「良い知らせの日だ」

列王記下7章1節〜11節

 最近の夕礼拝は預言者エリシャのストーリーを追いながら、メッセージを聞き取っています。

 先週はアラムという国の軍人、異邦人のナアマンを、イスラエルの神は選び、祝福し、導いておられた。ナアマンがその信仰へと目覚めるようにと、預言者エリシャはナアマンに働きかけている。イスラエルの神といっても、決してイスラエルという国や、民族の神ではなく、それを越えた普遍的な神であることが、はっきり現れている出来事だったと思います。


 しかもアラムという国とはお隣同士だったので、よく争いを起こしていて、先週の箇所では、アラムの王様がイスラエルの王に、親書を送るほどの、いい関係だったときですが、今日の箇所は、アラムとイスラエルが、戦争状態の時の話になるわけです。

イスラエルサマリアの町を中心としていた訳ですけれども、アラムの軍隊が、そのサマリアをすっかり包囲してしまった時の話であるわけです。おまけに悪いときには悪いことが重なるもので、大飢饉で作物もとれない。

それで物価が高騰して、ロバの頭が銀で約1キロ。鳩の糞が、銀で約60グラムしたと、書いてあいます。鳩の糞というのは、本当に鳩の糞ではなくて、家畜の餌であるいなご豆のさやのことだそうですけど、いずれにしろ、普段なら価値のないものでさえ、貴重な銀と交換しなければ、手に入らないという物資不足に陥ったということですね。

にわかには信じられませんけれども、母親同士が、順番に自分の子を煮て食べることにした、ということさえかかれています。ちょっと動物としての本能から考えると、考えられないことですね。

鮭は、上流まで遡上して卵を生んだら、すぐに死んでしまうそうです。それは卵がかえっても、上流には餌がないので、死んで分解された自分の体を、子どもの鮭が食べるためなのだ、という話は聞いたことがあるんです。それは自然の摂理にかなっているし、種の保存、DNAを受け継いていくために、飢餓状態で、親が自分を子に食べさせるという話ならわかる。でも、極限状態といえども、自分のDNAを受け継ぐ子どもを、親が食べてしまうという話は、どうも自然の摂理にも、本能に反している、実にエゴイスティックな、自分中心の極みのような話。

なんだか、このテーマだけでも深く掘り下げてみたい気がしますけれども、やめておきます。

ただ、戦争とか飢饉とか、いきるか死ぬかという、極限状態に置かれると、人間の罪の問題、平常の時には隠されているエゴイズムがむき出し状態になってしまう、ということなんでしょう。

エゴイズムとは、つまり、自分中心ということですけれども、本来は、神が中心であるのに、その中心に神ではなく、自分を据える。

神を信じ、神に向かって生きるのではなく、自分を信じ、自分に向って自分に執着して、自分に縛られ、自分の考えにとらわれて、心を閉じていく。エゴイズムとは、そういうものでしょう。

預言者は、そんな自分の考えに縛られとらわれ、自分を閉じていく心に向かって、あなたではなく、神を信頼するようにと、心を開かせる言葉を語りかける。


その視点から、今日の7章からを読んでみれば、最初に1節で、預言者エリシャが希望の言葉を語るでしょう。

それは、飢饉(ききん)と、敵に包囲されたために、絶望にとりつかれたイスラエルの王が、つかわした使いに対して、その絶望によってすっかり閉じてしまった心を開く、神を信頼するようにと、希望の言葉を語っていると、読むこともできるわけです。


