「富からの解放」(花小金井キリスト教会 10月16日主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書16章1節〜13節

素晴らしい秋空となりました。ともに顔と顔を合わせて、天を見上げさせていただける恵みに、感謝です。
秋というと、食欲の秋とか芸術の秋とか、なにかゆっくりと腰をすえて「味わう」季節ですね。
わたしも先週、DVDの映画を借りて、ゆっくり鑑賞したのです。

芸術作品ではなくて、実話に基づいた映画なのですけど、覚えておられますか、2010年にチリのサンホセという鉱山で、落盤事故があって、地下700メートルに、33人の男性が閉じ込められてしまった出来事がありましたでしょう。そして実に70日後に、その全員が救出されるという奇跡の出来事が、去年映画化されて、DVDになっていたのです。


 閉じ込められた彼らを助けようと、地下700メートルの小さな空間に向って、地上から穴を掘るけれども、ずれてしまって、なんどやってもうまくいかない。地下には3日分の食料しかないのに、もう2週間以上たってしまった。でも、あきらめずに地上から小さなドリルで、なんども穴を掘り、やがて17日目に彼らのいた場所に、その小さなドリルが届いた瞬間の感動。彼らは少ない食料を分け合って、全員生きていた。彼らのほとんどは、クリスチャンで、中には牧師もいた。地下で必死に祈っていた。そしてその後、本格的に救出の穴が開けられ救出されるまでの数カ月の間、その最初に開けられた小さな穴から、食料や医薬品だけではなくて、聖書が届けられ、彼らはその地下で礼拝をし続け、やがて地上に救出されることを望みつつ、支え合って生きつづけた。


この映画を見ながら、ああ、これって、まるで天を見上げて集う、地上の教会のようだと、思ったわけです。

約2000年前に、この地上に、主イエスによって、天から小さな穴が開けられた。そして、それ以来、主イエスの言葉がその小さな穴、「せまい門」から響いてきて、この地上の暗闇、罪と悲しみと限界に満ちた闇の中に、天の光をともしてくださっている。その天から響く、主イエスの言葉に支えられ、やがて、その天に、救出される時を待ち望みつつ、天から響く、主イエスの言葉によって、ともに天を見上げて励まし合い、地上を生きぬく集まり。


使徒パウロは、「私たちの国籍は、天にある」といいました。そう、わたしたちには、帰るべき故郷があります。

主イエスはその天からの言葉を、小さな穴、せまい門から、私たちに語りかけ、励まし続けてくださる。

ですから、時に、主イエスの言葉は、地上に生きるわたしたちには、まだその意味がよくわからない、理解できないこともあるのです。


今まで、ルカの福音書を順に読み進めてきて、先週は有名な「放蕩息子のたとえ」話を読みました。

放蕩三昧で、帰ってきた弟息子も、真面目に働いた兄息子も、ともに愛する「天の親心」が、そこに語られていたわけです。

 しかし、地上に生きる私たちには、その天の価値観。天の親心のすべてを理解できないし、納得できないでしょう。

 あの遺産を無駄使いして、帰ってきた息子の、悔い改めの言葉さえ聞かないうちに、抱きしめ、受け入れてしまう父の話など、聞いたことがない。

こんなことをしていたら、この息子は、また同じことをするぞ。いっそ雇い人にして苦労させ、反省させるくらいじゃないと、だめだろうと、すっかり地上の価値観のなかで生きているわたしたちは、この天の価値観、天の親心が、なんだかしっくりこない。


 それは当然なのです。主イエスが語っているのは、この地上でうまく生きる方法でも、常識でも、教訓話でもなく、天のこと、神の国のことなのだから。

まだ、この地上という湯船に、どっぷりつかって生きている私たちの常識という枠組みには、入らない。理解できない。逆を言えば、だからこそ、主イエスの言葉は、天から響く言葉。

