「わたしたちのためにうまれるお方」(花小金井キリスト教会2015年11月29日主日礼拝メッセージ)

shuichifujii2015-11-29

イザヤ書8章23節〜9章6節

昨日は、ここで子ども会をしたんです。「ハレルヤキッズ」と、2年生の息子が命名しまして、昨日は二人友達も連れて来てくれました。

この高い天井の礼拝堂で、子どもたちと、紙飛行機を飛ばしたんですよ。聖なる礼拝堂で、紙飛行機。罰が当たりますかね?

教会も初めて、イエスさまの話しを聞くのも初めて。そんな子と教会で出会うと、心が静かに燃えてくるんです。よし、神さまの愛を伝えるぞっと。

蒔かない種は、実らないじゃないですか。福音の言葉も、語られることがなければ、愛は実らないじゃないですか。でも、福音の種は、蒔きさえすれば、あとは神さまがちゃんと実らせてくださる。神さまが働いてくださる、救ってくださると信じて、期待しつつ、待つことができるでしょう。

「待つ」といえば、今日から、アドベントです。救い主がこられる、クリスマスを待ち望み、わたしたちは日々を過ごします。

それはその昔、旧約聖書の時代。天の父なる神さまが、イスラエルという小さな民族を選ばれて、

預言者たちを通して、やがて全世界を救われる、神の救いがやってくる。救い主が来られると、

救いの約束の「言葉」という種を、蒔いていてくださった。

その蒔かれた預言という種が、時満ちて、約2000年前、マリアのなかに、イエスというみどりごとして、実った。

神の救いの種が、実り、実現した。わたしたちは、そう信じてここに集っています。

神の言葉の約束は、神が実現なさる。

神が実現するのだから、人はその実現を待ちつつ、目の前が厳しい現実でも、希望をもって生きていきます。

「待つ」とは、神の言葉を信じ、神に希望をもつ人の、たたずまいでしょう。

さて、今日、朗読された、預言者イザヤが語った預言の言葉。

エスさまのお生まれになる約700年ほど前、イスラエルの民のなかに蒔かれた、神の救いの種の言葉

9章1節で、イザヤは、このように語りました。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」

「闇の中を歩む民」とは、誰のことでしょうか?

 それは、まず、当時のユダヤの人々。。巨大な国、アッシリアに侵略されるのではないかと恐れていた、南ユダの人々を指しています。

 短く説明しましょう。今から約3000の昔、神を信じるイスラエルの人々は、サウル、次にダビデを王とする国を作ったのです。

 ダビデの王国は、いつまでも続くと思われたのに、息子のソロモン王が亡くなったあと、イスラエルは、南と北に分裂してしまいます。

 北イスラエルと南ユダ王国です。

 その北イスラエルが、紀元8世紀ころ、巨大なアッシリア帝国に責めこまれ、侵略されてしまうのです。

 残されたほうの、南ユダは、当然、次は、自分たちが侵略される番だ、わたしたちは大丈夫なのかと、国の未来に、言い知れない不安や恐れという、闇の中に落とされていた。
 
 そういう危機的な時代の、南ユダの人々に、神の言葉を語る預言者として、イザヤは神に召されたのでした。

 イザヤ書の、8章23節にはこう書かれていました。

「先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」と、ここでイザヤが言っているのは、すでにアッシリア帝国に侵略されてしまった、北イスラエルのことです。

 今、その地は、外国人に占領され、異教の礼拝さえなされている。イスラエルの地は辱めを受けているのだ。そう語るイザヤ。

 主なる神に選ばれ、愛され、育てられてきたイスラエルの民。

 しかし、そのイスラエルの歴史は、その主の愛を裏切り、背き続けてきた、背信の歴史でした。

 なんども、預言者が立てられては、神に立ち返るようにと、イスラエルの民は、主の語りかけを受けますのに、

 神に愛されながら、神にそむき続けるイスラエルは、やがてその自らの生き方が蒔いた種を、自らが刈り取るようにして、

 王国は分裂し、北イスラエルは、アッシリアの侵略を受けて、国そのものが、滅びてしまうのです。

 しかし、聖書は、その出来事のことを、単なる、神の裁き、罰であるかのように、単純な話しにしてしまわないのです。

 むしろ、その罪の苦しみのゆえに「闇の中を歩む民」が、やがて「大いなる光」を見るのだと、イザヤは希望を宣言します。

9章1節
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」

 今の時代を生きるわたしたちも、ある意味において、イザヤの時代の南ユダが、次は自分たちが戦争に巻き込まれるのではないかというような、不安や恐れが、他人ごととは思えないような、不穏な時代に、生かされているのではないでしょうか。

