イザヤ書8章23節〜9章6節
昨日は、ここで子ども会をしたんです。「ハレルヤキッズ」と、2年生の息子が命名しまして、昨日は二人友達も連れて来てくれました。
この高い天井の礼拝堂で、子どもたちと、紙飛行機を飛ばしたんですよ。聖なる礼拝堂で、紙飛行機。罰が当たりますかね?
教会も初めて、イエスさまの話しを聞くのも初めて。そんな子と教会で出会うと、心が静かに燃えてくるんです。よし、神さまの愛を伝えるぞっと。
蒔かない種は、実らないじゃないですか。福音の言葉も、語られることがなければ、愛は実らないじゃないですか。でも、福音の種は、蒔きさえすれば、あとは神さまがちゃんと実らせてくださる。神さまが働いてくださる、救ってくださると信じて、期待しつつ、待つことができるでしょう。
「待つ」といえば、今日から、アドベントです。救い主がこられる、クリスマスを待ち望み、わたしたちは日々を過ごします。
それはその昔、旧約聖書の時代。天の父なる神さまが、イスラエルという小さな民族を選ばれて、
預言者たちを通して、やがて全世界を救われる、神の救いがやってくる。救い主が来られると、
救いの約束の「言葉」という種を、蒔いていてくださった。
その蒔かれた預言という種が、時満ちて、約2000年前、マリアのなかに、イエスというみどりごとして、実った。
神の救いの種が、実り、実現した。わたしたちは、そう信じてここに集っています。
神の言葉の約束は、神が実現なさる。
神が実現するのだから、人はその実現を待ちつつ、目の前が厳しい現実でも、希望をもって生きていきます。
「待つ」とは、神の言葉を信じ、神に希望をもつ人の、たたずまいでしょう。
さて、今日、朗読された、預言者イザヤが語った預言の言葉。
イエスさまのお生まれになる約700年ほど前、イスラエルの民のなかに蒔かれた、神の救いの種の言葉
9章1節で、イザヤは、このように語りました。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」
「闇の中を歩む民」とは、誰のことでしょうか?
それは、まず、当時のユダヤの人々。。巨大な国、アッシリアに侵略されるのではないかと恐れていた、南ユダの人々を指しています。
短く説明しましょう。今から約3000の昔、神を信じるイスラエルの人々は、サウル、次にダビデを王とする国を作ったのです。
ダビデの王国は、いつまでも続くと思われたのに、息子のソロモン王が亡くなったあと、イスラエルは、南と北に分裂してしまいます。
その北イスラエルが、紀元8世紀ころ、巨大なアッシリア帝国に責めこまれ、侵略されてしまうのです。
残されたほうの、南ユダは、当然、次は、自分たちが侵略される番だ、わたしたちは大丈夫なのかと、国の未来に、言い知れない不安や恐れという、闇の中に落とされていた。
そういう危機的な時代の、南ユダの人々に、神の言葉を語る預言者として、イザヤは神に召されたのでした。
イザヤ書の、8章23節にはこう書かれていました。
「先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」と、ここでイザヤが言っているのは、すでにアッシリア帝国に侵略されてしまった、北イスラエルのことです。
今、その地は、外国人に占領され、異教の礼拝さえなされている。イスラエルの地は辱めを受けているのだ。そう語るイザヤ。
主なる神に選ばれ、愛され、育てられてきたイスラエルの民。
しかし、そのイスラエルの歴史は、その主の愛を裏切り、背き続けてきた、背信の歴史でした。
なんども、預言者が立てられては、神に立ち返るようにと、イスラエルの民は、主の語りかけを受けますのに、
神に愛されながら、神にそむき続けるイスラエルは、やがてその自らの生き方が蒔いた種を、自らが刈り取るようにして、
王国は分裂し、北イスラエルは、アッシリアの侵略を受けて、国そのものが、滅びてしまうのです。
しかし、聖書は、その出来事のことを、単なる、神の裁き、罰であるかのように、単純な話しにしてしまわないのです。
むしろ、その罪の苦しみのゆえに「闇の中を歩む民」が、やがて「大いなる光」を見るのだと、イザヤは希望を宣言します。
9章1節
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」
今の時代を生きるわたしたちも、ある意味において、イザヤの時代の南ユダが、次は自分たちが戦争に巻き込まれるのではないかというような、不安や恐れが、他人ごととは思えないような、不穏な時代に、生かされているのではないでしょうか。
