「主イエスに見つめられて」(花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書22章54節〜62節

 先週の礼拝のメッセージの中で、わたしが「寄席」に行った話をしましたでしょう。

礼拝が終わってから、わたしと目があった何人かの人が、代わる代わる、「寄席」の話をしてくださったんですね。

よほど、心に響いたんだなぁ・・・「寄席」の話が、と思いました。

まあ、反応があることは、牧師としてはうれしいことなのです。嬉しいのはうれしいのですけれども、会う人会う人、
「寄席」の話をされるので、ちょっと心の中で思いました。

「あの、実は、聖書の話もしていたんですけど、そちらは心に響きましたかぁ」とですね。

 一応牧師ですから、まくら話は忘れていただいても、聖書のお話を、主イエスの言葉だけは、心に残して、新しい一週間を歩みだしていただきたいと願いつつ、精一杯ここで語っているのですけれども、

まあ、あとは、聖霊のお働きということですね。

 「寄席」の話のついでに、実は、先週、息子を連れて、またいってきたんです。「寄席」に。「よせ」ばいいのに、って言わないでくださいね。

 池袋だったんですが、その日はたまたま、新作落語だけをやっている日だったのです。古典落語は聞けなかった。それはそれで面白かったけれども、なにか物足りない。噺家さんも、言っていましたけれど、新作って、すぐに古くなってしまう。なぜなら、その時の話題を盛り込むからですね。それは次の年には古びてしまう。でも、古典はいつまでも古びないっていっていて、そうだなぁと思った。

 聖書はそういう意味で、いつまでも古びることのない古典中の古典。

数千年前に書かれたのに、時代を超え、文化を超え、今日、私たち一人一人に語りかけ、大きな影響を、人生をさえ変えることさえ起こる、神の生きた言葉。

 にもかかわらず、その内容、物語は、一点、一角、ほんの少しも変わらない。いや、変えてはならない、永遠の古典。神の救いのストーリー。福音。

 され、今日朗読された、弟子のペトロが主イエスを否定するお話も、聖書を知る人には、定番中の定番。よく知られたお話でしょう。なにも新しいことはない。なんども聞いたお話です。

そして、この場に立ってこの物語を語る人は、みんながよく知っている通りに、物語らないといけない。

かってに創作して、違う話にしてなりません。まっすぐにこれを物語る。それが、ここに立ってかたるものの勤めです。

そうであるにも関わらず、聖書の話は、まるで初めて聞いたように、私たちひとりひとりの心に、魂に、響くなら、

神の愛の語りかけとして響くなら、それこそ聖霊のお働きでしょう。

今日のみ言葉の中で、主イエスを知らないと言い放ったペトロが、鶏のなく声を聴いた瞬間、主イエスの言葉を思い起こして泣いたように、

すでに知っている主イエスの言葉が、聖書の言葉が、私たちの心に響いてくるとするなら、

それは聖霊の働き。

十字架の死からよみがえられ、今、ここに生きておられる、主イエスの霊。聖霊が働いておられるのです。

この聖霊によっておこる、不思議な「み言葉体験」があるからこそ、主イエスとの出会いがあるからこそ、

数千年の時を超えて、人々は今日も礼拝を捧げています。わたしたちもここに集まって礼拝します。


今日の礼拝を最後に、牧師への道に進むために、福岡の神学校へと旅立っていくT君も、そのような人生の歩みへと、自分をいざなう「み言葉体験」をしたことを、証してくださいましたね。

T君の証の文章に、こうありました。

2014年の9月26日の夜。これは不思議な体験なのですが、寝ていた私に、1ペテロ2:9という声が聞こえてきました。声は次第に大きくなり、その個所を開きました。自分ではほとんど、開くことのなかった箇所でした。「光の中をあゆみなさい」と初めに声をかけられた私に、今度は「光の中へと招き入れてくださった方を伝えなさい」というのです。

