「不思議な仲間」(2016年5月15日花小金井キリスト教会ペンテコステ主日礼拝メッセージ)

使徒言行録2章1節〜11節
 おはようございます。
 さわやかな朝です。今日もみなさんとこの場で、共に命を与えてくださった神様を礼拝できる不思議さ、ありがたさに、感謝です。

今朝、急にある事情で、近くのある仏教系の教会にいく用事があったんです。

日曜日の朝、キリスト教会だけじゃないんですよね。集まっているのは。ほかの宗教の方々も、日曜日に集会をしておられる。

とても温かな対応をしていただいて、すっかりファンになりました。素晴らしいなぁ。わたしがもし、最初にこの人たちに出会ったら、この宗教の信者になったかもしれないなぁ。

そんなことを思うほど、温かな対応だったんです。

だからこそあらためて思いました。ああ、わたしは、あの素晴らしい人がいるとか、教えが素晴らしいとか、建物がいいとか、そういうことでキリスト教に導かれたということじゃないんだよなと。

そうではなくて、自分に与えられた出会いと導きのなかで、今、ここにいるのだと。


みなさん、ひとりひとりもきっとそうでしょう。

いや、わたしは、自分の意志と決断でここにいると、思う人も、また、長年の習慣ですと、思う人も、

そんな選びと決断の向こう側に、招いてくださったお方がおられるのではないですか。

本当に、そういう神の選びと招きの不思議さを、ここで出会う一人ひとりの方々との、出会いの中で思わされます。

わたしたちは、お互いを見れば、考え方も生い立ちもちがい、趣味も興味もちが、年齢も幅があり、

街中でばったり出会っても、きっと共通の話題などないでしょう。

なのに、今、ここに集まった時には、赤ちゃんから小、中、高、大学、社会人、高齢の方まで、一緒に同じ歌を、声を合わせて歌っているのです。

実に不思議で、この時代にあっては、貴重な集い。

もし、この建物の壁が透明で、外を通る人々が、わたしたちのことを見ているとしたら、道行く人はどう思うでしょう。

不思議な集まり。様々な人々が、歌って、「踊って」まではいないけれど、仲良さそうにしている。不思議な集まりに、みえるでしょう。

先ほど朗読された聖書の出来事。聖霊が弟子たちに降ったという聖霊降臨の出来事。

様々な人たちが、国、文化、言葉さえ乗り越えて、一つの神からのメッセージを聞いて、心を一つにしている現場。

これは約2000年前だけではなく、今まさに、ここも同じ。

今日も、私たち一人一人がここに集められ、聖霊によって、あらたに教会が誕生したのです。

今日は、聖霊降臨日。弟子たちの上に、聖霊が降ったことを覚えて捧げる礼拝ですけれども、

これは約2000年前の昔話ではなく、今日も、ここに聖霊が注がれているから、降っているから、わたしたちは、一緒になって、神様を礼拝します。

その教会が誕生した、一番最初の出来事は、

エスさまが十字架の上で死なれた、過ぎ越しの祭りから、50日目の朝の出来事でした。

十字架に死なれ、三日目に復活した主イエス

40日の間、弟子たちに姿を現し、天に昇られ、見えなくなった、その10日目に、

5旬祭(ごじゅんさい)と呼ばれる、小麦の収穫感謝のお祭りの日に、

神の霊、聖霊として、集まっていた弟子たちの上に降ったのです。

聖霊降臨。


その日から、今に至るまで、主イエスは目にはみえなくても、聖霊として弟子たちに降り、宿り、今も生きて働いておられます。

その主に招かれつどう人々が、今、ここにも沢山集まり、共に主に向かって、歌を歌っている。

実に不思議な集まり。

その最初の一撃とも呼べる、約2000年前のペンテコステの出来事。それは実に、教会というものをしめす、象徴的な出来事として、描かれています。

激しい風の音。そして炎のような舌。それが聖霊が降ったときの、象徴的な出来事でした。

「風」というギリシャ語はプネウマといいます。「息」とか「霊」とも訳される言葉です。イスラエルの人々は、霊というものを、息や風のようにイメージしたようです。

旧約聖書の創世記には
「主なる神は、土の塵で人を形つくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった」とあります。
また、イザヤ書40章7節では、
「草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹き付けたのだ」と、主の働きを、主の風と表現します。

