「仲直りするように」(2016年7月10日花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書12章54節〜59節

今日は暑くなりそうです。先週は、暑い日の翌日には、急に涼しくなったり、また暑くなったり、不安定なお天気でしたね。

当たり前のことですけれども、お天気は人がどんなに努力しても、願っても、どうにもなりません。ただ晴れた時は晴れを、雨の時は雨を、受け入れてその日を生きるしかないわけです。

今、朗読された主イエスの言葉は、まず天気の話から始まりました。いつの時代も、明日(あした)の天気がどうなるのか気になる。農業や漁業をいとなんでいるなら、なおのことです。それは具体的な生活に関わるわけですから、天気を変えることはできなくても、せめて予想はしたい。

そして、お天気は自分だけに関わるお話でなくて、地域一帯のお話。そういう意味でお天気の話題は、初対面の人でも共感できる。

初めての人でも、「毎日暑いですねぇ」と、お天気の話ならできるわけです。


わたしと家族が、山形の海沿いの町で生活していたときには、冬の大雪、猛吹雪、嵐の次の日に、ご近所の方や、友人と顔を合わせれば、「やあ、昨日はすごい嵐でしたねね」「雪かきが大変でしたね」と、互いの苦労をねぎらったものでした。

 人間にはどうにもならない。そしてそれを受け入れて、一緒に生きるしかない。それが天気であるとすれば、

ある意味、イエス様が、この天気の話の後に、今の時の話。つまり、今の時代の話をなさったのも、わかってくる。

天気も時代も、人の思いではどうにもならないのに、たくさんの人を巻き込んでいく。

時代の流れ、時代の風といういい方もしますね。人の思いをこえて、人々を巻き込んでいく風が吹く。

嵐のような時代という言い方もあるでしょう。

天気と時代は、確かに似ている。そして天気は確かにある程度予想できる。

西から東に、雲は流れるものですから、西に雲がでれば、やがて「にわか雨になる」ことは、わかる。

また、南風が吹けば、やがて「暑くなる」ことも、当時のイスラエルでは、常識だったのでしょう。

しかし、ここでイエス様は、単なる、天気予報の話を始められた訳ではないはずです。そうではなく、時の話。時代の話、その時代の風の話をなさりたいのでしょう。

西に雲が現れれば、雨になることはわかりきっているのに、南風が吹けば、暑くなるのはわかりきっているのに、

そういう因果関係があることは、あなたがたもわかっているのに、なぜ、今の時がこれからどうなっていくのか、どういう時、どういう時代になっているのか、それを見分けることを知らないのか。


先週の礼拝でも申し上げましたが、この時、この時代。それは、支配者ローマへの怒りが民衆の中にふつふつと高まっていた時代なのです。

小さな暴動や反乱。テロがあちことに起こりはじめた時代です。

エス様の少年時代。紀元6年には、ガリラヤのユダという男の率いた反乱、テロがあった。

それを鎮圧したローマは、今後は直接、総督をおいてユダヤ地方を統治することになりました。その三代目の総督があの、主イエスを裁判にかけた、ポンテオピラトです。

度重なる抵抗運動は、暴力によって押さえ込まれ、また反乱の火が、さらに燃えていく。

それは、今の21世紀のテロとの戦いと、同じ構図です。

力に対して、力で戦うことをしていれば、やがてどうなってしまうか。

それは、西に雲がでたら「にわか雨になる」天気を当てるよりも、あきらかなこと。

「どうして、そういう今の時を、見分けることを知らないのか」

そう主イエスは言われます。

このとき、主イエスの周りに集まっていた群衆たちは、何を期待してイエス様のところに集まっていたのでしょう。

ヨハネ福音書には、たくさんの人々にパンを与えたという出来事のあとで、群衆が「まさにこの人こそ、世にこられる預言者である」といい、人々が来て、イエス様を王にするために連れていこうとしているのを知ったイエス様は、一人で山に退かれた、という記事があります。

