えている、イエス様のイメージ。


ですから、いつも、いるべきところにいないのは、いなくなっているのは、むしろ、わたしたちのほうなんです。人間のほうなんです。

エス様は、いつも、いるべきところにいる。そのことを知らないのですか。それが、

「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」ということでしょう。

エス様が迷ったのではない。イエス様は、明らかにご自分が、天の父にとって、いるべきところにいるという意識がある。

それが、「当たり前」という言葉に表れている。天の父にいるようにとおかれた場所に、いないわけがない、という、「神の御心、計画による必然を表す言葉」なのだそうです。この「当たり前」と訳された言葉は。

つまり、ヨセフとマリアの「当たり前」と、イエスさまの「当たり前」が、どなたを「父」と呼ぶかをめぐって、ここで食い違ったという、場面なんですね。


わたしはこの御言葉をよんで、あらためて、自分にとっての「当たり前」。こうするのが「当たり前」という、自分の考えに、とらわれて、自由を失っていないか。縛られていないか。

その自分にとっての「当たり前」によって、むしろ、天の父が、わたしにいてほしいところ、してほしい「当たり前」が、わからなくなっていないか、ということを、思わされるわけです。


今までこうやってきたのが、当たり前。牧師にとって、こうするのが当たり前、それは、人に対しても、ここにいるのが当たり前、ああするのが当たり前。

その当たり前に、縛られて、そうならない現実や、人に向かって、「なぜこんなことをしてくれるのです。心配して、捜したのです」と言っていないだろうか。

これは、自分自身に、常に問われる、チャレンジですね。


自分の中で、「当たり前」という言葉が大きくなると、神が働らかれていることが、わからなくなってしまうでしょう。

今、ここに生きているのも、当たり前。しごとがあるのも当たり前。この立派な会堂があるのも当たり前。健康も当たり前。

そして、今、ここに集ってきたのも、当たり前。

そうやって、人間は、神が働いていることも、神に導かれていることも、神の言葉と出会っている感動も、どんどん失ってしまうわけです。

人間の発する、「当たり前」って怖い言葉ですよ。

むしろ、そんな自分の「当たり前」が壊されるような、不安な出来事や出会いに遭遇することがあるなら、それは実に恵みなんじゃないですか。

つらいこと、悲しいこと、苦しいこと。それは、わたしたちが「当たり前」と思っていた日常に、チャレンジしてくるでしょう。

決してあの日々は、「当たり前」じゃなかったのだと、神の恵みと奇跡に満ちていたのだと、気付かせてくれる、そんな神の「当たり前」の出来事と出会う。それは恵みです。


マリアは、イエス様の言葉を聞いたとき、その意味がわかりませんでした。
エス様が、なぜ神殿にいたのか。それが当たり前だといわれても、マリアには、神の当たり前は、その時は理解できなかった。

ただ、母マリアは、そのことを、心に納めたのです。

マリアは、イエスさまが生まれるときの、すべての出来事、それは「神の出来事」であり、奇跡ですが、それをいっさい、心に納めていました。

それから12年経って、息子イエスと共に、その成長を喜び歩んできたと思うのです。

でも、12年の歩みの中で、いつしかマリアは、あの最初のクリスマスの、誕生の出来事、不思議を忘れ、息子イエスのことを、わたしは全てわかっていると、思いこんでいたのかもしれません。

わたしはわかっているという思いこみが、そのわたしの「当たり前」が、ここで問われ、わかっていたはずの、息子を見失う出来事の中で、

マリアは戸惑い、不安を感じたのです。でも、この不安を、マリアは、また、自分の頭の中で考えて、つじつまを合わせたりしない。

現代だったっら、あの息子は、心が病んでいるのだとか、そんなつじつま合わせをしたかもしれない。病気だと思えば、むしろ安心できる。

自分の当たり前は、問われないから。わたしの当たり前に、イエスがはまらないのは、イエスのほうが病んでいるから。

そういうつじつま合わせを、マリアはしないのです。

そうではなく、マリアはそのわからないことを、そのまま、心に納める。


戸惑いも、不安もみんな、この出来事すべてを、心に浅める。受け止める。

神の出来事として、受け止めるのです。


この夕礼拝で、2015年の礼拝はすべて終わります。

皆さんも、今年一年を振り返って、さまざまな出来事出会いがあったでしょう。

その中には、自分にとっての「当たり前」がひっくりかえるような、思いもしなかったことが、ありえなかったことが、あったかもしれません。


今はわからない、その戸惑いも、不安も、

このマリアのように、心に納めて、この2015年を締めくくりましょう。

今はわからなくても、やがてわかる時が来ます。

大切なのは、わたしたちの「当たり前」を守ることではなく、

神の当たり前が、主イエスの当たり前が

神の御心が、わたしたちの人生に、この世界に、実現していくことであって、


その神の御心は、間違いなく、2015年も新たに前進したのです。

神は、この年も、わたしたちの人生に、働いてくださった。今もくださっている。

そのことに感謝をささげて、新しい2016年を迎えましょう。