「私たちは暴力に依存しない」(2016年8月14日 花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

詩編62編
 おはようございます。
 オリンピックのおかげで、寝不足だという人もおられますかね。
 うちの家では、オリンピックのおかげで、家族の会話が、少し増えた気がします。
 昨日の夕食のときには、3年生の息子が、「ほら、あれ、あの競技、なんっていうんだけ。えっと、うちの教会の、Kさんの得意なやつ」っていうので、「それって卓球のこと」って私がいったら、「ピンポン」って息子が答えて、大笑いしました。まあ、どうでもいい話ですけど。

 今年の夏は、オリンピック、そして天皇の「お気持ち」発言と、あらためて「日本」という国を意識する8月を過ごしています。
 そして明日は、71回目の「終戦」・「敗戦記念日
あらためて、平和を祈る8月です。


Fさんは、今日、浦和教会で「平和を覚える礼拝」でメッセージをなさっています。わたしたちの教会も、来週は平和主日礼拝をささげます。8月は毎週、礼拝で、特に平和を求めて、御言葉を聴き、ともに祈りたいと思います。

 さて、音楽療法士という仕事があるのを、ご存じでしょうか。

死に行く人に寄り添って、音楽を使って慰めを与える働きです。アメリカでその音楽療法士の学び、実践を積んで、「ラストソング(人生の最期に聴く音楽)」という本を出された「佐藤由美子」という方がいます。

佐藤さんは「ブログ」も書いているのですが、そのブログのある記事に、目が留まったので、メッセージの最初にまず、お分かちさせてください。

アメリカのホスピス音楽療法士として働くあいだ、私は多くの退役軍人に出会った。

その中でも忘れられないのが、ケンという患者さんだ。彼と出会ったのは、正式な音楽療法士として働きはじめて数年目のことだ。

ケンは70代後半だったが、年齢より若く見えるスリムな男性だった。ジーパンにT-シャツ姿の彼は、部屋の片隅にある椅子に座り、外を見ていた。

彼は落ち着いた表情で音楽療法に同意し、音楽ならなんでも好きだと言った。

私がハープでフォークソングを弾いているあいだ、ケンは遠くを見つめるような目をしていた。そして、曲が終わると私を見て言った。

「戦争中、中国人の女性に良くしてもらったんだ。君も中国人?」

「いえ、日本人です」

その瞬間、ケンは突然静かになり下を向いた。

「僕は......僕は......日本兵を殺した......。彼らは若かった。僕も若かった」

ケンは下を向いたまま、言葉につまった。
「今でも彼らの家族のことを想うんだ......。本当に申し訳ない......」

ケンは目を閉じ、肩を震わせて泣きだした。
彼の突然の告白に、私は驚いた。ケンの感情は、まるでその出来事が昨日起こったかのように、強烈で痛ましいものだった。

これは後で彼の家族から聞いたことだが、ケンは19歳で徴兵され、サイパンに送られたそうだ。

サイパンの戦いは、戦争末期に行われた戦闘である。3万人の日本兵が命を落とし、1万人にもおよぶ民間人が犠牲になった。アメリカ軍にも数千人の戦死者が出た。

ここでケンは一体何を見たのだろうか? 彼が家族にその話をすることはなかったそうだ。

どれくらいの時間が経っただろう。ケンは声をあげて泣いていた。おそらく数分だったと思うが、永遠のように感じた。

しばらくして彼がようやく泣きやんだ後、私はシンプルで馴染み深い曲を唄うことにした。"Beautiful Dreamer"だったと思う。アメリカ人なら誰でも知っている歌だ。

音楽が私たちの心を落ち着かせてくれるように、ゆっくりと唄った。そして歌が終わると、ケンはようやく顔をあげた。

「ありがとう」

彼に会ったのは、それが最初で最後だった。

その後も、ケンやジョージのように第2次世界大戦で戦った人たちと出会った。彼らが人生の最後に語る気持ちは、勝利の喜びでも敵に対する怒りでもない。

最後に残るのは、深い悲しみと罪悪感のみ。

人は死に直面したとき、必ず人生を振り返る。特に戦争を経験した人は、その当時のことを思い出すのだ。たとえそれが、一番思い出したくないことであっても......。

彼らにとって、戦争は一生終わることはない。』


こういう記事でした。


確かに、人はだれもが死に向かって歩んでいます。地上で永遠に生きるわけにはいきませんから、遅かれ早かれ、地上の命は、100パーセント終わる時がきます。そのこと自体は、だれもが心得ていること。