この、あちらこちらでテロが起き、自分の友達が、家族が、ローマ兵に殺され、弾圧が高まっていた時代。

エス様のところに、すがるようにして集まってきたユダヤの人々が、何を期待していたのかは、明らか。

この力ある方こそ、イスラエルをローマから解放する、神がつかわした、メシア、キリスト。軍事的指導者と期待して集まっていたのでしょう。

メシアさえいれば、圧倒的に弱い我々でも勝てるはず。神がともにいるのだ。

それは、昔この日本が、「神風が吹けば勝てる」と、勝てるはずのない戦争に向かっていった姿ともだぶります。

すこし落ち着いて考えてみればわかるはずなのに、
理性をちゃんと働かせて、考えたなら、そういう愚かな判断など、しないはずなのに、

空模様はちゃんと見分けられるのに、今の時が、これからどうなっていくのか、

そういう力によって敵を倒すメシアを求めて、集まっていくような時代が、どうなっていくのか、

見分けられないのは、なぜなのか。

そう、主イエスは言われたのではないでしょうか。

56節
「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」


ですから、イエス様は、間違った期待を寄せて集まる群衆に向かって「偽善者よ」と言われます。

「偽善者」と訳されるもとのギリシャ語は、「仮面」とか、演技をする、役者という意味の言葉だといわれます。

群衆は、仮面をかぶっている。本心を偽っている。偽善者といわれている。

それはいったい、なにを隠しているのでしょう。

 水曜日の夜のお祈り会で、数人で今日の聖書の箇所を読んで、いろいろ話し合っていたとき、この「時代の風」という話から、50年ほど前の、学生運動の時の話になったのです。

 わたしは生まれたばかりの頃ですから、その時代に吹いていた風は、わかりません。私より若い人たちはなおさらわからないでしょう。

当時の学生たちは、何に怒っていたのか。何と戦っていたのか。どんな正義を主張していたのか。そのために、暴力さえも辞さず、最後には内部抗争によって、仲間たちさえ殺していった、その時代の風とは、なんだったのでしょう。

 学者は言います。ローマを倒すのだと、様々な、ユダヤ教のグループの間で起こった派閥争い。自分たちこそが正しい神の戦士だと確信を持つ人々による、内部抗争の激しさは、

ローマへの暴力による抵抗と、変わらないほどだったと。

 力による正義。力による解放。力による自由を求める人々の、その仮面の下に隠されている、どろどろしたもの。残酷性、暴力性、その罪を見抜かれるようにして、

主イエスは言われたのではないでしょうか。

「偽善者よ」と。

この人間の根元的な罪。

本当に戦うべき相手は、

この仮面をかぶって、ひた隠している、自分自身の内面。どろどろした罪ではないのでしょうか。本当の敵は、自分自身の中にこそ、いるのではないですか。

さらに、主イエスは言われます。

「あなたがたは、なにが正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と

 やがて主イエスが権力者に捕まえられ、十字架につけられることになると、群衆たちは扇動されて、「あの男を十字架につけろ」と叫びました。

今も、人々は同じことをしています。テレビや新聞で、「あいつはわるい」と扇動されれば、「なにが正しいか、自分で考えることも判断することもなく、あいつをやめさせろ。あの国をあの民族をたたけ」と扇動されてしまうでしょう。

「なにが正しいかを、どうして自分で判断しないのか」

それは、今、この時代をいきる、わたしたちへの問いかけとして、受け止めたいのです。

「なにが正しいかを、どうして自分で判断しないのか」


人々に流されず、時代の風に流されず、

なにが今、本当に必要なのか。神の御心はどこにあるのか、祈りつつ、考え、選びとっていけますように。

今日、ここに集められたわたしたちは、人ではなく、主イエスの御言葉こそ、真理であると信じ、従いいきることを喜ぶ仲間です。

主イエスに祈り、主イエスならどうするだろうかと、心の耳をすまし、聖霊に導かれて歩む、仲間です。

今日の御言葉の最後で、主イエスはこう言われました。

「あなたを訴える人と一緒に役人のところにいくときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい」

人が人を訴え、人の正義と正義をぶつけ合い、争い、最後の1円まで、きっちりと正しさ、正義を追求する。

そういう道を歩みつづけるな。途中で仲直りするように、努めなさい。

そう主イエスは語ります。

違う言い方をすれば、正義を追求ではなく、関係の回復。和解、仲直りこそが、神の御心であるという、例え話でしょう。

正義の追求。正義の戦いは、それこそ、やられたらやり返し、お互いに、相手が、最後の1レプトン、最後の1円を返すまで、決して終わらない、終わらせない、牢獄のようなものではないですか。


正義の戦い、テロとの戦い

夫婦の争い、親子の戦い。

人が人を訴え、責めつづける、牢獄。

それは仮面をかぶった人と、仮面をかぶった人の、どちらの仮面のがより、正しいかという争いではないですか。

そうではなく、実は、心の底に隠している、罪こそ、戦わなければならない相手ではないでしょうか。

「仲直りする」

それは、わたしたちの心の底のその罪を、すべて知っておられる神が、その罪を裁かず、許してくださった。人間の罪の負い目を、負債を、最後の1円まできれいにしてくださった主イエスの十字架の恵みのゆえに、