激しい風の音が示しているもの。それは、神の霊の激しい働き。神の働きが人々の上になされていく表現。

ヨハネ福音書の3章では、神の霊の働きについて、イエス様は、人は新たに生まれなければならない。神の霊によって生まれなければ、ならない。

そして、いわれます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」というのです。

霊から生まれる。神の霊、聖霊の働きがある。

しかし、その霊の働きとは、風にたとえられるのであって、人間が、管理したり、握ったりなどできない。人の自由になるものではない、ということでしょう。

祈ったからとか、なにかよいことをしたから、ではなく、風は思いのままにふく。神の霊もまた同じ。

最近まで、山形にいたわたしも、今、ここにいるのは、風に吹かれたから。

みなさんも、それぞれ、聖霊という風が吹いて、今、ここに集まっている、ひとりひとり。

教会は、人の思いや願いではつくりだすことなどできない、実に神秘的な集い。

風向きを感じ、風に逆らわず、風に乗るようにして、飛び続ける仲間。教会。

「炎のような舌」という光景がイメージさせるのは、力。言葉の力。

復活した主イエスが、弟子たちに約束された力を、イメージさせます。

使徒言行録の1章8節で、主イエスはこのようなことを、弟子たちに約束なさったからです。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」

そのように1章8節で約束した、その聖霊が、この2章で降った。地の果てに至るまで、イエスさまの証人。証し人として、言葉を語る、力のことです。

この炎が、舌、べろの形をしていたことも、言葉の力をイメージさせます。

この炎のような舌が一人一人の上にとどまると、彼らは、語り始めるのです。主イエスの証を、語り始めるのです。

「主イエスは今も生きておられるのです、わたしはその証人です。」

そんな証の言葉が、様々な国の言葉となって、弟子たちの口から、あふれだした。

聖霊が降るということ。

聖霊降臨。この出来事は、なにか特別で神秘的な出来事。

特別に選ばれた人々だけが体験する、秘密の出来事。

日常を生きている、わたしたちからは、遠い世界の、一部の人々だけの、閉じられた世界の、神秘、などではないのです。

そうではなくむしろ、このときエルサレムに、あらゆる国から帰ってきていた、沢山の人々が体験することになった、出来事。

すべての人に開かれて、すべての人に聞かれるようにと、神のメッセージが語られた出来事。それがペンテコステの出来事なのですから。

7節には、このときの驚きが、こう記されています。

「人々は驚き怪しんでいった。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』

当時のユダヤ人のなかで、世界中に離散していた人たち。ディアスポラと呼ばれる人々が、このとき、エルサレムに帰ってきて、住んでいた。生活していた。

これを、どのようにイメージしたらいいのでしょう。たとえば東京に住んでいるけれども、実は生まれは長崎だとか、沖縄だとか、青森だとか、そういう感覚に少し近いかもしれません。

当時のコイネーギリシャ語という共通語はあったのです。その共通語ではなせば、よかった話なのです。なのにあえて、一人一人の生まれ故郷の言葉。沖縄なら沖縄弁、長崎なら長崎弁、青森なら青森弁で、語りだしたという話なのです。

通じなかった言葉が、不思議にも通じるようになりました、という話というよりも、ポイントは、実は、自分の故郷の言葉で、自分が生まれ育ち、心のそこで、大切にしている言葉が聞こえてきたことに、おおきな驚きが、感動があったんじゃないか。

つまり、単にいっていることがわかったという話ではなく、もっと本質的には、

ほかでもない、今、このわたしに向かって、語られているのだという、認識と驚き。

世界のすべての人、という一般論ではなくて、ほかでもない、あなたに、神は語っている。あなたのアイデンテティー、存在の一番根底に響く、生まれ故郷の言葉で、あなたに、語っているのだ。

