「天地を造られた方こそ神」(2016年8月7日 花小金井キリスト教会 夕礼拝メッセージ)

列王記上17章1節〜16節

旧約聖書が物語っているイスラエルの民の歴史は、一言でいえば、神様との関係の紆余曲折の歴史といえるでしょう。

アブラハム、イサク、ヤコブという、また部族にもならない、大家族における、神様とのパーソナルな関係。

そして、ヤコブの12人の子どもたちが族長になっていく、12部族連合の時代。そこでは、また直接神様との関係がイメージされる時代であったし、神の民が神様から離れたときには、「士師」と呼ばれるカリスマリーダーが、神様によってたてられ、そのリーダーシップのもとに、神様との関係が回復されていくという、そういう時代があったわけです。

さらに神の民の人数が増え、時代が進んでいく中で、12部族は、一つの国に束ねられ、その上に人間の王を立てるという統一王国の時代になります。

そうであっても、曲がりなりにも、目に見えない神様こそが、民を守り導く王なのであって、人間の王は、その神様の御心に聞きながら、神様との信頼関係のなかで、民を導いていくという、建前があったわけです。

初代、サウル王、二代目ダビデ王、三代目ソロモン王

先週までは、そのダビデの物語をよんできました

次は、ソロモン王になるわけですけれども、「聖書教育」のカリキュラムでは、今回、ソロモンのお話は、とばしています。

そして、そのソロモンのあと、王国が北と南の二つに分裂して、それぞれに王が立っていく、分裂王国時代を迎えていくわけです。

そして、イスラエルに王が立てられていく流れの中で、神の御心から、道をはずしていくたびに、神の言を王につげる、預言者が現れるようになります。

つまり、神が王である集まりの上に、人間が「王」として立ったときに、その王は、神ではないわけだから、どうしても神の御心からはずれていってしまう。それでも、まだ民の数が少なく、民の上にたつ者の、権力が小さい時代には、アブラハムとかイサク、ヤコブなどの、大家族程度の集まりのときには、神様はもっとパーソナルに、直接アブラハムに語って、道を正したわけですけれども、民の人数が増え、王が強大な権力をもつ時代になると、王のところに、預言者が遣わされるようになるわけです。

ですから、預言者が活躍したのは、イスラエルに「王」がたった時代以降。サウル、ダビデ、ソロモン以降ですし、王様が道をはずせばはずすほど、預言者は活躍するようになるということで、今日の箇所は、北と南にわかれたイスラエルの北の方の七代目の王。かなり道をはずしていく、アハブという王の時代に、突然あらわれた、エリアという預言者の、その最初の登場の場面ということになります。

繰り返しになりますけれども、預言者というのは、イスラエルの王、権力者に対する、カウンターとして現れるわけです。それは、イスラエルが神の民として、愛されているからであって、愛されているからこそ、大切だからこそ、神様はなんども預言者を送って、語りかけるのだということは、大切なポイントとして、覚えておいていただければと思います。

今日の箇所の冒頭、預言者エリアは、アハブ王にこう告げます。

「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」

 なぜ、こういう厳しい言葉が、アハブ王に告げられたのでしょう。それは、この少しまえの、16章の後半を読んでみると、このアハブ王は、「バアル」という異教の神。具体的には、豊作をもたらす神。そしてバアルは男性の神で、ほかには女性の神でアシュラという神もいたのですけれども、そういう神々の祭壇、神殿、礼拝所を、北イスラエルの中心に造ってしまったのです。

 ここまで露骨に、偶像を礼拝する王は、それまでいませんでした。曲がりなりにも、この宇宙を造られた、目に見えない創造主を信じるイスラエルの王が、目の前の豊作、豊かさだけを求めて、そういう願望から、神にすがる。

そんな願望をかなえる偶像として「バアル」の神殿をさえ、建ててしまう。

そういう意味で、アハブという王は非常に世俗的、俗物的です。

偶像礼拝というものは、いつもそういうことであって、聖書の神ではなく、ほかの神を礼拝するということのコンテ期には、自分の願望をかなえる神。目の前の満足、ご利益をくださるものを、その人は「神」として、祭壇を作り、礼拝をしていくわけです。


偶像とは英語では「アイドル」というわけです。アイドルは、魅力的なものなのです。魅力的だからこそ、礼拝の対象になってしまう。

「金」はすぐアイドルになるでしょう。権力もアイドルになるでしょう。恋人もアイドルになるでしょう。

それがなければ生きられないと、そこまで心理的に依存し、心を束縛するものは、その人のアイドル、偶像です。


つまり、偶像とはその人を束縛し、恐れさせ、自由を奪うのです。イスラエルの民は、昔エジプトで奴隷だったことがありました。強制労働させられたけれども、しかし、食べることはできたのです。

