救いのセーフティネット

今日の黙想

イザヤ12章

「その日には、あなたは言うであろう。
『主よ、わたしはあなたに感謝します。
あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが
その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
見よ、わたしを救われる神。
わたしは信頼して、恐れない。
主こそわたしの力、わたしの歌
わたしの救いとなってくださった。』
あなたたちは喜びのうちに
救いの泉から水を汲む」1節〜3節

イスラエルの民の救いを予告することば。

主から叱られるような日々も、やがて慰め、感謝へと至る。

その主の救いへの信頼が、いわば、主から叱られる前に語られているということ

神様の愛という、変わることのない絶対的な救いという、セイフティーネットがあるからこそ、

むしろ神の怒りという事柄を、人間が語ることも許されるし、そのように受け止めることもできる。

救いへの信頼の無いところで、神の怒りが語られるなら、人は滅びるしかないわけだから。

親は愛するからこそ、子を叱ることもある。

でも、叱りっぱなしの親は、子をいじけさせ、だめにしてしまうでしょう。

叱られても、その向こう側に、変わることのない愛を、子が感じているなら、そのことばは、きっと子に届くはず。

「見よ、わたしを救われる神。
わたしは信頼して、恐れない」


今、叱られている、イスラエルという神の子も、

やがて叱っているときも

そうでないときも、

何一つ変わることのなかった、天の親の愛に気づいて、

「主こそわたしの力、わたしの歌
わたしの救いとなってくださった」


と歌う日が来ると預言するイザヤ。

わたしたちもまた、きっとそうなのだろう。