そして、今、その天からの声にとらえられ、高橋君は新しい出発をします。


みなさんも、人生のどこかでそのような「み言葉体験」をしておられるのではないでしょうか。


 約2000年前に、主イエスと出会い、この喜びをどうしても書き残さないわけにはいかないと、残された物語が、福音書が、

今、わたしたちを導く、生きた物語として、言葉として、わたしたちに迫る。


今日のみ言葉のなかで、ペトロが体験した、主イエスの言葉を、その眼差しを、

わたしたちも、時代を超え、今日、聖霊に導かれて、追体験したい。

わたしたちもまた、この時のペトロのように、遠くから、主イエスのあとについていくような、一人一人であるからです。

主イエスが捕えられた時、ペトロは逃げ去ったのではなく、遠く離れて従っていたのだと、ルカの福音書は記します。

ペトロは、逃げてしまったのではなく、まだ、主イエスに従っていたのだと。

しかし、そこには、距離があったのです。

主イエスとの間に、距離があるのです。このとき、ペトロは、遠く離れてあとについて行ったのです。

それは、なにかまずいことがおこれば、すぐに逃げられる距離をとった、ということです。

しかしそれでもペトロは、イエスさまの後について行っている。逃げはいないと、自分を納得させながら、大祭司の庭に入ってきたのでしょう。

 わたしたちも、自分の日々の生活、信仰生活を振り返るとき、

わたしはわたしなりに、主イエスを信じている。自分にできることをしている。これでいいのだと、自分で自分を納得させることがあるように、


ペトロは、主イエスから遠く距離を取りつつ、なお、主イエスに従っていると、思っていたことでしょう。


さてそこには、屋敷の使用人と思われる人々が、たき火をして座っていたのです。

ペトロは、その人々の間にまぎれ、そっと腰を下ろします。きっと心臓がドキドキしていたことでしょう。

ペトロにしてみれば、精一杯のチャレンジを、主イエスに従おうとして、そこに座ったのです。

そうでなければ、ペトロはこんなところに来る必要はないのだから。逃げてしまえばよかったのだから。

ペトロは精一杯、主イエスの後に従って、ついて行くのだと思っていたからこそ、ここに来たのです。

ところが、たき火に照らされたペトロの顔を、まじまじと見つめた女性が、口を開く。

「この人も一緒にいました」

そして、ペトロはとっさに口走ってしまうのです。「わたしはあの人を知らない」と。

きっと、いきなりそんなことを言われて、びっくりしたのではないか。自分でも、こんなことを言ってしまうとは、思わなかったと、驚いたのかもしれない。

しかし、もしそうであったなら、そのあと、正直に、「いや、実は、わたしはあの人の仲間なのだ。あの人の後に従って、ついてきたのだ」と、訂正してもよかった。

でも、ペトロはそうはしないのです。ただ「わたしはしらない」と言ったきり、その言葉を訂正することもなく、

そこから立ち去ることもせず、どっちつかずのまま、そこに座り続けた。

そこから立ち去るには、ペトロのプライドが許さなかったのか。それはわからない。


しかし、そこに居続けるなら、また同じ事が起こるのです。

少し時がたつと、今度はほかの人が「お前もあの連中の仲間だ」と言いだした。

するとペトロは、また同じことを言わなければならない。「いや、そうではない」と言わなければならない。

さて、ルカの福音書は、この三回のやりとりの間に、実は、しばらく時間があったのだと、書いているのです。

三回立て続けに、問われたわけではない。そこには、自分の言葉を熟慮する、そういう時間があった。


人は、このような状況のとき、頭の中で、何を考えるものでしょう。

自分が言ってしまった言葉。自分の発言を思い起こして、頭の中で、何をぐるぐる、思いめぐらせるでしょう。

あの時は、ああいうしかなかったのだと、自分を納得させるでしょうか。

ここはひとまず、口先だけで、そういっておくが、あとでイエス様を助ければいいとか、

そのように、自分のしていることを、納得させるでしょうか。

わたしなら、きっとそうすると思う。自分のしていること、発言を、自分で納得させる言い訳を、たくさん考え出すことでしょう。


ここは、ひとまずそう言っておくしかない。それでいい。これは、本心じゃないのだから、心でイエス様を、信じているのだから、ここはひとまず、ここを乗り切るために、「しらない」と言っておこう。