それは、あの国が、この国が悪い、という話しをする前に、私たち自身が、神の愛も、神の御心も、考えることなく、背きつづけてしまったゆえなのかもしれません。

テロが引き起こされるような、不信と、恨みをふくらませるような、社会にしてきたのかもしれません。

預言者イザヤは、神に選ばれ、神に従ってきた、かつてのイスラエルの民が、変わってしまったことを嘆き、1章21節から、こう語ります。

1章21節から

1:21 どうして、遊女になってしまったのか/忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに/今では人殺しばかりだ。
1:22 お前の銀は金滓となり/良いぶどう酒は水で薄められている。
1:23 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない


これは、イスラエルのことを言っているのか? わたしたちのことをいっているのではないかと、錯覚してしまいます。

そのような人の愚かさによる、罪の実を刈り取らされるような、イスラエルの民。

アッシリアの暴力に震える、南ユダ。

そんなまさに「暗闇の中を歩む民」に、しかし、イザヤは神の救いの言葉を、宣言するのです。

9章1節
「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と

神の救いの宣言を告げるのです。

これは、ある意味、この暗闇の中こそが、神の救いの光を見る、現場なのだということではないでしょうか

「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見」るのだから。

今、闇の中にいるのなら、それこそ、神の大いなる光を見る現場となる。

その「大いなる光」とは、私たちを恐れさせる、あの敵、あの状況、あの国を、

力づくで取り除くという、そんな光のことではありません。


イザヤは続けます。
2節

9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛(くびき)、肩を打つ杖、虐げる者の鞭(むち)を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。


「大いなる光」がもたらす喜び。それは、あの、「ミディアンの日」のように、敵から解放してくれることだ、とイザヤは言います。

どういうことでしょう。「ミディアンの日」とはなんでしょう。

それは、その昔、ギデオンというイスラエルのリーダーよって、イスラエルが、ミディアン人に勝利した戦いのことを、いっているのです。

その勝利とは、軍事力による勝利ではありませんでした。圧倒的な力を誇るミディアン人に対し、ギデオン率いるイスラエルは、2万人の兵士を用意しながら、神から、それは多すぎると、減らされ、減らされ、ついに300人になったという出来事のことなのです。

その出来事が物語っているのは、人間の作りだす力、軍事の力が、イスラエルを救いだすのではないということです。

人間の究極的な恐れ。命を失う恐れから解放し、救いだすのは、人間の作りだす力ではないのだ。兵力が、命の危機から、救いだすのではないのだ。

むしろ人間の作りだす力が、むなしくされて、無力にされていくところに、神の救いが、神による救いが起こる。

神こそが、イスラエルを救う。解放する。そのことを決定的に示した、信仰の出来事。それが「ミディアンの日」ということの意味。


9:3 彼らの負う軛(くびき)、肩を打つ杖、虐げる者の鞭(むち)を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。