そのように、このわたしのこととして、主イエスの証が響きわたる現場。

それこそ、聖霊降臨の現場。聖霊が、炎の舌のように、働かれる現場。教会の誕生。

聖霊が働かなければ、聖霊によらなければ、決して一人一人の心に、主イエスの証は、届かないでしょう。

この場所で、誰が語ろうが、牧師だろうが、信徒だろうが、聖霊の風が吹かなければ、一人一人に主イエスの証はとどかない。

人の説得力とか、雄弁とか、知恵の言葉ではないのです。

そもそも、ここで語っている弟子たちも、かつては主イエスを裏切り逃げた、人々なのだから。

そんな自分自身に失望し、世界に絶望し、恐れに縛られて家の中に閉じこもっていた彼ら。

主イエスについていくのだと、一生懸命がんばっていた彼らは、結局主イエスを裏切り逃げだした。

そんな自分に徹底的に失望しただろうし、主イエスのいない世界に、絶望したことでしょう。

ところが、その彼らが、今や喜びに満ちあふれて、神の大いなる業を語っているのです。

それは、周りの人々からみると、まるで「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている」ような光景だった。

それはまるで、互いに喜びにあふれ、祝杯を挙げているかのような、宴会のような光景だった。

「わたしたちが裏切り、見捨て、死んでしまった主イエスは、今、生きているのです。神は主イエスを、復活させたのです。」

「主イエスは、今、生きている。本当なんです。わたしたちはその証人なんです。信じてください。本当なんです。」・・・

「神の偉大な業」を弟子たちは語ったと書いてあります。

人が見捨てたイエスを、神が復活させた以上に、神の偉大な業はない。

「人は人を救えなかった。自分たちも裏切った。でもその絶望の先に、人ではなくて、神の救いが、神の偉大なる救いの業が、復活が、あったんです。」

「わたしたちは、その証人なんです。」

そんな証がかたられたんじゃないですか。

このあとの箇所で、ペトロが立ち上がって、説教します。人々が十字架につけて殺したイエスを、神は復活させられたのだと。

主イエスは、生きておられると。

かつて逃げだしてしまったペトロが、人々に福音を語るのです。

弱いペトロに力をあたえを、語らせたのは、聖霊

聖霊が降るとき、人は主イエスの証し人になるのです。

自分の栄光ではなく、神の大いなる業をこそ、

絶望から立ち上がらせる、神による復活を語る、証人に、わたしたちもならせていただける。

「主イエスは、今、生きておられます」

わたしたちは、その証人です。

それこそ、道行く人がみたら、あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているんじゃないかと、あざけられるくらい。

