「主イエスのもたらす火」(花小金井キリスト教会7月3日主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書12章49節-53節

 先週から今日まで、神学校週間です。今年は特に、男性グループが頑張りまして、先週の礼拝のご奉仕では、初めて司会をなさった方や、初めて、受付を、初めて献金当番を経験された、男性がおられたんですよ。新鮮でしたね。

そして、今日のお昼は、男性グループが用意した、カレーなんです。昨日男性たちが、わいわいいいながら、作りました。その時、ある方が、「これでしばらく、妻にえばれるぞ」って言っていましてね、なんだかかわいいなぁ。みんな見かけはおじさんだけど、中身は男の子なんだなぁって、おもいましたよ。

教会のお母様がたには、「はじめてのおつかい」に息子を送り出す気持ちで、どうぞ男性グループのしていることを、温かく、ほほえましく見守ってください。

「僕たち」、がんばりまりますから。


 さて、あの、主イエスの12人の弟子たちは、なぜか全員、男性でしたね。なぜなんだろうと思います。結局、彼らは全員、主イエスが捕まえられたときに、逃げてしまったではないですか。

むしろ、12人の弟子の中に、名前は入っていませんでしたけれども、マグダラのマリアとか、ヨハンナとか、主イエスの一行と一緒に行動して、いつも陰に日なたに支えていた女性たちがいて、

この女性たちこそが、最後まで逃げないで、主イエス様が十字架につけられていく、そのすべてのプロセスを一緒に歩んだでしょう。泣きながら後についていって、十字架の上で苦しむイエスを、じっと見つめ、ともに苦しみ、共に悲しんだのは、女性たちだったでしょう。

男は逃げたんですよ。みんな。

そういう意味で、実は、主イエスの十字架という出来事は、それまで一緒に歩んできた弟子たちを、二つに分けてしまった。

十字架とは、そういうもの。ある意味、その人の心の底に隠されていた本心が、あらわにされるれ現場なのです。

実は、本当の心があらわになると、バラバラになってしまう。そんな本心がはっきりさせられる現場の真ん中にこそ、十字架が立つ。

先ほど読まれた主イエスの言葉。

49節50節には、こうありました。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない「バプテスマ」がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」


主イエスが受けねばならない「バプテスマ」。それは、もちろん十字架の死、受難を意味しているのです。

マルコの福音書のなかには、こんな出来事がしるされています。

ある弟子たちが、イエス様に願ったのです。あなたが栄光を受けるとき、つまり、ローマという抑圧者を追い出し、イスラエルに自由と解放を与えてくださる時、あなたに従ってきたわたしを右に、左に、権力の座に座らせてください。そんな願いを、イエス様に告げた弟子たちに、

主は言われました。

「あなたがたは、自分がなにを願っているか、わかっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。

そう、主イエスが受けるバプテスマとは、十字架の苦難のこと。それがわからない男の弟子たち。

実はこの二人の弟子だけではなくて、弟子たちはみんなが野心家だったのです。なぜなら、このあと、お前たちだけ、抜け駆けしやがってと、他の弟子たちも腹を立てたと、書いてある。。