わたしたちはそう信じて、ここに集い、天から地上に開けられた、小さな穴から響いてくる、主イエスの言葉に耳を傾けている。

そういうイメージを持ちながら、今日はとくにこの「不正な管理人」のたとえ話に耳を傾けたいのです。

この主イエスのたとえも、この地上の教訓話ではなく、天から響く、神の国の話。
そのイメージで、

1節からもう一度、このたとえ話に耳を傾けましょう。


16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。

16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』


 金持ちの財産管理をしていた人が、主人の財産を無駄遣いしていると密告された。

主人は怒って、会計報告を出させて彼を辞めさせることにした。

まあ、ここまでは、わたしたちにもよくわかる話です。


16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。

16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』


さて、この管理人は、仕事を辞めさせられても生きられるように、仕事をしているうちに、自分を家に迎えてくれる人間関係を築こうと考えた。


16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。

16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』

16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』


自分との人間関係、友人関係を作るために、主人に負債のある人一人一人を呼び、その負債を軽くしてしまう。

確かに借金をしていた人は喜んだでしょう。この管理人に感謝したかもしれない。

でも、金を貸していた主人にしてみれば、この管理人によって、さらに損をさせられたという話。

わたしたちの常識で考えれば、この管理人のしたことは犯罪じゃないか。捕まえて、牢屋にいれないとだめだろうと、考えるでしょう。

ところが、主イエスは、そういう教訓話で終わらせない。わたしたちの考えるとおりのお話で終わらないわけです。

16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。

なんと、主人は不正な管理人を褒めた。なぜなら「抜け目ないやり方」をしたからだという。

ここにおいて、主イエスがこの地上の倫理とか、道徳とか、教訓話をしているのではないことは明らかなのです。

天の話、神の国の話が始まっているのだから、わたしたちの常識で、この管理人の不正行為を褒めるなんて、おかしい、間違っている、理解できない、と言うのは、実は、的を外している。

主イエスのたとえ話は、この世のことを語っているようでいながら、実は天のこと、永遠の命、神の国へと、わたしたちの目を向けさせている。

それは、8節の後半で、この「世の子ら」とか、「光の子ら」という言い方にも表れています。
「この世に生きる」ことと、「天に生きる。天の光のなか」を生きることが、対比されていくでしょう。

そして、9節では、さらにはっきりと、このたとえ話は、永遠の住まい、永遠の命の話であることが明らかにされていく

16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。


「不正にまみれた富」という言葉を聞くと、どうしても、わたしたちの常識に引っかかってしまう。

わたしはこのメッセージを準備するにあたって、幾つもの注解書、説教などを読んでみましたけれども、そのどれもが、この「不正にまみれた富で友達を作れ」という主イエス言葉の意味を、理解することに、大変苦労している。

なんとか今の常識、道徳、価値観に矛盾しないよう、この「不正にまみれた富で友達を作れ」という言葉を、解釈しようとしているように読める。

しかし、それは無理なんじゃないか。これはこの地上の教訓話ではなく、天から響く主イエスの言葉なのだから。

わたしたちも、視点をこの地上から、もっと高く、天に持っていく必要があるんじゃないか。

天から、もしこの地上を見たなら、どうなのか。

完全なる「天」。神の愛の御心が100パーセント行われている「天」

その「天」からこの罪と暴力と不正にまみれた、地上をみたなら、

わたしたちがいくら、正しく生きていますと胸を張ってみても、

わたしたちの生きる営み、手にしている「富」、「お金」は、

「不正にまみれた富」なんじゃないですか。

わたしはなにも不正などしていない。全うな生き方をしてきた。神の前に1円たりともやましいことはない。

もし、そう言えるなら、その人には、そもそも、「天」は必要ないでしょう。この地上で清く正しく、満足して生きていけばいい。

しかし、自分の限界を知っている人、愛の限界、正しく生きることの限界を知っている人。
自分という存在のいい加減さ、罪深さを知っている人には、わかるのではないですか。

わたしたちの富とかお金など、天から見れば、「不正にまみれた富」としか言いようのないものであることを。

「富」とは違う言い方をすれば「力」「パワー」です。

わたしたちが、なにかしら「力」をもつとき、「パワー」を持つとき、その力で人を傷つけたことが一度もないとは、言えないでしょう。

この罪にまみれた世界の中で、今まで生き抜いてきたということは、全く汚れなき生き方をしてきたというより、むしろ、自分の力で、人を支配し、傷つけながら、生き延びるしかなかった、ということもあったのではないですか。

全く完全なる「天」から見れば、この地上の「力」であれ「富」であれ、そこには、どうしても「不正にまみれた富」の匂いがする。

わたしたちも、この不正な管理人のことを、笑えない。天から見れば、罪と限界を抱えた人間。


しかし、それでもこのたとえ話が、「福音」であるのは、

そんな「不正にまみれた富」のような、この地上の、限界あるわたしたちの営みであろうと、

そんな「不正にまみれた富」で、友を作れ。人とつながりなさい。それが、やがて金もなにもかも、この地上のものを置いて、天に招かれ、永遠の住まいに迎え入れてもらう、あなた方の生き方だと、主イエスは教えてくださっている。