「明日の今頃、サマリアの城門で上等の小麦粉1セアが1シュケル、大麦2セアが1シュケルで売られる」

 これはずいぶん具体的な数字が並んでいるのですが、約小麦8リットルが銀11グラム。大麦約15リットルが、同じく銀11グラム。

 先ほどは、わずかな「鳩の糞」の値段さえ銀60グラムだったわけですから、その約5分の1で、大量の小麦、大麦が手に入ると、かなり具体的な祝福の宣言をします。

しかも、いつかそのうち、そういう時代がくるというあいまいな話ではなく、「明日の今頃の話だ」と、エリシャはいいきるのです。

 逃げようのない宣言。だからこそ神の言葉。希望の言葉。

たとえ信じるのが難しいと思っても、明日になればはっきりするのだから、一日希望をつないで、信じてみたらいい。明日はきっといい日になると、希望を抱いて、心穏やかになったらいいのです。

しかし、もはやイスラエルの王が遣わしたこの人の心には、エリシャが語る、主の希望の言葉は届きません。響きません。

語った言葉が、相手の心に届かない。それは、語った者の責任というより、心の扉を閉じてしまっているその人の問題。どんな言葉も、神の語りかけであろうと、心の扉を閉じてしまえば、届かない。


扉は、扉の外で語る存在のことを、信じなければ開けないのです。心の扉を開く鍵は、信仰です。信じること、信頼すること。

その信頼という鍵を、このイスラエルの王が遣わした人も、王自身も、この絶望的な飢饉(ききん)、敵に囲まれた状況の中で、見失ってしまった。

もう、神に対する信頼の鍵は、残っていないのです。

そもそもイスラエルの王が、エリシャの元に使いをよこしたのは、エリシャの首をはねようとしたからでした。この飢饉もアラムの包囲も、エリシャが悪い。神が悪いと、恨んでいたから。

イスラエルの王が遣わした人はいいます。
「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」

エリシャの言葉への、100パーセントの不信。それは、エリシャをとおして語っている神様への、100パーセントの不信。

エリシャはいいます。
「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない」と。

やがて、神の祝福を見るだろう。でも、あなたはその祝福にあずかれない。

この言葉は、やがて実現します。信頼しないという代償は、大きかったのです。


さて、次に場面は変わります。思い皮膚病のゆえに、町に入れてもらえず、城門の入り口にいた、重い皮膚病を患う4人の人が登場します。

彼ら4人も基金の中の絶望的な状況は同じ。むしろ、城門の中に入れてもらえなかったわけですから、ホームレス状態だったのだとすれば、もっとひどい状況といえます。

たとえ、城門の中に入れてもらっても、そこに自分たちのおなかを満たす食べ物はない。でも、ここにただ座っていても死ぬのは時間の問題。どうせ死ぬのならと、最後の選択肢として、彼らは敵のアラムに投降する。

絶望状態も底までいけば、むしろ人間強くなるのです。敵のアラムに投降しても、もしかしたら生かされるのではないかと、敵の陣地に向かって歩き出していった4人

こういう出来事を読むと、いったい人間にとって、なにが幸いで、なにが不幸なのか、わからなくなります。

重い皮膚病のゆえに、仲間からさえ差別され、見捨てられていた彼らだからこそ、ここでむしろ、すべての恐れから、とらわれから解放されて、敵の陣地に向かって、歩きだし、救われていくわけだから。


一方で、先ほどのエリシャが語った神の希望の言葉さえ、心に響かず、神の言葉への信頼を失っていた、使いの者は、少なくとも、重い皮膚病の4人までは、絶望状態が、底をついてはいなかったでしょう。王さまの側近なのだから、まだ住むところも、多少の食べるものくらいは、あったんじゃないか。

そしてむしろ、絶望状態が底をついていないからこそ、彼は神とエリシャに、文句を言っていられたんじゃないか。

そんな解釈もしてみたのです。まだ余裕がある王様の側近だから、そんな事を言っていたんじゃないか。

もちろん、この重い皮膚病の4人も、結局、彼らが思った通りになったわけじゃないんです。彼らが思っていた通りに、アラムが助けてくれたという話ではない。

そうではなくて、彼らが考えもしない形で、主はすでに、彼らも、イスラエルの民も、救っていたということを、彼らは最初に、知ることがゆるされた。

すでに主が救ってくださっていたことに、まず、彼らは目覚めた。

それは、絶望状況において中途半端だった、イスラエルの王の使いではなくて、絶望状況において、まさに底をついてしまった、4人の重い皮膚病の人々こそ、最初に主の救いを知ったという、という話なのです。