長い間、異邦人に抑圧され、苦しんできたイスラエルの人々の中に、解放、独立運動が高まっていたのは、確かなのです。

先日沖縄に行ったときも、アメリカ軍と日本政府に抑圧されている沖縄は、もう我慢の限界。怒りを越えたという、そういう雰囲気が満ち満ちていましたけれども、

強いものが支配し、弱いものが我慢を強いらることで成り立つ、「平和」って、なんなのかと、沖縄の人に問われながら、わたしは本土に帰ってきたわけでした。


主イエスの時代のイスラエルも、長い間ローマという巨大な力と、そのローマの顔色をみてばかりの、ユダヤの議員たちへの怒りは高まっていた。

メシアさえ来てくれれば、私たちはこういう理不尽な支配から、解放される。その神の民を解放する戦いは、まだか。


主イエスがこられた時代は、そういう不穏で、緊張が高まっていた時代なのです。次から次へと自称メシアが現れては、人々を扇動し、テロをやっていた。

そういう時代にあって、イエスさまに従ってきた弟子たちも、当然、そういう思いを、心の底に秘めていたわけです。

だからこそ、二人の弟子は、あなたがやがて、独立運動で勝利をおさめた暁には、わたしを右に、彼を左に、わたしを右大臣に、彼を左大臣にと言ったわけです。

ですから、いよいよ主イエスが権力者たちにとらえられそうになったとき、弟子たちは、剣を抜いたでしょう。ペトロは剣を抜いた。

主イエスが一緒にいれば、勝てると思っていたから。だから弟子たちは、最初はとても勇ましかったのです。

ところが、当の主イエスが、「剣をさやに収めなさい。剣を持つ者は、剣によって滅びる」などと言い出して、切りつけて傷つけた、相手の役人を癒したとおもったら、

何の抵抗もせず、つれていかれてしまった。

そのとたん、弟子たちは全員恐れて逃げ出したのです。


すっかり、当てが外れた。この方は、支配者たちと戦うメシアだと思っていたのに、違うのか。

力あるものを倒し、抑圧されているものに、「平和」と「自由」を与えるメシアではなかったのか。

十字架をまえに、男の弟子たちの期待は、見事裏切られた。だからみんな主イエスから逃げ出しました。

十字架をまえに、弟子たちの本心は明らかになったのです。そして、見事にバラバラになりました。

今日の聖書の個所で、イエス様があらかじめ、弟子たちに語っていたとおりになりました。

51節52節
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすためにきたと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである」


このイエスこそ、力ずくで敵を倒して、「平和」を実現すると思うのか。

力による平和。武力による平和。

そういう「平和」しかイメージできない人々、弟子たちをまえに、主イエスは言われるのです。

わたしは、そんな「平和」を、地上にもたらすために来たのではないのだと。

言い換えるならば、自分たちの「平和」のために、じゃまな敵を倒せ、滅ぼせという、そんな「平和」をもたらすために、きたのではないのだと。

ユダヤ人だけの「平和」をもたらすために、来たと思っているのかと。

自分たちこそが、神の民であるという民族意識。その血の繋がり、血統にこだわり、自分たちが救われるためんい、律法を守っていたユダヤの人々に、

主イエスは言われます。

そういうあなた方が願う「自分たちだけの平和」をもたらすために、わたしは来たのではないのだと。そうではなく、むしろ

そういう凝り固まった「仲間意識」を打ち壊し、解放し、

自分たちだけが、良ければよいと固まって意識を、「解放」し、「自由」にする。それがここで主イエスが「分裂だ」と言われた、また、そう訳された言葉の意味だと、わたしは解釈します。原語では、これは「分裂」という強いことばではなく、「分けられる」という意味でもあるからです。

主イエスは、人々を、「分裂」させ、バラバラにするために、来られたのではない。

そうではなく、たとえば、あの使徒パウロが、

エス様に出会うまでは、熱心なファリサイ派で、ユダヤ人だけが神に愛され、律法を熱心に守っている自分たちだけが救われるのだと、どんどん、凝り固まっていた、あのパウロが、