わたしたちは、人を責めることから、正義の戦いから、解放される。

人を許し、仲直りすることができる。なぜなら、私の仮面の底の罪を、神が許し、神が和解してくださったのだから。

昔、ある説教で聞いた話をして、終わります。

約90年ほど前、アメリカからコベルという宣教師夫妻が日本にやってきました。ご夫妻は関東学院大学で教えつつ、二〇年間、地道な福音宣教の働きをなさったと聞きます。

やがて、第二次世界対戦の足音が聞こえてくる。コベル宣教師夫妻は声を大にして戦争反対を叫びますが、それゆえに日本政府から、国外追放の憂き目にあいます。日本を離れる船の上で、「日本の土になる覚悟でやって来たのに、神様無念です」と祈られたいわれます。

 ご夫妻は、アメリカには帰らず、フィリピンのバネイ島に宣教師として赴きます。やがて、第二次世界対戦が勃発してしまう。

日本軍が南の島々に軍を進め、やがてフィリピンのバネイの島にも上陸します。
コベル宣教師夫妻は、ジャングルの奥へ逃げたそうです。しかし、ふもとの村でフィリピンの女性と子ども達が、軍に捕えられ、首をはねられるという噂を耳にし、二人はそこに赴く。二〇年の間、使いなれた日本語で、女性と子どもを処刑しないでほしいと、必死の交渉をする。しかし、コベル宣教師のかばんの中にあった、携帯用のラジオが見つかり、お前たちは敵のスパイであろうと、疑われ、説明しても理解されず、ついに11人のフィリピン人とともに宣教師ご夫妻も処刑されてしまうのです。

その処刑の直前、今まさに、自分達を殺そうとする人々のために、ご夫妻は涙を流して祈ったとも言われます。

日本を愛したお二人が、日本人の手によって殺される。神は、主イエスは、いったいこの時どこにいたのでしょう。

しかし、人の目には無残で理不尽な出来事が、その後何人もの日本兵が、主イエスと出会うきっかけになったと聞きます。

その一人は、真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄です。

コルベ宣教師夫妻が殺されて数年。敗戦後の絶望の日々を過ごしていた淵田みつおは、かつての部下たちから、捕虜収容所での出来事を聞いたのです。

それは、地獄のような苦しみではなかった。収容所での数年は、少なくとも、その部下たちにとっては天国だった。

それは、その捕虜収容所にいた女性が非常に彼らによくしてくれた。あんまりよくしてくれるので、ある時彼らはこの女性にたずねたのです。
 『なぜ、あなたは敵の捕虜に、そんなによくしてくれるのか』と
 その問いに、なかなか答えようとしなかった彼女が、やがて重い口を開き、語り始める。

『私の両親は宣教師として二〇年、日本で働きました。そして戦争に反対したために国外追放にあい、その後フィリピンに渡りました。そこで日本兵に首をはねられて、殺されました。でも、両親が最期まで愛したこの日本のため、私も働かせていただいています。」

 そうして、この女性は主イエスを彼らに伝え、彼らはキリストと出会うのです。

 その話を聞いた淵田みつおもまた、やがて渋谷の駅頭で配られていた聖書を手に入れ、これを読み、主イエスの十字架上の言葉に捕えられます。

「父よ。彼らを赦したまえ。彼らは自分が何をしているのかが、わからずにいるのです。」

そして、淵田美津雄は主イエスを信じ、やがて牧師となり、かつて自分が襲撃した真珠湾をさえ訪ね、福音を伝える人となった。

かつて爆弾を落としにきた男が、神の愛を説くものとしてやってきた。

彼は、
 「憎しみの革命を通して平和は来ない。戦争を通して平和は来ない。真の平和はイエス・キリストの十字架の愛。アガペの愛によってのみ来る」と語ったと言われます。

 アガペとは聖書のギリシャ語で、神の愛を現わす言葉。
人間の犠牲ではない。人間の愛ではない。

神の子である、主イエスの犠牲の愛。神の愛なのだ。そういいました。


最後の一円まで返さなければ赦さない。そうやって、人を責める、正義と正義の争いに満ちた、今の時。今の時代。

1円どころか、神の御子主イエスの命をさえ、わたしたちのために与えてくださった神の愛。

このあふれるばかりの神の愛こそ、わたしたちが、人と仲直りし、ともにいきるための希望。

延々と続く、復讐の連鎖を、にくしみの連鎖を、断ち切ってくださる、主イエスの愛が、

今日、わたしたちのうちに満ちあふれますように。

主イエスよ、どうぞ来てください。