「神の霊の風が吹くなら」(花小金井キリスト教会 2016年10月23日 夕礼拝メッセージ)

エゼキエル37章1節〜14節

 今日の朝の礼拝は「召天者記念礼拝」でした。先に天に召されていった方々を覚えて、地上で捧げる礼拝。

キリスト教は、希望の宗教です。それは死が終わりではなく、体は滅びても、魂は天国に行くのだという、そういう希望ではなくて、神によって新しい体に復活し、この罪と限界に満ちた天と地は、神によって新しい天と地とされ、わたしたちはその新しい天と地に、新しいからだに復活し永遠の命に生きる。

それが新約聖書の一番最後、黙示録が伝えている希望です。

ですから、キリスト教の希望とは、死んでも天国に行ける、ということを超えて、むしろ、やがて向こう側から、新しい天と地がやってくるという希望。
死んでしまった、今は見えない人々も、生きている人々も、やがて等しく、神によって復活し、新しい天と地に入る。

その復活の最初の人、初穂が主イエス

主イエスこそ、十字架の死という、この「古い天と地」というものが抱えている絶望の先に、その「古い天と地」をまるごと新しく復活させて救うという、父なる神の壮大なる救いの初穂として、主イエスを「復活」させられた。
なので、主イエスの十字架の死と復活によって、この「古い天と地」は、やがて神によって新しい「天と地」へと復活することが確定した。
今は、その神の勝利を信じて、救いを信じて、その勝利に向かうプロセスをわたしたちは生かされている。それが教会の時代。

 なので、今までも、これからも、歴史の中において、さまざまな苦しみ、試練、困難はあるとしても、それは「古い天と地」が「新しい天と地」へと生まれていくプロセスとしてのうめきといえる。

使徒パウロは、そのことがわかっていたからこそ、ローマの信徒の手紙の中で、こういうことを言ったわけです。


ローマ8章18節〜

「8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。

8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

8:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。

8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」


要するに、この「古い天と地」に生きる、被造物のすべてが、滅びに向かう隷属状態から解放され、神の子の栄光に輝く自由、つまり「新しい天と地」に向かって、今に至るまで、うめいている。生みの苦しみを味わっている。

そして、わたしたち一人一人も、この限界ある体が、新しい体へと、贖われること。上から新しい体を着ることを、うめきながら待ち望んでいる。

この希望によって、わたしたちは救われているんですよと、パウロは言うわけです。

まさに、パウロが、上からの啓示、悟りのなかで、語っていることばでしょう。


 なぜ聖書全体の救いの枠組み、そしてゴールの話をするのかというと、今日のエゼキエル書37章で言われている、枯れた骨が、神の霊によって復活するという幻が示しているテーマでもあるからです。


神の民イスラエルが、大国バビロンに攻め込まれ、民はバビロンにつれて行かれ長い都市がたち、エルサレムは廃墟のようになっていた時でしょう。

預言者エゼキエルは、主の霊によって谷の上に連れ出され、そこでたくさんの骨を、枯れた骨を見せられる。
それは、戦争による破壊とうず高く積まれた死体の山を、いやでも連想させます。

どうしても、共に生きることができなくなり、やがて破壊と殺りくに至る、罪にまみれたこの地の現実を、この「枯れた骨」は象徴しているのではないでしょうか。


エゼキエルに主は、「これらの骨は生き返ることができるか」と尋ねます。

驚くべき問です。

エゼキエルは答えました。
「主なる神よ、あなたのみがご存知です」と

圧倒的な絶望を前に、人間が答えられる精一杯の答えを、エゼキエルはした。

そのエゼキエルに、主は命じます。これらの骨に向かって、神の言葉を語れと。骨に霊を吹き込むと、生き返ると。骨の上に筋を、肉を、皮膚をおおい、霊を吹き込むと生き返ると。