わたしなら、そう考えるんじゃないか。いや、いつもわたしの心の中では、そのように、自分で、自分のしていることを、言葉を、いつも、納得させているからです。

みなさんはどうでしょうか。

そして、るカの福音書は、そういうことを考える時間が、十分あったのだと、告げるのです。

三回目は、それから一時間もたってからのことです。

別の人がいいました。「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と。

ペトロが、ガリラヤなまりで話していることが、分かったということは、周りの人々とペトロは、しばらく会話をしていたということでしょう。

打ち解けて、世間話でもしていたのか。一時間も同じ場所にいて、押し黙っていることはありえない。なにか世間話をしたのか、それとも、今、捕らえられてきた、「あの男」のうわさ話でも、ペトロは調子を合わせて、一緒にしていたのかもしれない。

そのペトロの話し方に、突如ある人が叫んだ。

「おい、お前も、あの男と一緒だったんではないか。そのガリラヤなまりは、あの男とおなじではないか」と。

ペトロはごまかして言います。「あなたの言うことは分からない」と。

これが、たった数時間前まで、「ご一緒になら、牢に入っても死んでもいいと覚悟しております」と言っていたペトロの姿。

 なぜ、ペトロはこうなってしまったのでしょう。ペトロも弱い人間だったのだ、ということでしょうか。

このペトロの弱さに、自分の弱さを重ねて、だからわたしたちも弱くていいのだと、安心感を得るということで、いいのでしょうか。

あの一番弟子のペトロも、この程度なのだから、わたしたちの信仰も、この程度でいいのだ。人間は弱いと、自分で自分を納得させるために、お話を、使ってしまって、いいのでしょうか。

ただ「自分は弱い」「だめだなぁ」でも、それでいいじゃないか。人間は弱いのだと、自分で自分を納得させるためのお話なら、このあと、ペトロは激しく泣いたりするでしょうか。

激しい絶望を、自分自身への絶望の涙を、流したりするでしょうか。


 ペトロが、三度目の、否認の言葉を言い終わるまえ、突然鶏がなきました。

その瞬間、遠くにいた主イエスが振り向き、ペトロを見つめた。

主に見つめられたペトロの心に、

主がかつて言われた、み言葉が響いたのです。

「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」

そう言われた、主イエスの言葉が、心によみがえってきた。

ペトロは、決定的な「み言葉体験」をした。

大切なのは、これはペトロがすでに聞いていた言葉である、ということです。すでに主イエスが、ペトロに語っていた言葉である、ということです。

しかし、それを聞いたときには、ペトロの心には、響いていなかった。自分が、そんなことをするわけがないと、聞き流していた言葉。

わたしたちも、今まで沢山の主の言葉を、今のわたしには関係がないと、聞き流してきたように、ペトロは自分が聞き流していた、その主の言葉が、

突然、まるで鋭い刃物や剣によって、心を突き刺されるような痛みを伴い、迫ってきた。

自分は、まさに、あのとき、イエスさまが言われたとおりの、人間であったのだと、自分の姿に絶望し、外に飛び出し、激しく泣いたのです。

もう、自分で自分を納得させ、仕方がなかったのだと、ごまかすことなど出来ないほど、

決定的に、自分は、主イエスとの関係を否定してしまった。

その絶望の嘆き以外の、なにものでもない、ペトロの激しい涙。


ルカの福音書の12章に、主イエスのこのような言葉があります。

「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使達の前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使達の前で知らないと言われる」と。

 この「人々の前でわたしを知らないと言う者」に、今や、ペトロはなってしまった。

「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」との、主イエスのみ言葉は、決定的な裁きの言葉として、

ペトロを絶望へと、追い込んだ。

わたしは連想するのです。あの遠藤周作の「沈黙」に描かれた、あの厳しい迫害のなか、

踏み絵を踏んだ人々の絶望を。

信仰の道に生き抜くことの出来なかったものの、絶望を。

神を捨て、神に捨てられるしかないものとして、激しく泣くものの、その絶望を。

これは、人間の弱さの問題ではなく、自分を愛し、救うお方を、主イエスを捨てた、人間の絶望の問題なのです。

主イエスとの関係を、自ら断ち切ってしまう、人間の絶望の話です。


しかし話はここで終わらなかった。ペトロは主イエスのことを断ち切ったと絶望しても、主イエスは、ペトロを、見捨てられなかった。

主イエスは、ご自分を捨て去ったペトロを、振り向き、見つめられたのです。

ルカの福音書は、ここで主イエスが振り向いてペトロを見つめたと、記します。

これは、のちにペトロがそう証言したのだと、わたしは信じます。

主イエスは、このわたしを、見つめてくださった。目をそらさなかった。見ていてくださったのだと、語り伝え、それがここに記されていると、わたしは信じるものです。

この主イエスに見つめられた経験を、ペトロは忘れることが出来なかったのだ。なぜなら、この主イエスの眼差しに支えられて、ペトロはその後立ち直り、復活の主イエスとであい、やがて、迫害されるなかであっても、主イエスの十字架と復活を、神の赦しを、伝える人となっていく。