「不正にまみれた富」という、限界を抱え、罪を抱えたわたしたちの富、力を、しかし、友を作るために、人とつながるために、人と愛を分かち合うために、使う生き方こそ、永遠の住まい、「天」に迎え入れられる、光の子の生き方。。

あのチリの落盤事故で、地下700メートルに閉じ込められていた、33人の男たちが、地上から小さなドリルの穴が届くまでの17日間、どうして生き延びたかわかりますか。。

備蓄されていたのは、ツナ缶14個、サケ缶1個、豆の缶詰2個とビスケットが少しだけでした。この小さな「富」を、チリの荒くれ男が、だれか一人でも腹が減ったと、独り占めすれば、3日も持たない、わずかな食料と水を、彼らは分け合ったのです。一人当たり一回スプーン2杯のツナを、2日に1回、やがては3日に1回と、分け合った。だれも独り占めしなかった。

そのわずかな食糧と水を分け合うことで、33人が心からつながった。助け合う友となった。
だから、17日間も生き延び、そして、地上へと救出されることになった。

「富」というものを、どう使うべきなのか、これほどリアルに教えてくれる出来事も、ないでしょう。

主イエスは、10節から、さらにこのように言われました。

16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。

16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。

小さい事に忠実である人に、大きいこと、本当に価値あるものを任せるだろうといわれる主イエス

その小さいこととは、「不正にまみれた富」のことであり、言いかえれば、今、この限界ある、罪にまみれた、わたしたちに与えられている「富」「力」、人生の営みそのものでしょう。

それは永遠の天からみれば、限りある小さなもの。わたしたちの地上の人生も、たかだた100年。

永遠からみれば、小さなもの。

しかし、その小さくても、わたしたち一人一人に託された人生を、「富」を「力」を、

神とつながり、人とつながるために、忠実に使いたい。

それは、やがて天において、永遠に価値ある、なにかはわからないけれども、大きなもの託されていく、新しい人生へとつながっていく営みなのだから。


実は、このたとえ話は、主イエスに従ってきた、弟子たちに向けて、語られている話だったのです。

でもわたしたちも、天から響く、主イエスの言葉に聞き、主イエスの言葉に従って、天に向かって生きていく意味で、主イエスの弟子でしょう。


そういう、主イエスの弟子たちに向けて語られた、天のたとえの最後に、主イエスはこう言われます。

16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


つまり、神に仕えないなら、富に仕えることになる。

これを、言い換えるなら、

神に仕えること、つまりやがて天において、お会いする、神のみ心を求めて、神の国へ、天に向かって生きないのなら、

この限りある地上のこと、この世のこと、目の前の「富」「力」だけに心縛られ、支配され終わるでしょう、ということ。

地下700メートルの世界で、どうせ明日は死ぬのだ、飲んで食べて楽しめを、目の前の「富」「金」「力」を求めて、生きるだけでしょう。「富」に仕えるとは、そういうこと。


しかし、わたしたちは知っているのです。わたしたちの国籍は天にあることを。

わたしたちは、この世からやがて救出され、天に迎え入れられることを。

その天において、「神の国」において、顔と顔を合わせて、神様とお会いすることを。

それを知っているわたしたちは、今から神を愛し、神に仕えて生きるのは、当然なのです。

地上にいきながら、ともにおられる主イエスによって、天を意識し、天の価値観で、今を生きようとする。

それが主イエスの弟子です。。


来週のわたしたちの礼拝は、「召天者記念礼拝」なのです。

この地上で、小さなことに忠実に生きぬいた、信仰の先輩方の写真が、たくさんロビーに並びます。

でも、わたしたちの写真も、やがて飾られるんですよ。そんなに先の話でもないでしょう。

天に、地上の富は持っていけません。それは、「不正にまみれた富」なのだから。

でも、今、その「不正にまみれた富」であろうと、その小さな「富」を、力を、時間を、人生を

主のために使いましょう。

神を愛し、人を愛し、共に、永遠の住まいへと招かれる友を、つくりましょう。

今週も新たに、人とつながりましょう。

使徒パウロも言っています。

いつまでも残るものは、信仰と希望と愛であると。

そして、もっとも大いなるものは、人と人とをつなぐ、愛なのだと。