人を奴隷のように苦しめる、くびき、たたく杖、虐げる鞭。

人の暴力と支配から、解放するのは、同じ人間による暴力と支配ではなく、神の救い。

「暗闇の中を歩む民がみる、おおいなる光」とは、

人の無力さのなかにこそ、働かれる、神による解放の業。


4節では、そのことをさらにこうイザヤは表現します。


9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。

「戦いの道具」は、もういらないのだ。

それが「闇の中を歩む民がみる、大いなる光」なのだから。

神はやがて、戦いの道具を必要としなくしてくださる。

自分の力で、自分を守れと、際限のない武装、軍事の競争からときはなつ「おおいなる光」

むしろ、あえて、自分の力を捨てさせることさえさせる「おおいなる光」

「闇の中に歩む民がみることになる、大いなる光」こそ、神による救い。

やがて神ご自身が、力を捨てて、全くの無力なみどり子として、この地に生まれる奇跡によってのみ、

実現する救い。神による救い。


さらにイザヤは預言します

5節
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

巨大な敵を前に、恐れおののく人々に、イザヤはひとりのみどり子が生まれるのだといいます。

「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」とさえ唱えられる、

権威ある方が。まさに神ご自身が、無力なみどりごとして生まれるのだと。

いえ、イザヤは、「生まれる」ではなく「生まれた」と過去形で宣言します。過去の出来事として語るほど、確実なことだから。

力ある方が、あえて無力なみどり子として生まれるからこそ、神の救いなのだから。

これこそが、「闇の中を歩む民がみた、大いなる光」だから。

この「大いなる光」を、幼子イエスのなかに見ることのできる人は、幸いです。

最後には、人々にあざけられ、捨てられ、無力に十字架につけられていった、

主イエスの中に、この「大いなる光」を見ることができる人は、幸いです。

イザヤはこのお方を、「苦難の僕」であると、53章で預言します。

「わたしたちのために生まれるお方」は、「わたしたちのために苦しまれる方」なのだと。

そのことに気づいた人は、実に幸いです。この方こそ「大いなる光」であると悟った人々は、幸いです。

人間の罪のために、

それは、言葉であれ、あらゆる暴力であれ、だれかを傷つけずにはいられない、罪を、

十字架につけられていくなかで、罵られ、唾を吐かれ、鞭うたれ、そのすべての罪を暴力を、すべて受け止め、ひと言の言いかえさず、報復することもなく、むしろ赦しを祈り、死んでいかれた方だけが、実現できる救い。

罪と暴力の連鎖を、断ちきる、神の平和が、実現するために、

そのために、ひとりのみどり子が、うまれることを、

信じ、希望し、待ち望む人は、幸いです。


今から9年前。2006年に、アメリカのペンシルベニア州にある、アーミッシュという、クリスチャンの共同体の学校が襲撃される事件がありました。
御記憶の方もおられるでしょう。

銃で撃たれ、亡くなったのは女の子5人。

生き残った子どもたちの証言で、なくなった中で一番年上、13歳のマリアン・フィッシャーさんが、

教室にいた他の女の子10人を救いたくて、「私から撃ってください」と進み出たことを知りました。
それは、マリアンさんの妹のバービーさんが、後日、病院から退院して、そう証言したのです。

実は、そのバービーさんも「次は私を」といって、撃たれていたのでした。

彼女たちは、自分より小さな子どもたちを、助けたい。ただその一心だったのです。

この犯人はつかまりましたが、この人の家族が、すぐ近くに住んでいたのです。

子どもたちを殺されたアーミツシュの人たちは、この犯人の家族を、事件のすぐ後、訪ねます。

それは、報復のためではありません。自分たちは、あなたがたを許していると、つたえるためでした。

遺族のなかには、この犯人の家族を、葬儀にさえ招きました。赦しと愛を伝えるために。


当時、この出来事は、世界中の人々を驚かせ、深い感動を与えたのです。

それは、静かに、目立つことなく生きていた、素朴な人々の、その強さではなく、弱さであり無力さのなかに、

人の罪の苦しみを受けとめ、報復することもなく、むしろ赦しさえ祈った彼らの、その存在の内側に、

人々は主イエスを見たからではないでしょうか。その人たちの力ではなく、その人たちのなかにある、神の救いを

「闇の中に輝く、大いなる光」を、この世界は見たのではないでしょうか。


「ひとりのみどりごが、わたしたちのためにうまれた」

そのお方は、持っている力を行使するのではなく、むしろ捨てさり、誰かの罪のために、苦しむためにうまれたお方。

「罪」と「暴力」の連鎖を、「愛」と「赦し」の連鎖へと、変えてくださる、神の救いを実現するために

絶えることのない平和への道を、開いてくださるために、


今日も誰かの中に、そして、わたしたち1人1人のなかに、

あらたに生まれてくださるお方

主イエスキリスト。平和の君


「ひとりのみどりごが わたしたちのために生まれた」



祈りましょう