「向き合ったとき」(2016年花小金井キリスト教会夕礼拝メッセージ)

列王記下4章8節〜37節

今日も、長い出来事を一気に読みました。

イスラエルの危機の時代に、神様は、神の御心を伝える預言者を、遣わされる。ですから、預言者のことを、神の人といったりします。

今日の出来事の中でも、預言者エリシャは、「神の人」
と呼ばれています。

ただ、その「神の人」も、あくまで、「神の人」なのであって、もちろん「神」そのものではないわけです。

もちろん、人間であるし、人間である以上、限界もあれば、100パーセント神の御心と一つでないときもあるはず。

そうでなければ、その神の人は、神になってしまうでしょう。

もし、そういう意味でいうなら、わたしたちは、主イエスこそが、100パーセント神の御心を語り、この地上で生き抜いたお方という意味において、メシア、キリスト。子なる神と信じて告白しているわけです。

さて預言者エリア、そしてその弟子として、エリアに与えられていた、神の霊。その神のたまものを引き継いだのが、エリシャでした。

エリシャは、その神の霊によって、語り、そしていくつもの奇跡を行った預言者
主イエスも、奇跡を行われましたが、主イエスの奇跡の行い方と、エリシャのそれとはすこしちがう。
特に、ヨハネ福音書では、主イエスの奇跡は、主イエスこそが、キリスト、神の子であることの、しるしとして、おこなわれたということが、 はっきりと言われています。

また福音書は、主イエスにおいて、神の国がやってきたことの表れとして、病や、悪い霊の束縛の力から解放し、自由を与え、神様の愛の御心に、わたしたちがいきるようにと、救い出されるという、メシア、キリストの解放の業としての、奇跡と理解できます。

それに対して、エリシャが行っている奇跡は、そういう意味はないわけです。

2章の後半には、ある町の水が悪かったのを、彼は清めるという奇跡をします。一方で、そのすぐ後、町の小さい子供たちなのか、若者でならず者なのか、その集団から、「はげ頭」とバカにされ、エリシャは怒って彼らをにらみつけ、呪ったら、森の中から2頭の熊が現れ、その若者たち42人が引き裂かれた出来事も記されるのです。

この神の人と呼ばれるエリシャも、限界ある人であるということです。

主イエスと比べられたら、エリシャがかわいそうなのかもしれませんが、申し上げたいことは、「神の人」と呼ばれ、奇跡さえ行う力を、神から与えられている預言者といっても、人間であり、100パーセント神の御心のとおりに、行動しているとは言い切れないことも時にはあるだろう、ということです。

そういう見方で、今日のエリシャが行ったことを考えてみましょう。


最初エリシャは、一人の裕福な婦人と出会っています。この女性は物語の最後まで名前がでてこないので、わかりません。ただ、何らかの理由でエリシャと出会い、彼を引き止めて、食事を勧めた。一緒に食事をしたのでしょう。それ以来、エリシャは彼女の家の前を通るたびに、立ち寄って食事をするようになったのです。

彼女には夫がいました。もちろん、夫に内緒でエリシャと食事をしていた、という訳ではないようです。彼女は、夫に「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることがわかりました」と言うからです。

ただ、そうではあっても、彼女はどんどんエリシャへの待遇を厚くしていくのです。

食事だけではなく、家にエリシャのための小さな部屋を作り、寝泊まりして、仕事ができるように、寝台と机と椅子と燭台まで備えてあげた。

なにか、パトロンのような関係です。預言者は「神の人」として、神に頼って生きていく厳しさがある。エリシャの師匠だった、エリアはまさにそういう道を通って、預言者になった。カラスに養われ、貧しい親子の最後の食事で、生かされるという、そういう経験を通して、神によって生かされ、神によってたてられるという、預言者、神の人となったわけですけれども、その後を次いだエリシャは、そういうところを通らなくても、「神の人」とみてもらい、尊敬され、裕福な女性に好意を持たれて、必要を満たしてもらっている。

そういう流れの中で、エリシャはこの女性の好意に、報いよう。「あなたのためになにをしてあげればよいのだろうか」と尋ねているのです。

ゲハジという付き人、従者がエリシャにはいましたが、このゲハジを通して、彼女の必要を訊ねさせたところ、「わたしは何不足なく暮らしています」という返事。

そういわれれば、そこで引き下がればいいわけですが、エリシャは重ねて、ゲハジに「彼女のために何をすればよいのだろうか」と訊ねていくわけです。

そう、すこしエリシャは、善意の押し売りっぽいのです。彼女のため、というよりも、自分の気持ちが収まらないという、そういう動機で動いているように思える。

それは果たして、神の御心。神の思いを、天の思いを実現することなのか。

結局、彼女の思いを聞くわけでもなく、ゲハジから、彼女は子供もなく、夫も年をとっていると聞いて、エリシャは彼女に、来年の今頃、あなたは男の子を抱いている」と告げて、実際にその通りになる、というか、そのようにしてしまう。」

どうも、ここまでの話の流れを丁寧に追っていくと、エリシャの語っていること、していること、女性に子を与えるということが、天の思いに従ってというよりも、エリシャ個人の思いを、ただ実現しようとしたのではないかと、そのように読めなくもありません。