しかし、たとえいつかは死ぬとしても、それが暴力によって奪われるならば、そこには、計り知れない心の傷が、人々の心に、この世界に残ってしまうでしょう。

暴力。それは、人の尊厳を踏みつぶす行為だから。それは言葉であろうと、力であろうと、人を深く傷つけてしまうのです。

今、沖縄の高江で、基地の建設に反対する人々を排除するという出来事も、わたしには、沢山の機動隊員という力によって、地元に生きる人々の尊厳が否定されているように見えます。

目の前の一人の人の尊厳を、踏みつぶして、いうことを聞かせる。支配する力。暴力。圧制。

それがまかり通る時代、それは悪い時代です。


さて、今日、朗読された、詩篇62編を書き記した、いにしえの信仰者は、数千年の時を越え、時代を超え、今日、わたしたちにこう語りかけ、問いかけます。

11節

「暴力に依存するな。搾取をむなしく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな」と

なぜならば、今力あるように見えるものも、やがて時がくれば、むなしく過ぎ去っていくのだから。

権力者も、国も、あらゆる人間のもつ力は、限りがあり、永遠ではないのだから。

時を超え、永遠に存在し、歴史を導いておられるお方こそ、主なる神こそ、頼るべきお方なのだから。

ゆえに、詩編はわたしたちに呼びかけ、招きます。

9節、10節
「民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。
神はわたしたちの避けどころ。

人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。
共に秤にかけても、息よりも軽い。」のだと


そのように、人間の空しさ、限界を語るこの詩人には、

敵がいたのかもしれません。なぜなら、4節、5節にはこうあります。

「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり/人を倒れる壁、崩れる石垣とし

人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。」


この詩人には、敵がいた。この人を押し倒し、欺き、腹の底で呪う人に囲まれていた。

その上で、この人は言うのです。「暴力に依存するな」「神に信頼せよ」「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない」と


「弱い犬ほどよく吠える」ということわざがあります。


自分を責めたてるもの、批判するもの、力をふるってくるものに、同じように力で抵抗する。力に力で対抗する。暴力に依存するのは、むしろ心の弱さ、不安のあらわれではないでしょうか。


やられたらやり返すにはいられない、という心は、強さの表れではなく、弱さの表れ。

わたしたちは、その本当の「強さ」というものを、あの十字架の上で人々にののしられ、つばはきかけられながらも、一言も言い返すことをなさらなかった、主イエスのお姿をとおして、知っています。


 無抵抗主義を貫きながら、黒人の人権のために戦った、マルティンルーサーキング牧師は、その活動のゆえに、いつも命を狙われていました。

あるときは自宅に爆弾が投げ込まれることさえありました。

キング牧師は、そのときでさえ、自分の仲間たちに、決して暴力で報復をしてはならないと戒め、敵を愛するように勧めたのでした。

それは、彼が特別に強い人だったからではないのです。キング牧師も、心の中では、不安を抱えていたのだと、のちに自伝の中で打ち明けています。


爆弾が投げ込まれる事件の起こる3日前。彼は、そのころの自分の心の中を、こう書き残しています。


 ・・・私は祈りに祈った。その夜私は声をあげて祈った。私は言った。主よ私はここで正しいことをしようとしています。私たちが掲げている主張は正しいと考えています。しかし主よ、私は告白しなければなりません。私は今弱いのです。くじけそうです。勇気を失いつつあります。だが私はこんな姿を人々に見せたくありません。なぜなら、もし彼らが私の弱い姿を見、勇気を失っていることを知ったら、彼らも弱くなってしまいます・・・・・

 彼は正直に、自分の弱さをまっすぐに神に向かって祈った。

 そして、祈りの鎮まる中、彼は内なる声を聞いたように感じます。

それはこういう声でした。

「マーティン・ルーサーよ、義のために立て、公義のために立て、真理のために立て。見よ、私はあなたとともにいる。世の終わりまでともにいる。」


 そして、キング牧師は、こう言います。

 私は閃光(せんこう))の輝きを見た。雷鳴の轟きを聞いた。罪の大波が、私の魂を征服すべく突進してくるのを感じた。

しかし私は同時に、闘い続けよ、と優しく語りかける主イエスの声をも聞いた。

彼は私に、決してひとりにはしないと約束した。決して決して一人にはしないと」


このキング牧師の告白は、1967年8月27日のシカゴの教会における説教の中で、彼自身が語った言葉だそうです。


キング牧師が強かったのではないのです。そうではなく、心を注ぎ出す祈りの中で、彼は神の言葉を聞いた。

それがどういう形であろうと、自分を超えた存在から、決して決して、見捨てない。わたしはあなたとともにいるという、確信が、彼の心に、魂に響き渡ったから、彼は立ち上がることができた。