エスの名によって語るなと、鞭打たれたときに、ペトロは、イエスの名によって辱めを受けるほどのものにされたと、喜ぶ人になったのだと、ルカは、後に使徒言行録に書き記したのです。

やがて最初の教会のリーダーとなっていくペトロ。教会のリーダーとして、もっとも隠しておきたい、この出来事を、この絶望の出来事を、ペトロは福音書に書き残させるほどに、この絶望を乗り越えていく。

それはペトロの力によるのではなく、その自分の力に絶望しきった、ペトロを、主イエスが、見つめてくださった、このまなざしのゆえに。

自分が捨て去ったのに、わたしを捨て去らなかった、主イエスの愛と赦しのまなざしのゆえに。

ペトロは、立ち直り、生かされている。

そのことを、ペトロは語り継ぎ、福音書に書き残させないでは、おれなかった。わたしはそのように、信じ、受け止めています。

人は、どんなに愚かしく、罪深く、神を捨ててしまうようなものであっても、

神は愛ゆえに、ひとりひとりを見はなすことなく、愛の目で、見つめ続けてくださる。

この神の愛のまなざし。自分を見つめる、愛のまなざしに、気づくことさえできたなら、人は、どこからでも、立ち直ることが出来る。本当の自分に立ち返って、生きることができる。


韓国の映画監督で、キムギドクという、新進気鋭の監督がいます。

彼の映画に、「嘆きのピエタ」という映画がある。

 主人公は、暴力的で凶悪な、借金取りです。

彼は、借金を抱えた、小さな町工場を訪ねては、負債を返せない社長を、工場の機械で怪我をさせて、保険金で払わせるような、ひどいことをする男。

そんな彼は、小さい時に母に捨てられた男だった。

ある日その男のところに、自分を捨てた母を名乗る、女性があらわれた。

最初は疑う男も、何度も謝罪する女性を、自分の本当の母親だと信じるようになる。

そして、その母と共に生活をはじめ、いつも母に見まもられ、見つめられる生活の中で、

彼はだんだん、「悪」が行えなくなっていき、むしろ「善」を行うようになっていくのです。

ところが実は、この母を名乗った女性は、この男のせいで、息子が自殺した女性だった。

本当は、この男に復讐をするために近づいてきたのだった。ところが、この女性もまた、どんどん「善人」になっていくこの男の、その眼差しに感染するようにして、自分がしようとした復讐ができなくなっていく。

この映画が描いていること。語っているメッセージは、一つ。

人は、だれかにも見られなければ、だめなのだ。だめになってしまうのだ、ということです。

しかし、逆に、人間は、今、どんなに惨めでも、悪に縛られていても、

そのすべてを受け入れ、受け止め、見つめてくれる、愛と赦しのまなざしを、知ったなら、

人は、やり直すことが出いる。自分を取り戻すことができるということです。

幼い子は、自分が頑張ったとき、パパやママに向かって言うでしょう。「ねえ、パパ、ママ、見て」と言うでしょう。

人は、自分のことをちゃんと見ていてほしい。愛の眼差しで見てほしいと、この地上に生まれてくるのです。

もし、だれにも見られなければ、見捨てられれば、だめになってしまう。

主イエスは、ご自分を見捨てたペトロを、見すてなかった。じっと見つめてくださった。

この主イエスの眼差しに支えられて、ペトロは立ち直っていったのです。

それは今、わたしたちにも同じように注がれている、主イエスのまなざし。天の親の眼差し。

今日、この主イエスが、あなたを見ていてくださる眼差しに気づくなら、

私たちが今、どんな存在であろうと、どんなに自分に失望し、絶望していても、大丈夫。

この主イエスの愛の眼差しに支えられて、わたしたちは、必ず本当の自分を、神の子である自分を取り戻し、

神が与えた、自分の歩むべき道を、最後まで歩み抜いていけるのです。