主イエスに出会って変えられて、砕かれ、やがて彼はこういうことを言うようにさえなった。

「もはやユダヤ人も、ギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」

ここにこそ、主イエスがもたらす平和がある。民族を越え、立場を越え、仲間の外は、敵なのだ、ではなく、仲間の外も仲間じゃないかと、そのように生きるようにさせる、

本当の「平和」をもたらす、「火」

その「火」をこの地上に投ずるために、主イエスはこられたのでくて、いったい何なのでしょう。

この「火」が、本当の平和をもたらすこの「神の火」が、すでに燃えていたらと、イエス様は言われます。しかし時代は、ますます逆方向を向いている。

人々は、ますます、力ずくで敵を倒す「平和」しかないのだと、いきり立っている。

その時代、主イエスは、そういう「力」ではない平和の「火」をもたらす「バプテスマ」を、

無力さのきわみである「受難の苦しみ」を味わうのだと、いわれるのです。


 この時、主イエスの言葉を聞いていた、12弟子たちは、男の弟子たちは、主イエスがなにを言っておられるのか、わからなかったでしょう。

もし、わかっていたら、十字架につけられていくイエス様をほっぽり投げて、逃げ出さなかったはずです。

「力」に期待し、力に頼る人は、弱い。力による「平和」はもろい。

むしろ、力をもたなかった、女性たちのほうが、無力にもかかわらず、逃げも隠れもせず、最後まで主イエスの後に、泣きながらでもついていった。


十字架。それは、無力さのきわみ。神の子が、全く無力に苦しめられることで、この地上にもたらされた平和への「火」。

それまでどこにも存在し得なかった「火」 どこを探してもなかった「火」 人の目にはあまりに無力で馬鹿らしく、ありえないと思われた「火」

十字架。


そして、今、この時代に生きるわたしたちも、この十字架という「火」をまえに、5人いれば、三人と二人に、考えが分けられていくような、そんな時代を生きているのではないでしょうか。

そうはいっても、現実はこうじゃないかと、「力」を求める人々と、あくまでも、十字架の無力さの元に、とどまろうとする人々と、分かれていく時代ではないですか。

十字架という「火」は、人の本心を明らかにします。本当にその人が、なにを信頼しているのかが、明らかになります。

それは、この世の一時的な「力」なのか、それとも目に見えない永遠の「神」なのか。

主イエスの十字架。その神が無力になったという、「火」は、わたしたちの心を探るのです。

わたしたちは、究極的には、何を信頼しているのか。何の上に、たって生きているのか。この「火」は明らかにします。


さて、週報にも書きましたけれども、先週沖縄にいってきたのですけれども、そこで平良修という85歳になる牧師さんに出会いました。

平良牧師は、宮古島で生まれて、高校時代にイエス様と出あい、沖縄で牧師になります。
その後、出会いの中で、一つの決意を固める。それは、自分は力の側ではなく、小さい者、弱い者、虐げられた者に寄り添い歩まれた、イエスの道に従うという決意です。

その主イエスに従うという決意を、ある意味決定的に表明した出来事がありました。それは、今から50年前。1966年11月2日

当時アメリカの占領下にあった沖縄で、絶対的な権力者である、「高等弁務官」が交代する。その新しい就任式に、祝福の祈りをせよ、平良牧師は呼ばれたときに、平良牧師は、こう祈ったのだそうです。

「神よ、これが最後の高等弁務官になりますように」


そして、「神よ、沖縄には、あなたのひとり子、イエスキリストが命をかけて愛しておられる100万の市民がおります。高等弁務官をして、これら市民の人権の尊厳の前に深く頭を垂れさせてください」と


