エゼキエル33:1-11
毎週、エゼキエル書を読み進んでいますけれども、先週が8章だったのに、今日は33章にまで進んでしまいました。
先週の個所を覚えておられますかね。故郷の南ユダから、異教の地バビロンにつれていかれた預言者エゼキエルが、幻の中で、故郷の南ユダ、そしてエルサレムの神殿の様子をみせられた。そしてそこは偶像に満ち満ちていたというお話でした。
偶像が意味していることは、イスラエルを愛し、選び、導いてきた、ヤハウェの神への不信であり、愛に対する裏切りです。
主なる神は、イスラエルの民をねたむほどに愛される神として、関わっているわけです。愛しているから、その愛に応答しないことに怒られ、神との愛の関係の中に引き戻そうとされる、神様の変わることのない愛が、怒りという表現となって噴き出しているようにも読むことができます。
つまり、神の愛は、条件付きの愛ではないのです。神の民の側の振る舞いによって、愛さなくなったり、愛したり、神の愛は変化しない。ただ、人間の側で、その神の愛に背を向けていたり、悔い改めて向き直ったりすることを、繰り返しているわけです。
でも、そもそも悔い改めることができるということは、神に愛されているからなのであって、神に愛されるために、悔い改めるという、「愛される条件」ではないわけです。神の愛は人間の振る舞いによって、変わったりしない。
この理解は、実に重要です。
愛されるために悔い改めるのではなく、愛されているから悔い改める。神様との愛の関係のなかに、立ち戻る。
そこに、神と人との平和が訪れる。
そのような神さまと平和、和解へと導くのが、預言者。なのに、神との「平和」がない状態で、「平和」だ「平和だ」と、現状維持をさけぶ、偽りの預言者がいたり、神の民への愛がなく、自分だけを養っているような、イスラエルの放者たちがいたなかで、
今日の33章では、神の民の預言者というもののその務めとは、見張りのようなものだと、たとえによって語られていく箇所です。
「見張り」という言葉は、以前の口語訳聖書では「見守る者」と訳されています。
「見張り」というのは、敵に対して使うものでしょう。味方に対しては、「見守る」がいい。
わたしは昔自衛隊にいたことがありますから、富士山の裾野の演習場で、この「見張り」の訓練、「歩哨」というのですけれども、そういう訓練を実際に経験したことがあるのです。なので、この聖書のたとえは、私にはとてもリアリティーがある。
見張りというのは、部隊の先にいって、いち早く敵の動向を察知して、味方に伝えることがその任務。
敵と戦うのではなく、状況を伝えることが任務。現代は無線がありますけれども、エゼキエルの時代は、「角笛」を吹いて伝えたわけでしょう。
剣が迫っていることを確認したなら、見張りはすぐ「角笛」を吹いて警告しなければならない。
もし、警告である「角笛」の音を聞いたのに、その「警告」を受け入れないで、命を失うなら、それはその人の責任。
でも、「見張り」が、角笛を吹かなければならないのに、角笛を吹かなかったので、民が死んだら、その血の責任は、「見張り」の者にある、ということが言われています。
当然のことです。そのための見張りなのだから、任務をちゃんと果たさなければ責任を問われるでしょう。
7節から9節では、もう少し具体的な言葉で語られます。
「人の子よ」と呼びかけられる預言者エゼキエル。
8節にはこうあります。
「わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める」
語らなければならないのに、語らないなら、その責任を問われ、一方で、語る務めさえを果たしたなら、その結果がどうであれ、語った人には責任はない、ということが言われるわけです。
これに似ているのは、現代の食品表示ですね。特にアレルギーを引き起こす食材が入っていると警告しないまま、買った人が食べてしまって、アレルギーでアナフィラシーショックで亡くなったら、伝えなかったという責任を問われることになるでしょう。
これと似ています。
預言者の務めは、相手の行動を変えることではなく、神の言葉を伝えること。
そのまま偶像を拝むような道を歩んでいては危ない。その道から離れ、主なる神に立ち返るようにと、伝えること。
「悪人よ、お前は必ず死なねばならない」という表現は、とても強く、伝えることにちゅうちょする。
しかし、実は11節で「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ。立ち返れ、立ち返れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」
と主は語られるのです。
「悪人よ、お前は必ず死なねばならない」と言いつつ、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない」「どうしてお前たちは死んでよいだろうか」という。
まるで、親が反抗する子どもに、「そんなに反抗するなら、家から出て行け」と言いながら、その心の奥底では、わたしは、お前が本当に出て行くことを望んでなどいない。立ち返ってほしい。そう願うからこそ、「出て行け」と言わせてしまっているような、そういうことではないか。
つまりこの「悪人よ、お前は必ず死なねばならない」という言葉も、神様の愛の裏返しの言葉なのです。
そこで目を覚まし、立ち返ってほしい願う、天の親心であるわけです。
つまり「警告」もまた、神の愛の表現なのです。「警告」は脅していうことを聞かせているのではなく、神の愛の呼び掛け。
その神の愛の語りかけを、語るようにと、託されたのが、預言者エゼキエル。
