「わかる」ということ

今日の黙想

エレミヤ3章

「・・・我々は主なる神に罪を犯しました。
我々も、先祖も
若いときから今日に至るまで
主なる神の御声に聞き従いませんでした」25節

神ではないものに心奪われ、結局むなしさのなかに堕ちていったイスラエルの民

手っとり早い目の前の繁栄、力の誘惑に、神の語りかけを聞く心の耳はふさがれていったのだろう。

子育てのなかで、親は子に、なんども同じ注意を繰り返すことがある。

目の前の欲求にすぐ反応しないで、今すべきことを、親は子になんども告げる。

例えば、「ゲームばかりしていないで、今しなければならないことはなんなの」

「ご飯の前に、お菓子をたべたら、ご飯が食べられなくて、病気になるよ」

とか。

それは、子が目の前の欲求に振り回されてしまうなら、やがてその痛い結果を、自分自身が刈り取らなければならないことを、親は経験として知っているからだ。

だから、親の子どものために、なんどでも同じことを言い続ける。

聞く方もつらいが、言う方もしんどい。

なんども同じことを聞いていると、

そのうち「もうわかっているよ」と、聞く耳は失なわれやすいもの。

しかし、「わかっていない」ので、なんども同じことを聞かなければならないわけだ。

「わかる」とは、聞いた言葉によって、行動がかわることなのだから。

自分も散々、親から同じことを言われ続けた。

言い続けてくれた親の愛と忍耐に、今は感謝している。

神の子であるイスラエルの民は、目の前の欲求の声に負け、親である神の声に耳がふさがれていった。

それでも、自分たちは、神を礼拝する民なのだと、神の言葉を聞きつづけて、

「もうわかっている」と思っていたのかもしれない。

しかし、やがてバビロンへの捕囚という滅びの苦しみのなかで、

御心が「わかっていなかった」ことに気づいていくのだろう。

自分を振り返ってみても、今になってやっと「わかりはじめてきた」気がする程度。

子どもなんてそういうもの。なんども痛い思いをして、学ぶしかない。

「親の小言と冷酒は、後からきいてくる」

これは名言だな、とおもう。