それは、あの国が、この国が悪い、という話しをする前に、私たち自身が、神の愛も、神の御心も、考えることなく、背きつづけてしまったゆえなのかもしれません。
テロが引き起こされるような、不信と、恨みをふくらませるような、社会にしてきたのかもしれません。
預言者イザヤは、神に選ばれ、神に従ってきた、かつてのイスラエルの民が、変わってしまったことを嘆き、1章21節から、こう語ります。
1章21節から
1:21 どうして、遊女になってしまったのか/忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに/今では人殺しばかりだ。
1:22 お前の銀は金滓となり/良いぶどう酒は水で薄められている。
1:23 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない
これは、イスラエルのことを言っているのか? わたしたちのことをいっているのではないかと、錯覚してしまいます。
そのような人の愚かさによる、罪の実を刈り取らされるような、イスラエルの民。
アッシリアの暴力に震える、南ユダ。
そんなまさに「暗闇の中を歩む民」に、しかし、イザヤは神の救いの言葉を、宣言するのです。
9章1節
「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と
神の救いの宣言を告げるのです。
これは、ある意味、この暗闇の中こそが、神の救いの光を見る、現場なのだということではないでしょうか
「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見」るのだから。
今、闇の中にいるのなら、それこそ、神の大いなる光を見る現場となる。
その「大いなる光」とは、私たちを恐れさせる、あの敵、あの状況、あの国を、
力づくで取り除くという、そんな光のことではありません。
イザヤは続けます。
2節
9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛(くびき)、肩を打つ杖、虐げる者の鞭(むち)を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
「大いなる光」がもたらす喜び。それは、あの、「ミディアンの日」のように、敵から解放してくれることだ、とイザヤは言います。
どういうことでしょう。「ミディアンの日」とはなんでしょう。
それは、その昔、ギデオンというイスラエルのリーダーよって、イスラエルが、ミディアン人に勝利した戦いのことを、いっているのです。
その勝利とは、軍事力による勝利ではありませんでした。圧倒的な力を誇るミディアン人に対し、ギデオン率いるイスラエルは、2万人の兵士を用意しながら、神から、それは多すぎると、減らされ、減らされ、ついに300人になったという出来事のことなのです。
その出来事が物語っているのは、人間の作りだす力、軍事の力が、イスラエルを救いだすのではないということです。
人間の究極的な恐れ。命を失う恐れから解放し、救いだすのは、人間の作りだす力ではないのだ。兵力が、命の危機から、救いだすのではないのだ。
むしろ人間の作りだす力が、むなしくされて、無力にされていくところに、神の救いが、神による救いが起こる。
神こそが、イスラエルを救う。解放する。そのことを決定的に示した、信仰の出来事。それが「ミディアンの日」ということの意味。
9:3 彼らの負う軛(くびき)、肩を打つ杖、虐げる者の鞭(むち)を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
人を奴隷のように苦しめる、くびき、たたく杖、虐げる鞭。
人の暴力と支配から、解放するのは、同じ人間による暴力と支配ではなく、神の救い。
「暗闇の中を歩む民がみる、おおいなる光」とは、
人の無力さのなかにこそ、働かれる、神による解放の業。
4節では、そのことをさらにこうイザヤは表現します。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
「戦いの道具」は、もういらないのだ。
それが「闇の中を歩む民がみる、大いなる光」なのだから。
神はやがて、戦いの道具を必要としなくしてくださる。
