サムエル記下6章12節〜23節
先週まで、サウル王とダビデのお話でした。今日は、だいぶお話としては飛んでしまって、もうサウルはペリシテ人との戦いで死んでしまい、ダビデは、イスラエルの12部族のユダ族の土地。彼の元々の出身地ですね。ダビデはそこに戻って、ユダの人々の王に就任します。
12部族のユダ以外の、ほかの部族の王様には、サウルの息子が40歳で即位するのですね。イシュ・ボシェトと言います。でもたった二年間だけでした。
ユダと、ユダ以外のイスラエル、つまり、サウル王家とダビデ王家は戦うことになって、だんだんサウル家が衰え、ダビデ家が勢力を増していくわけです。
サウル王家の王、イシュ・ボシェトは、すこし情けない人で、部下にアブネルという軍人がいるのですけれども、部下に強くいえなくて、すっかり言いなりになってしまう。部下のアブネルも、イシュ・ボシェトなんて、だめな上司だなと、見限ってしまって、うらぎって、敵のダビデのところにいって、私と契約を結べば、味方になるけど、どうする、と交渉したんです。
ダビデはその話に乗って、それじゃあ、そちら側のサウルの娘、ミカルをいただこうじゃないか。それで手打ちをしてやってもいい、ということになった。ダビデもなかなか策士なんですよ。
それで、サウルの娘ミカルは、もともとはダビデの妻だったのですが、ダビデが逃亡している間に、他の男を結婚させられていた。
そして、またここでその家庭から引き離されるようにして、軍人アブネルによって、ダビデのところに、ミカルはつれていかれるのです。
この軍人アブネルは、この後、ダビデ軍の長であったヨアブの、個人的な恨みで殺されてしまう。そこで、ダビデは焦るわけです。ここまでうまく交渉が進んでいたのに、相手の代表を殺してしまったのだから、交渉決裂。また戦争開始という、話になるところが、
ダビデはここでおもいっきり、相手の軍人アブネルの死を悼み、墓にむかって大声でなき、アブネルを悼む歌まで詠んだ。そして断食までした。
その姿をみたイスラエルの相手側の兵士たちは、ああ、アブネルを殺したのは、ダビデの命令じゃなかったのだ。ダビデが悪いんじゃないのだと、思ったし、むしろそんなダビデに好意さえ抱いたのです。
ピンチをチャンスに変える男、ダビデ、という感じです。
そして、ならず者が賞金ほしさからか、イシュ・ボシェトをおそって、殺して、その首をダビデでのところに持ってきてしまう。
そのならず者にとっては、相手の王の首を届けたのだから、何か褒美をもらえるとおもったのだけれど、ダビデは、そのならず者を殺して、イシュ・ボシェトを丁重に葬るのです。
こういうダビデの丁寧な振る舞いがあって、ユダ以外のイスラエルの人々も、ダビデこそわたしたちの王にふさわしいと納得して、油を注いで、全イスラエルの王に、ダビデは就任していくわけです。
うがった見方をするなら、ダビデという人は策士だな。人の心、群集心理をとてもうまく読んでいる人だな、という印象です。
サウルは、誰がなんと言おうが、わたしが王だ、というタイプだったし、ダビデの後のソロモンは、親の七光りと、ぶっ飛んだ知恵によって、王であることを認めさせたところがあるとすれば、ダビデという人は、とても人間の心がわかる人。敵をつくらず、人々を味方につけていくためには、どのように振る舞ったらいいのか、という人身術にたけていた人。
そんな印象がありますね。悪い意味ではなくて、むしろ人々の心、民の心を理解して、寄り添おうとした王だったからこそ、そういう意味で羊を愛する羊飼いの心をもっていたからこそ、ダビデは傑出した王であったし、彼の歩む道は祝福され、開かれていったのでしょう。
ただ、このときのダビデには、一つ欠けたものがあった。民を愛する王というだけでは、イスラエルの王にはなれないし、なったとしても持たない。ダビデ王家に、どうしても必要なものがありました。
それが、今日の聖書の箇所に登場した、「神の箱」。つまり神の臨在の見える印です。
実は、「神の箱」については、よくわからないことが多いのです。ダビデのあと、ソロモンの神殿に安置されたところまではわかるけれども、その後どこに行ってしまったのかは、わからない。もともとは、モーセが神様から十戒をいただいて、その十戒がかかれている板を納めた箱。
神様がそこにおられる、臨在の印の箱として、イスラエルの運ばれたり、安置されたり、戦争の時に、敵に奪われたり、奪還されたり、そういうことを繰り返していたけれども、ダビデはその「神の箱」を、まず真っ先に、エルサレムへと移したのです。
神こそが本当のイスラエルの王であって、目に見える王は、神がたてた存在にすぎない。
ダビデは、その信仰において、徹底していました。そこが、王という立場にしがみついてしまった、サウルとの大きな違いだったというのが、私の理解です。
ダビデには、今にいたる様々な状況、なきに等しい小さな羊飼いの少年であった自分が、様々な試練、逃亡生活、を経て、すべて守られ導かれ、今やイスラエルの王の立場に立たせられていることの背後に、主が常におられたこと、今の自分があるのは、ただただ、主の恵みであることを、誰よりも実感させられてきた、そういう人生をダビデは生きてきた。