主イエスは、生きておられます。十字架でおわったのではない。復活がある。

どんなに思い通りにならない現実でも、いやむしろ人間の思い通りにならないさきに、神の思い通り、復活がある。

十字架は必ず復活に至る。神は主イエスを復活させた。わたしたちはその神の出来事の証人。あかしひと。

わたしたちは、神様に招かれ、ここに集い、主イエスの証を携えて、また、ここから出かけていきます。

主イエスは、生きておられる。だから大丈夫。神を信じ、神にゆだねましょう。

大丈夫、主イエスは生きておられます。

そのように語り伝える力を、聖霊は与えてくださいます。

あなたも、私たちのこの仲間になりましょうと。

この、新しい酒に酔っていると、あざけられるほどの、喜びあふれる仲間に、あなたも加わりませんか。

外側からひややかに、「あいつらよっぱらっているぞ」と、眺めているのは、もったいない。

共に喜ぼうではないですか。

別に、わたしたちは、酒に酔っぱらっている訳ではないのです。

酔っバラっているように見えるなら、それは、酒ではなく、聖霊によっぱらているのです。聖霊に、神の霊の働きに、心開いているのです。

わたしたちを愛し、命を与えてくださった、天の親の愛に、心開いているのです。

神に信頼し、互いに信頼し、心開いて、共に生きていく喜びを、味わっているのです。

そんな仲間に、

違いを喜び合いあう、仲間に、

主イエスが真ん中におられる、祝宴の仲間に、なりましょう。

ルカの福音書のなかに、主イエスに招かれ弟子になった、レビの話があります。

徴税人のレビ。彼は主イエスに招かれた喜びか、すぐに友達を招いて、イエスを真ん中に、宴会を開くのです。

罪人とさげすまれていた、人々を招いた宴会を。

しかし、その周りでファリサイ派の人々や律法学者たちは、つぶやきます。

「なんであなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲み食いするのか」と

まるで、一緒に食事をすると、けがれがうつるとでもいうのでしょうか。

わたしの2年生の息子は、よく友達を連れて、教会の周りで遊んでいるのです。

最近連れてきた、高学年の男の子。なんで年上の男の子と、友達になったんだろうと、不思議に思って、息子に聞いたんです。どうして年上なのに、友達になったのって。

息子は、「うーん、離すと長くなるから」っていいつつ、さらにこう言いました。

「女の子たちが、彼と一緒に遊んでいると、いうんだよね。けがれが移るよって。そんなことないのにね。」

ああ、あの男の子は、周りの子に嫌われているんだ。その子と息子は友達になったんだ。そうか・・・って、ちょっと嬉しかったし、息子のことが誇らしかった。

「なんであなたたちは、あんなやつらと、一緒に飲み食いするのか」
そういうことを言い放つ、上から目線の人々に、主イエスは答えました。

「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人でしょう、私がきたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためなのだ」と

わたしは、自分の弱さ、限界、罪に痛む人を招く、魂の医者なのだと。

このルカの福音書は、ペンテコステの日から、数十年経って書かれた文書です。

これを最初に読んだ教会には、さまざまな人々がいた。ユダヤ人、異邦人が混在していたといわれます。

中には、人として扱ってもらえなかった奴隷や、ギリシャ人、ローマ人、アフリカの人も、また、かつて売春婦だったひと、前科者もいただろうと、いわれます。

そんな人々のあつまり。それは、外の人々からみたら、ちょっと変で、実に不思議な、あつまりだった。

一緒にいると、汚れるよって、忠告する人もいたかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいほど、お互いに一緒にいることを喜びあった人々の集まり。教会。

そんな一人ひとりが、嬉しそうに神をたたえる歌をうたい、共に食事を分かち合う。

ああ、それはなんと麗しい光景でしょう。

わたしたちの教会のお昼ご飯も、最近はバラバラに食べ始めないで、一緒に歌を歌って、お祈りしてから食べるんです。

ユースの人たちが、食前の歌をリードして下さって、楽しく歌って、祈ってから食べる。

まあ、いつまで続くかなぁと、思うこともありますけれど、でも、一週、一週の、お昼御飯を、心合わせて祈って食べる、仲間がいるって、この時代に、本当に幸いなことでしょう。


今、家族でさえも、一緒に食事しない時代。個食。一人で食べ、分け合う喜びも、分かち合う喜びも、味合わない時代にあって、

共に生きるからこそ味わえる、喜びも感動も、見失ってしまった、この時代のただなかで、

まるで、あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているんじゃないかって、疑われるほどに、

この教会は、主イエスを真ん中にして、共に分かち合い、喜びあい、一緒に生きようとしているのだから。

いや、これはわたしたちの、思いや願いではないのです。

人間の思いで、こんなことは実現しない。

ただ、聖霊の風が吹く時、聖霊の炎が、その舌が、一人ひとりの上にとどまるとき、

お互いのくちから語られる、主イエスの証が、愛のみ言葉が、

ひとりひとりの心のふるさとの言葉のように、心にひびきあい、

喜びにあふれる、そんな仲間と、神様がして下さっているのです。

わたしたちは、聖霊によって生まれた、実に不思議な仲間なのです。