相手が、地上においては、絶対的な権力をもっているとしても、

自分は圧倒的に小さく、無力であるとしても、

同じ神の前に頭(こうべ)をたれて祈るとき、そこには、「強い者も弱い者もない」

「豊かな者も、貧しい者もない」

「支配する者もされる者もない」

 主にあって、われわれは対等なのだ。

 この平良牧師の祈りには、この神の前にわたしたちは対等であるという確信が、満ち満ちている祈り。


主イエスは、53節で、こう言われました。

「父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる」

と。

「対立して分かれる」と訳されていますけれども、原語のギリシャ語をみてみると、最初に、「分けられるだろう」という言葉があって、

そして、父に向かって子。子に向かって父。そのように「向かって」という言葉でつながっている。


ですから、「対立」というより、むしろ、相対(あいたいする)する。お互いが向かい合う、という意味だと、わたしは読むのです。

わたしを信じるものと、信じない者は、家族の中でも、敵対すると、そういうことをイエス様がわざわざ言われているとは、わたしは読まないのです。

そうではなく、そうではなく、お互いどうし、一人ひとりの人格、個人として、分かれ、向かい合う。

そういうことが、主イエスのもたらす「火」によって起こる。わたしはそうイエス様は言われているのだろうと、ここを解釈します。


父と子、母と娘、しゅうとめと嫁。これはどれも強い立場と弱い立場の関係です。その強い立場の者が、弱い立場を押さえつけて、成り立っている家族の平和。

そういう偽りの「平和」のなかに、主イエスのもたらす「火」が投げ込まれるとき、

強いものも、弱いものも、同じ人間として、人格として、一人一人がちゃんと、わけられて、向き合うようになるのだ。

絶対的な支配者のまえであっても、圧倒的に小さく弱い牧師が、ちゃんと向き合い、あいたいし、恐れることなく、祈ることができるのも、

主イエスのもたらす「火」が、そうさせたのだ。

主イエスの「火」とは、互いに敵対させ、戦わせる「火」ではない。強いものも、弱いものも、神に愛されている、一人ひとりとして、ともに向き合う

愛と勇気を与える「火」なのだ


この、主イエスのもたらす「火」が、心に宿った一人一人は、父も子も、母も娘も、しゅうとめも嫁も、上司も部下も、先生も生徒も、

支配する者でも、される者でもなくなる。

互いに、主イエスの「火」を宿したものとして、わたしたちは、向き合い、愛しあい、共に生きる。

この真の解放、真の平和をもたらす「火」こそ、主イエスのもたらす「福音」の「火」

それは、無力なままに、殺された、あの主イエスの十字架によらなければ、もたらされることのなかった「火」。


わたしだけ、仲間だけという凝り固まった、罪の心を打ち砕く、神の愛と、犠牲の愛の「火」

神の子が、わたしたちを愛し、救うために十字架に死んだ。

この愛の「火」に、わたしたちは、心燃やされ、集う仲間です。

そして、今日、またあらたに、神の愛の「火」に、こころ燃やされたいのです。この「火」を広がることを祈り願うのです。

人の罪深い「力」によっては、「平和」は決してこないから。

神の子が苦しまれ、無力になってささげた命。この神の愛の「火」だけが、敵をも愛する「平和」を実現するから。

どうか、この礼拝において、聖霊によってわたしたちの心が、この主イエスのもたらす「火」によって、新たに燃やされますように。

伝道者パウロは、ガラテヤの教会に、こう宣言しました。

「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と。

あの弱さ、恥辱の極みの、十字架にこそ、神の力があらわれるから。

わたしたちも、この十字架こそ、神の無力さをこそ、誇ります。


わたしは、昔、ある説教のなかで、こんな話を聞いたことがあります。

イギリスの田舎町で、昔、遭難(そうなん)事故がありました。冬の猛吹雪きで、女性が遭難したのです。

吹雪がやみ、雪が少しこんもり盛りあがっているその舌に、その女性は倒れていました。赤ちゃんを抱いて。

お母さんのは、自分の来ていた服を赤ちゃんに着せて、温度を保って助けようとした。
 
お母さんは無くなり、赤ちゃんは助かったというお話です。

やがて大きくなり、自分が今生きている理由を、この出来事を知ったとき、

この子の心の中に、「火」が、ともらないでしょうか。

今、もしも、「わたしなど、いてもいなくても変わらない」と思っていたり、

「自分の人生も、命も、何の価値もない。」

「だれも愛してくれない。認めてくれない。」

そんな思いで、心がすっかり冷え切っているなら、ぜひ知っていただきたい。

わたしたちは、愛されているのです。

どんなに罪を抱え、けがれていようとも、自分で自分を捨ててしまいたいとしても、

わたしたちの命は、この上なく、神に愛されていることを。

その神の愛の証が、わたしたちの罪のために、十字架の上で死なれた、主イエスであることを。

どうか、その「火」が心に燃えますように。

主イエスのもたらす「火」に、こころ燃やされて、

人を恐れることも、人を恐れさせることも、

支配することも支配されることもない。

本当の平和への道を、わたしたちは、ここから歩み始めるのです。