そういう意味で、主イエスもまた、特にファリサイ派や律法学者たちを愛するがゆえに、「警告」を語り続けた、預言者であったと言えるでしょう。
特にマタイの福音書の23章は律法学者とファリサイ派の人々への辛辣な批判、激しいまでの「警告」の言葉が語れています。
少し読んでみます。
23:29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。
23:30 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
23:31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
23:32 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。
23:33 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。
23:34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
23:35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
23:36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
これもまた、非常に厳しい「警告」です。
律法学者やファリサイ派の人々は、預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりした。
自分たちは、正しく信仰を守った預言者たちに属している、自分たちは預言者の側に立つ人間。
そう思い込んでいる彼ら。その思い込みに囚われている状態こそが、まさに預言者を殺していって人々の子孫ということだ。そういう厳しい問いと「警告」を、主イエスはなさいました。
主イエスにおいては、「悪人」とは、つまり「偽善者」のことだったから。
自分が囚われていることに気付かず、あの人は「悪人」だと、神の言葉を使って裁いていた「偽善者」こそ「悪人」だと言われるわけだから。
そういう「偽善」という悪から、神に立ち返るようにと、主イエスは厳しいまでの「警告」を語りつづけ、そのために、憎まれ、十字架に付けられていったわけです。
何が言いたいのかというと、「悪人」に自分たちこそが警告を伝えなければならないと、人々を裁いていた律法学者 ファリサイ派の人々こそ、主イエスからみれば、「悪人」だった、という話なのです。
それはわたしたちクリスチャンもまた、陥りやすい間違い。
このエゼキエルの姿に、自分を重ねて、わたしも、あの悪人に警告を伝えなければいけないのだ、と受け取るなら、それは、自分を正しい立場において、人を裁く、律法学者とファリサイ派の人々と同じ間違いを犯すでしょう。
自分たちクリスチャンは正しい。でもこの世は間違っている。けがれている。だから、角笛を吹いて、警告を発するのだと、読み違えてしまうでしょう。
クリスマスの時期になると、繁華街や駅前で、あるキリスト教系のグループが、「神の裁きはちかい。悔い改めよ」というメッセージをスピーカーで流します。
わたしが酒田で開拓伝道をしていたとき、時々彼らが仙台から車でやってきて、「悔い改めよ」と録音されたテープを、朝早くから人々の迷惑も考えずに流しては、すぐに仙台に帰っていくのをみて、わたしは、非常に複雑な思いを抱いていました。
わたしたちは、その土地に移り住み、そこに生きる人と共に生き、地道に小さな愛の種をまきながら育ててきた信頼という花を、土足で入ってきて踏みにじっていかれた気がしたからです。
彼らはその土地に移り住むこともなく、ただ、テープをかけて、聖書の言葉を聞かせることが、伝道だと思い込んでいる。
もしそれが伝道なら、なにも危険な場所に宣教師は出ていかなくても、生活しなくても、そこに生きる人に出会わなくても、テープで聞かせて、帰ってくればいいわけです。
主イエスも、わざわざこの地上に生まれて、人々と同じ姿に、同じ悩み、苦しみを味わいながら、神の言葉を語らなくても、天からテープの声を響かせておけばよいことになる。
でも、主イエスは、そうないませんでした。なぜなら、それでは神の御心、愛はどうしても、伝わらないからでしょう。
わたしたちは、エゼキエルをとおして警告を語ろうとしておられる、天の父の御心を、罪ある人を愛さずにはおれない、神の愛の心を、しっかりと胸に刻みつけたいのです。
「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ。立ち返れ、立ち返れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」
そう語られている、主の憐れみを、主の愛を、
その愛のゆえに、主イエスをこの地上に生まれさせ、人として、悩み、悲しみ、苦しみ、ともに生き、
そして、人が滅びることのないようにと、十字架の上に御自分の命を捨てられることで、示された、
神の愛のみ心を、だれよりもまず、自分自身への語りかけ、愛の言葉として、しっかり心に刻むなら、
わたしたちの口から出てくるメッセージは、人を恐れさせる裁きのメッセージではなく、
本当の意味で、悔い改めへと導く、神の愛を語るメッセージへと、変えられていくでしょう。
その福音のメッセージこそ、この世界が本当に求めている救いの言葉。
わたしたちは、この本当に人を救う、神の愛の福音をこそ、語り仕える任務を、主から与えられているのです。