そういういきさつのゆえなのか、ある日、大きくなったその子が、頭痛を訴えて、倒れ、すぐに死んでしまうのです。

その子を、母親は、エリシャのために用意した部屋に運び、寝台に寝かせて、急いでカルメル山にいる、エリシャの元に向かうのです。

医者の元ではなく、エリシャの元に向かったのは、なぜでしょう。

エリシャならよみがえらせてくれると思ったのでしょうか。

エリシャのもとにつき、その足下にすがりついた彼女は、こう言ったのです。

「わたしがあなたに子供を求めたことがありましょうか。わたしを欺かないでくださいと申し上げたではありませんか」(28)

彼女は、エリシャに抗議しているのです。求めてもいなかった子を与え、そして次には、その子を取り上げ、苦しめるのですか。それはあまりに勝手ではないですかという、訴えでしょう。

そして、そのように訴えてすがりつく彼女を、引き離そうとするゲハジ。

その時エリシャが言った言葉に、どうも、少し首をひねらざるをえないのです。

エリシャはこう言いました。

「そのままにしておきなさい。彼女はひどく苦しんでいる。主はそれをわたしに隠して知らされなかったのだ」と。

エリシャは、自分のしたことによって、結果的に、彼女がひどく苦しむことになったことを、知らなかった。
神様は、預言者エリシャに、この出来事について、なにも語られなかった。

エリシャがあえて、そういったのは、どういう意味なんでしょう。

なにか、神様とエリシャの間の、コミュニケーションがうまくいっていないような響きがある。

主があえてエリシャに語られなかったという話なのか、むしろ、エリシャのほうが、神の語りかけを聞く耳が、鈍っていたということなのか。

さらに、この後の出来事を読み進むと、どうも状況は、後者のほうじゃないかと、そういう気がします。

エリシャはこの女性の訴えを聞き、従者のゲハジに、自分がいつも使っている杖を渡し、子どもの顔の上に置くように命じます。

それによって、この子を起き上がらせることができると、エリシャは思っていたのでしょう。

しかしそれで本当によかったのか。エリシャはいつもそうしていたから、杖があれば、ゲハジでも十分だと思ったからこそ、遣わしたわけでしょう。

しかし、結果的にはそれでは子どもは起き上がらなかったのです。

むしろ、この母親が、必死になって、主なる神も、あなたも生きています。わたしは決してあなたを離れませんと、エリシャにすがりつくようにして、願い、その願いによって、エリシャが自分の体を、この子どものところに運んで、

さらに、この子に二人っきりになって、主に祈り、この子と自分自身をぴったりと重ねるという、実に不思議なこと、そこまでするほどに、まっすぐに向き合ったとき、

この子がいやされていったという、この出来事は、わたしたちに何を語りかけているのでしょう。

死んだ子どもに、ゲハジを遣わして、杖で触れるという、間接的なかかわりではなく、

自分自身の体を運び、自分自身の体、全体で触れ、体を合わせなければ、伝わらないなにかが、そこにあったのでしょう。


マザーテレサが、9月4日、カトリックの「聖人」に認定されたそうです。「聖人」に認定されるというのは、カトリックにおいては大きなことで、普通死後100年以上時間が必要だと聞きますけれども、それに比べると、マザーテレサは異例の速さ。ネットなどでは、マザーテレサは聖人か!と、いろいろ余計な批判する人がいますけれども、カトリックの内部の問題なのだから、はたから余計なことは言わなくていい。

マザーテレサも、神ではないのだから、間違いもあるでしょう。預言者エリシャも一緒です。

ただ、マザーテレサの在り方で、印象深いのは、彼女は重い皮膚病の人であろうと、直接その肌に触れる人だったという、ことです。

批判する暇がある人は、たいてい遠くから眺めている人でしょう。
現場で人とかかわる人は、そんな暇はないわけです。今、目の前で死にゆく人の肌に触り、慰め、祈る。

私も、病院にお見舞いにいって、お祈りするときは、できるだけその人に近付いて、手を握るようにしています。
なぜかはわからない。お祈りは、神様にするのだから、べつに近づかなくても、触らなくても、同じじゃないかといわれれば、現象的には、そのとおりでしょう。

でも、やはり違うのです。そこでその人の手に触って祈らなければ、伝わらない何かがある。説明はできませんけれども、触れ合うことでつながる世界が、通じ合う世界が、流れる愛が、あるのです。

主イエスは、重い皮膚病の人の肌に触れ、癒されました。
別に、肌に触れなくても、祈ればいやすことができるでしょう。
むしろ、その皮膚病は伝染するのだから、自分もその病気になってしまうリスクがあるわけでしょう。
なぜ、主イエスは、そんな不合理なことをなさるのでしょう。

答えは一つ、それが天の父の愛の御心だから。
天の父は、その人を愛し、だれも触れようとしない、その人に、触れたいと願われたから。
主イエスは、その人に触れて、癒されたのでしょう。


今、このバーチャルな時代。一瞬で世界の裏側とつながる時代だからこそ、わたしたちは、この相手に触れるということでしか伝わらない、何か、とても大切な命が、愛がある、ということに、目を開きたいのです。

預言者エリシャは、ゲハジに杖を持たせれば、神の命も、愛も、子どもに注がれる、これで十分だと考え、動かなかった。

それは、わたしたちもまた、なにか人と直接向き合うことを避けて、直接いうことを、触れることを避けて、

手軽で、手早いコミュニケーションで、十分だと思い込んでしまうことへの、問いかけではないか。

自分の体を運ばなければ、この子に全身で触れなければ、どうしても、神の命も、癒しの恵みも、この子に流れなかったという、この聖書の出来事は、


今、主イエスが宿っている、聖霊が宿っている、肉体をもったわたしたちの、生き方、神の恵み、愛の伝え方として、

問われているのではないでしょうか。