そのエジプトの奴隷状態から、神様はモーセという指導者を立てて、イスラエルの民を、エジプトから脱出させて解放したのです。

しかし、その脱出し、奴隷の身から自由になった先は、荒野だったのです。

自由ということは、荒野を旅するということでもあるのです。その旅の途中で、イスラエルの人々は、あああのエジプトの奴隷のときのほうがよかった。腹いっぱい肉なべが食べられたなどと言い出しました。

そう、奴隷状態は、つらいけれども、食べていくことはできるのです。

まるで、日本のサラリーマンのように、自分の意思を殺して、上司のいうことを聞き続けるのはつらいけれども、それで食べていけるほうが、いいと考えることと、すこし似ているかもしれない。

神を信じて生きる。そこにある自由は、すばらしいものです。

しかし、それは同時に、荒野を旅することなのです。荒野の旅のなかで、神が与えてくださる、マナという食べ物に生かされていくようなものです。

命を与え、命を生かし、最後まで命の責任を取ってくださる神様だけを恐れて、神様が必ず養ってくださることに委ねて、荒野を歩んでいくものだけのもつ、何者をも恐れない自由が、そこにあるのです。


今日、預言者エリアが、最初はケリトの川のほとりで、数羽のカラスが運ぶ、パンと肉で命が守られ、養われたという出来事も、後半の、サレプタという場所で、貧しい母と子の、その最後の食物によって、生かされるというチャレンジも、すべて、

天地を造られた主こそが、壷の粉も、瓶の油も尽きることがないようにしてくださる、命の与えぬしであることを、徹底して体験させられるという出来事だったでしょう。


預言者エリアは、人間を恐れず、権力者であろうと、王であろうと、恐れることなく、主の言葉を伝えなければならないのです。

権力から自由でなければ、権力者に向かって、語れない言葉があるのです。自分がその権力者、王によって、養われていきているということでは、その王を批判することなどできるわけがないでしょう。口が、縛られてしまうでしょう。

それが、この預言者エリアが、カラスに養われ、貧しい親子に養われた理由でしょう。

そしてそれは、エリアだけではなく、エリアに最後のパン菓子を作った、貧しい母親も、ある意味自由だった。もうなにも失うものなどなかったのだから。人間は持てば持つほど、けちになるのです。そういう意味で、実は貧しい人よりも、お金持ちのほうが不自由で心縛られているものなのです。

この偶像に縛られていた、アハブ王のように。

豊かさは必ずしも、自由である証ではないのです。

むしろなにも失うものがなく、自由に最後のパン菓子をささげてしまった母親が、尽きることのない壷のなかの粉や、瓶の中の油という豊かさを、体験していくことになる。

ここに、目に見えない神を信頼し、委ねて生きるものこそが、味わいし知ることのできる、逆転の恵み。

福音のメッセージが隠れています。


主イエスが徹底して貧しくなられ、僕となられ、十字架につけられていく、その無力さのその先に、神は人が思い描くこともできない、復活という逆転、神にしかできない救いを、用意してくださっていました。

この復活という、神による逆転があるからこそ、イエス様は、「今、貧しいものは幸いだ」といわれ「悲しむものは幸いだ」とさえいうことができた。

自分の弱さ、無力さ、行き詰まり、限界。

なにか自分がもっているもの、頼っていたものが、まさに破産状態になり、もう、この最後のパン菓子を食べたら、あとは死ぬばかりですという、人間の力の限界の先に、

神による壷の粉が尽きることのない世界が、瓶の油がなくならないという、神に生かされる命の祝福を味わう喜びがある。


ここに集まったみなさんも、それぞれにそういう体験をしておられるのではないですか。

今、私がここで皆さんの前にある意味確信をもって、大丈夫ですよ、神は生きておられますよ。何とかなりますよと、語ることができるのも、

8年半の、開拓伝道という現場で、神はちゃんとわたしたちを生かしてくださったし、そこで、たくさんの祝福を与えてくださったことを、経験したから。その経験から確信をもって言うことができるわけです。

大丈夫ですよと。神は生きておられますから、大丈夫。信じましょうと。

 預言者エリアは、その神の言葉を語る自由と、確信を、このカラスに養われ、貧しい親子に生かされるという、経験を経て、手に入れていったのでしょう。

このあと、バアルの預言者たちと対決していくには、どうしても必要な経験だったから。


それは、わたしたちもまた、すべてのマイナスに思えること、行き詰まり、限界、無力さの自覚は、

そこからしか始まらない、神による逆転、復活への道筋であることに、気づきたいのです。