もちろん、これはこの絶望の極みにいた4人の人々だけが、その苦労が報われて、救われました、という話ではないのです。そういう話ではなく、神はこのときの、北イスラエルのすべての人々を、アラム軍の包囲から救っていてくださった。ただ、その神の救いの事実に目覚め、イスラエルにこのよい知らせを伝える、メッセンジャーとして選ばれたのは、この絶望において底をついていた4人だったということです。


この良きしらせ、神がすでに実現した、救いの知らせに、最初に目覚め、味わい、それを人々に伝える人々になっていく。

それは主イエスの十字架において、神様は私たちをすでに救っている。神の救いの業はすでに実現している。

あなたはすでに、救われている。神が救っている。そのことに目覚めてほしい。気付いてほしいと、福音を告げる人とも、重なっていくでしょう。


今日、教会学校の研修会のなかで、講師の細井先生が、皆さんの好きな聖書の箇所と、その理由を語るときと、だれかに伝道するために、聖書の言葉を語ろうとする時は、あとのほうがぎこちなくなるでしょう、ということをいわれましたね。

自分が、その救いの喜びを、おなかいっぱいに体験して、味わった言葉こそが、熱い情熱と、力を帯びた言葉となって、人に伝わるから。

何を、どう語るか、と頭で考えているようなことは、伝わらない。

この4人の皮膚病の人たちは、食べて飲んで、ひとしきりおなかを満たして、喜んだあと、気が付いて、

「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。」と言ったわけです。

ちゃんとめいいっぱい食べて飲んで、衣服を運び出して、自分の喜びを十分味わってから、その味わった喜びを、よい知らせを伝えないではいられないと、伝えなければ、罰を受けるだろうと、町に戻って、門衛に伝えたわけです。


使徒パウロの言葉を思い起こします。

「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」1コリ9:16

他の聖書では「福音書告げ知らせないなら、わたしはわざわいにあいます」と訳しています。

そう言わずにいられなかった、パウロの気持ちは、この4人の皮膚病の人たちが、自分たちだけおなかいっぱいになったときに、自分の同胞たちが、苦しんでいるのを思い出して、感じた罪悪感、罪意識と同じではないでしょうか。

人間は、自分だけが満たされるということでは、むしろ満たされないように、作られている。

それが、わざわいにあうとか、罰ということが意味していることの、本質でしょう。

自分だけが良ければいい、満たされればいいと、生きれば生きるほど、虚しく満たされなくなっていくという、ある意味でそれが「わざわい」であり、「罰」であるわけです。


神様の罰が怖いから、福音をつたえましょうという、話では、決してありません。そうしなければ、今味わっている福音の喜びが、わからなくなってしまうから。虚しいものになってしまうから。

だから、パウロは福音のために何でもします。わたしも福音にあずかりたいからですと言いました。

神の愛にふれ、その喜び、安心、心の満足、満たされた平安を味わったことを、自分だけのことにとどめてしまうと、むしろその福音の喜びが色あせていってしまう。


福音は、神の救いは、だれかに分かち合うとき、自分自身がさらに、豊にその喜びを体験し、さらに確信を深めていくことになるのです。

伝えましょう。

神が、私たちの罪を赦し、罪の束縛から解放してくださった、福音を。

私たちが考えもしなかった、すでに、神が実現しておられる奇跡、福音、よい知らせを

教会の中だけで、わたしの心だけで独り占めしないで、今週、だれかに伝えましょう。


自分の言葉で。自分が味わっている喜びを、自然な形で、だれかに語れるようにと、祈りましょう。

それは、わたしたち自身が、さらに、福音の喜びに、あずかりたいからなのです。