エゼキエルがその通りに、神の言葉を語ると、そのようになった。

しかし、その生き物の中に、まだ霊はなかった。
そこで、神の霊が四方から吹き来たり、この殺された生き物の上に吹き付けることで、本当の意味で生きるものとなった。


この「枯れた骨」とは、直接的には、バビロン捕囚によって、滅びの絶望の中にある、イスラエルの民のことだと言われます。

やがてバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰る希望の幻ということでしょう。


しかし、この枯れた骨に、神の霊が吹きこまれて、生きるものとなる、生き返るというモティーフは、聖書全体に貫かれているテーマであるわけです。

創世記で、土から造られた最初の人の鼻から、神の息が、霊が吹き込まれて、生きるものとなったこともそうでしょう。

ペンテコステの日に、弟子たちの上に神の霊が降って、彼らは新しい希望を語る人となって、生き始めたということも、そうでしょう。

この「古い天と地」は、そのまま閉じられた世界のままではエネルギー不足で、滅びにいたってしまう。どうしても上からの霊が、命の力が注がれる、ということが必要。

そんなイメージをわたしは抱いているのです。

エントロビーの法則という熱力学の法則があって、簡単にいうと、エントロピーとは、無秩序の度合のことですけれども、その無秩序の度合は、閉じられた系のなかでは、必ず増大する、つまり無秩序に向かうという法則があるわけです。

たとえば、コーヒーにミルクをたらしてほっておくと、ミルクはだんだん広がっていって、コーヒーと混ざってしまう。

これはつまり、最初は一か所に集まっていてミルクの分子が、時間とともにバラバラに散らばっていった。無秩序になったということ。エントロピーが増大したわけです。

これは閉じた世界のなかでは、逆転しない。ほおっておいて、コーヒーと混ざったミルクが、またミルクの塊に集まることはないわけです。

それはこの宇宙全体がそうなのであって、宇宙のすべての物質は、時間とともにだんだん無秩序になり、バラバラになり、崩壊していく。
元に戻ることはない。

これがエントロピーの法則。

死んだ人間の体は、微生物によってバラバラになり、骨だけが残る。その骨だってやがて枯れ果てて、チリとなる。これが逆転することはない。

それがエントロピーの法則。

でもそのエントロピーの法則には、前提があって、それは、閉じられた世界のなかにおいて、ということなのです。

閉じられた世界においては、そう。しかし、その世界の外側から、エネルギーがそそがれるなら、無秩序から秩序が、滅びから、新しい命が生み出されることは、むしろ当然でしょう。


最初、エジプトの奴隷から救いだされ、律法を与えられたころのイスラエルの民の熱い信仰は、旅ゆくうちにだんだんと無秩序となっていき、王国が分裂し、バビロンに捕囚になるという、まさに枯れた骨のように干からびてしまったイスラエルの民に、上から神の霊が、エネルギーがそそがれ、神への信仰が生き返り、エルサレムへと帰っていく。

また、主イエスと生活していた時には、一緒に行動していた弟子たちが、主イエスがつかまり、バラバラになっていく。そんな、主イエスから逃げ去った弟子たちの上に、やがて神の霊が、聖霊が注ぎ、バラバラで無秩序だった彼らが、一つの体となっていったように。

そして、2000年の教会の歴史においても、なんどもなんども、キリストの体としての、秩序を失い、争い分裂した教会が、神の霊によって、その本質に立ち戻る出来事が、ありました。宗教改革もまたそうでしょうし、わたしたちバプテストの祖先もまた、聖書に立ち戻って、熱く一つの群れを作っていくそのエネルギーの背後に、この四方から吹いてきた、神の霊の働きがあったのだと、わたしは信じます。

花小金井教会の歩みもそうではないでしょうか。主にあって共に生きる仲間。支え合い祈りあう共同体。そういう一つの思いから、だんだんと、バラバラの方向に向かっていくものです。

だからこそ、わたしたちの真ん中には、祈りが必要。主イエスとつながり、霊の息吹を受け取る祈り、ともに捧げる賛美、礼拝によって、上からの霊の働きかけを、エネルギーを受け続けていくことで、ひとつとなっていける。

そして、神の霊による、新しい復活が、起こる。


ちょうど、このエゼキエル書の学びを、水曜日の祈祷会でしていたとき、そこにいたIさんが、「わたし、バプテスマを受けます」と言いだされて、そこにいた皆さんは驚いたわけでした。

 でも、本当は驚くことではないのでしょう。この「古い天と地」のなかで呻いている、私たち人間の力ではどうしようもなくても、上からの力、神の霊の風が吹くならば、枯れた骨が復活することを、わたしたちは知っているのですから。

こうして、主イエスを救い主と信じる人が生まれるたびに、わたしたちはこの古い天と地がすべてではなく、やがて神によって、新しい天と地がやってくる希望を新たにしていくのです。