使徒パウロも、今の自分があるのは、神の恵みですといいました。かつて、教会を迫害したパウロが、今や、その教会を導くリーダーとして働かせていただいている。ああ、神の恵み以外のなにものでもない。
今日まで神学校週間でした。教会に仕える。神学生。牧師。教会のすべての働き人。奉仕者に共通していえることは、今、その立場に置いたのは、神であるという意識。主人は神であると、それぞれにとっての、「主の箱」を意識するということでしょう。
ダビデが今日の聖書の箇所で、「神の箱」をエルサレムに運び込むことを、心から喜び、祝ったこと。
それは、神を自分の味方に付けた。神の祝福を手に入れたと、ダビデは喜んでいるのではなくて、
今、この自分を王にしたお方が、今までの人生のすべてを導き、イスラエルを導き、愛しておられるお方を、すべての祝福の源であるお方を、お迎えすることができた。
それはそれは喜びであった。今の自分があるのは、ただただ、主の恵みだと、本当に実感してきたダビデにとって、主の御前で、子どものように、うれしくて踊りまわったのは、なんにも不思議なことはありません。
でも、その姿を見たサウルの娘ミカルは、20節でこう言いました。
「今日のイスラエル王はご立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように」
サウルの娘、ミカルはダビデのようには喜べなかった。神の箱を、主がそばにおられることを、彼女は一緒に喜べなかった。
その気持ちもわからないではないのです。
ミカルは、もともとダビデを愛し、サウルもそのミカルの気持ちを利用して、ダビデと結婚させて、ダビデを引き入れようとした。でも、ミカルはダビデを愛していたのは間違いないのです。その後父サウルの策略から、夫ダビデをミカルは守ったこともあるからです(1サム19:11〜)
しかし、イスラエルの王であった父サウルは殺され、ほかの男に嫁がされていた自分は、また、ダビデの妻に引き戻された。彼女の人生は、自分の思い通りにはならず、周りに振り回されつづけた人生にも見えるからです。
ミカルは、自分のプライドのゆえに、こういう人生に導いた神を、ダビデのようには喜べなかったのかもしれません。
今も、今までも、神がともにいて導いてくださったと素直に子どものように、神の御前に踊るダビデと、皮肉いっぱいのミカル。
わたしは、この皮肉のことばしかでてこなかったミカルの心の中に、自分の思い通りにはならなかった人生を受け入れられない恨みのようなものを、感じてしまいます。
さて、今、神の箱はありません。わたしたちにとっての神の箱は、主イエスのことではないですか。神の御心、神の臨在をしめしてくださった、主イエスこそ、わたしたちにとっての、神の箱でしょう。
ですから、わたしたちは、主イエスを思うたびに、礼拝する度に、自分に与えられた人生を、今あるは主の恵みと、ダビデのように心踊らせ、子どものように喜びあう仲間です。
現実は、自分の思い通りになどならない。
ミカルの人生は確かに、彼女の思い通りになどならなかった。でもそれはダビデも同じ。
むしろ、自分の罪深い思い通りになど、ならないからこそ、神の御心が実現してきたのだと、神の御前に、喜びたい。
今、ダビデをイスラエルの王に立てたのも、また、ミカルを、イスラエルの王の妻に立てたのも、同じ神であるのだから。
その自分に与えられた、今までの道のりと、今の立場を、主からの恵みと受け取り喜ぶダビデと、受け取れないミカルのすがたは、そのまま、わたしたちの姿にもオーバーラップするでしょう。
21節でダビデはミカルにいいます。
「そうだ。おまえの父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ」
厳しいダビデの言い方ですけれども、ダビデは今の自分を神の恵みと受け入れているし、ですから、つづいてダビデは22節で
「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低いものとなろう。しかし、おまえのいうはしためたちからは、敬われるだろう」という。
つまり、神様の前に、自分のプライドなど、どうでもいい。バカにされ、いやしめられて結構。自分自身でさえ、自分が偉いなどと、ちっとも思えない。どうしようもないんですよ。
でも、神様の御前に、自分のプライドから解放されている人を、ある人はちゃんとみぬいて、敬うし、わかってくれるものだということでしょう。
ミカルは自分のプライドに縛られ、ダビデを見下さずにはおれず、夫ダビデと心通じることも、子も得ることなく、亡くなっていったのでしょう。
どんな立場であろうと、どんな人生を歩んできたとしても、
主の御前に、主イエスの御前に、
心一つになれる人がいる。
一緒に感謝し、一緒に心踊らせる人がいる。
これに勝る喜びは、ほかにないのです。