自分の力で、自分を守れと、際限のない武装、軍事の競争からときはなつ「おおいなる光」
むしろ、あえて、自分の力を捨てさせることさえさせる「おおいなる光」
「闇の中に歩む民がみることになる、大いなる光」こそ、神による救い。
やがて神ご自身が、力を捨てて、全くの無力なみどり子として、この地に生まれる奇跡によってのみ、
実現する救い。神による救い。
さらにイザヤは預言します
5節
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
巨大な敵を前に、恐れおののく人々に、イザヤはひとりのみどり子が生まれるのだといいます。
「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」とさえ唱えられる、
権威ある方が。まさに神ご自身が、無力なみどりごとして生まれるのだと。
いえ、イザヤは、「生まれる」ではなく「生まれた」と過去形で宣言します。過去の出来事として語るほど、確実なことだから。
力ある方が、あえて無力なみどり子として生まれるからこそ、神の救いなのだから。
これこそが、「闇の中を歩む民がみた、大いなる光」だから。
この「大いなる光」を、幼子イエスのなかに見ることのできる人は、幸いです。
最後には、人々にあざけられ、捨てられ、無力に十字架につけられていった、
主イエスの中に、この「大いなる光」を見ることができる人は、幸いです。
イザヤはこのお方を、「苦難の僕」であると、53章で預言します。
「わたしたちのために生まれるお方」は、「わたしたちのために苦しまれる方」なのだと。
そのことに気づいた人は、実に幸いです。この方こそ「大いなる光」であると悟った人々は、幸いです。
人間の罪のために、
それは、言葉であれ、あらゆる暴力であれ、だれかを傷つけずにはいられない、罪を、
十字架につけられていくなかで、罵られ、唾を吐かれ、鞭うたれ、そのすべての罪を暴力を、すべて受け止め、ひと言の言いかえさず、報復することもなく、むしろ赦しを祈り、死んでいかれた方だけが、実現できる救い。
罪と暴力の連鎖を、断ちきる、神の平和が、実現するために、
そのために、ひとりのみどり子が、うまれることを、
信じ、希望し、待ち望む人は、幸いです。
今から9年前。2006年に、アメリカのペンシルベニア州にある、アーミッシュという、クリスチャンの共同体の学校が襲撃される事件がありました。
御記憶の方もおられるでしょう。
銃で撃たれ、亡くなったのは女の子5人。
生き残った子どもたちの証言で、なくなった中で一番年上、13歳のマリアン・フィッシャーさんが、
教室にいた他の女の子10人を救いたくて、「私から撃ってください」と進み出たことを知りました。
それは、マリアンさんの妹のバービーさんが、後日、病院から退院して、そう証言したのです。
実は、そのバービーさんも「次は私を」といって、撃たれていたのでした。
彼女たちは、自分より小さな子どもたちを、助けたい。ただその一心だったのです。
この犯人はつかまりましたが、この人の家族が、すぐ近くに住んでいたのです。
子どもたちを殺されたアーミツシュの人たちは、この犯人の家族を、事件のすぐ後、訪ねます。
それは、報復のためではありません。自分たちは、あなたがたを許していると、つたえるためでした。
遺族のなかには、この犯人の家族を、葬儀にさえ招きました。赦しと愛を伝えるために。
当時、この出来事は、世界中の人々を驚かせ、深い感動を与えたのです。
それは、静かに、目立つことなく生きていた、素朴な人々の、その強さではなく、弱さであり無力さのなかに、
人の罪の苦しみを受けとめ、報復することもなく、むしろ赦しさえ祈った彼らの、その存在の内側に、
人々は主イエスを見たからではないでしょうか。その人たちの力ではなく、その人たちのなかにある、神の救いを
「闇の中に輝く、大いなる光」を、この世界は見たのではないでしょうか。
「ひとりのみどりごが、わたしたちのためにうまれた」
そのお方は、持っている力を行使するのではなく、むしろ捨てさり、誰かの罪のために、苦しむためにうまれたお方。
「罪」と「暴力」の連鎖を、「愛」と「赦し」の連鎖へと、変えてくださる、神の救いを実現するために
絶えることのない平和への道を、開いてくださるために、
今日も誰かの中に、そして、わたしたち1人1人のなかに、
あらたに生まれてくださるお方
主イエスキリスト。平和の君
「ひとりのみどりごが わたしたちのために生まれた」
祈りましょう