今日の詩編も、こう私たちに呼びかけています。

9 「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」なのだと

「御前に心を注ぎ出せ」

これを、リビングバイブルという聖書の翻訳は、こう訳します。

「心にある願いを洗いざらい申し上げよ」と

すべてをすでにご存じのお方の前に、心を開いて、洗いざらい語る。

それは母に向かって、全身全霊でなく赤ちゃんのように。

心のすべてを注ぎ出しなさい。


使徒パウロも、フィリピの教会にあてた手紙のなかで、教会の人々にこのように勧めています。


4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和(平安が)が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

と。

 神に、心の中を洗いざらい打ちあける。それが祈り。それこそが祈り。

しかし一方で、今日の詩篇は、こうも言います。

2節
「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」のだと

6節でも繰り返されています。
「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かう」のだと。


心の中を、神に洗いざらい打ち明ける祈りもあれば、

むしろ沈黙して、神に向かう祈りもある。

もはや、沈黙せざるを得ない。言葉にならない、言葉にできない祈りがある。


パウロはその祈りを、ローマの手紙の中で、このように表現しました。


「”霊”(聖霊)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”(聖霊)自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と


 深い悲しみの中で、行き詰まりの中で

 神は一体どこにおられるのかと、失望に心とらえられてしまうとき、

 もはや、どう祈ったらいいのかわからない、言葉などでてこない、

 ただうめくしかない沈黙のなかで、

 しかし、その私たちの内側で、「聖霊」が私たちのために、祈ってくださっている。

 その沈黙の中でこそ、神との深い交わりが深められている。

長い信仰生活の中で、たくさんの悲しみ、苦しみのなかで、そのような沈黙の祈りを、うめくような祈りを、わたしたちはそれぞれに体験してきたのではないですか。

その時にはわからなかったけれども、実は、その言葉にならない時にこそ、神は最もそばにいてくださったという、そういう沈黙を、わたしたちは、恵みとして体験していくのではないでしょうか。

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう
神にわたしの救いはある。
神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔
わたしは決して動揺しない」2節


キング牧師は、すべてを神に注ぎ出し、沈黙へと至るその祈りのなかで、悟りました。

主は、「わたしはあなたを見捨てない、ともにいる」のだと。

そう、神は、今、わたしたちとともにおられます。

神は、いつも私たちとともにおられる。神は、わたしたちを見捨てない。

私たちのほうが、そのことを忘れ、怖れに取りつかれ、思い煩っているだけなのです。

だから、わたしたちも祈ります。心を開き、心を鎮め、沈黙して、ただ神に心を向け、祈ります。

「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔」と告白して、祈ります。

神にこそ力はあり、いつくしみ、恵みは、神にある。

神は、私たち一人一人の人生を覚え、報いてくださる。

そう信じて、祈ります。


 最後に、キング牧師が暗殺される直前のスピーチに耳を傾け、メッセージを終わりにいたします。


 「いまや、私たちは、歴史を通して人々が絶えず取り組もうとしながら、さまざまな理由で取り組んでこなかった諸問題に取り組まざるを得ない状況に置かれている。

生き残るためには、どうしても取り組むしかないのである。過去何年もの間だ、人々は戦争と平和について語ってきた。だがもはや、だたそれを語っているだけでは済まされない。それはもはや、この世での暴力か非暴力かの選択ではなく、非暴力か、非存在かの問題なのである。

 さあ、今夜、すぐに立ち上がろうではないか。より強い決意を持って立ち上がろう。この力強い時代に、挑戦の時代に、アメリカを本来あるべき国にするために、前進しようではないか。

 いったいこれから何が起ころうとしているのか、わたしには分からない。ともかく、私たちの前途が多難であることは事実である。

しかしそんなことは、今のわたしには問題ではない。なぜなら、私はすでに山の頂上に登ってきたからである。

したがって、もう何も心配していない。私だって、他の人と同じように長生きはしたいと思う。

長寿にはそれなりの意味があるから。だが、もうそういうことも気にはしていない。

神の御心を全うしたいだけである。神は、私に山に登ることをお許しになった。

そこからは四方が見渡せた。私は約束の地も見た。私は、皆さんと一緒にその地に到着することが出来ないかも知れない。

しかし今夜、これだけは知っていて頂きたい。すなわち、私たちは、一つの民として、その約束の地に至ることが出来る、ということである。
だから、私は今夜、幸せである。もう何も不安な事はない。わたしは誰をも恐れてはいない。この目で、主の再臨の栄光を見たのだから。」


「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしたちは決して動揺しない」


祈りましょう。