「神に愛された人」

故藤澤一清氏 告別式 メッセージ
ヨハネによる福音書3章16節

「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された
独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」


3月4日の午後10時7分。
藤澤一清さんのご自宅で、一清さんを囲んで「いつくしみ深き」の賛美を、鈴子さん、教会員の中根さん、そしてわたしの三人で歌っていたところ、ふと気がつくと、今までゆっくりと息をしておられたはずの、一清さんの呼吸が、本当に、いつのまにか、とまっておられました。

本当に静かに、そして安らかに、藤澤一清さんは、主イエスのもとへと、旅立たれていったのです。

教会を愛し、日曜日の礼拝を、なによりも楽しみにしておられた藤澤一清さんらしく、

「主の日」の夜に、賛美と祈りにつつまれての、旅立ちでした。


しかし、今年の1月の半ばまで、藤澤一清さんは、この花小金井教会までこられて、共に礼拝を捧げていたことを思うと、

ご遺族を始め、花小金井教会で、共に礼拝を捧げてきた友、また、藤澤さんと関わりのあるすべての方々にとって、急なお別れと感じ、心痛まれていることと、思います。

今、ここに集められている一人一人が、それぞれに、藤澤一清さんとの、大切な時間、交わりを、それぞれに、神様からいただいてきました。

時間の長さ、短さを越えて、ここにお集まりのすべての方が、

藤澤さんと、共に語り、共に喜び、共に悲しみ、共に分かち合う時を、主からいただいてきました。

ですから、今日、わたしたちは、この神さまがくださった、藤澤一清さんとの出会いと交わりの、すべてに心からの感謝を捧げたいのです。

プログラムに記載されている、故人略歴をご覧いただければ、藤澤一清さんが歩まれた82年間の人生の歩みの中心には、いつも「教会」があったことが、お分かりいただけると思います。

藤澤さんは、牧師の子として「教会」で育ち、そして、ご自身も、やがて牧師となられ、

「東熊本」「岐阜」「川越」そして、この「花小金井キリスト教会」の牧師をつとめられ、2007年に牧師を引退したあとも、花小金井キリスト教会の信徒として、常に「教会」とともに、藤澤一清さんは歩んでこられました。

1991年から2004年までは、花小金井キリスト教会の牧師とともに、日本バプテスト連盟の「宣教部主事」「教会音楽担当」という立場で、「新生讃美歌」の編集責任を担われ、

10年前に、花小金井教会の牧師を引退してからは、東京バプテスト神学校で教えられたり、連盟の「憲法アクション」の責任も、藤澤さんは担っておられました。

そのような、幅広いお働きに関しては、弔辞のなかで、お話がうかがえることと思います。

ですから、わたしは、藤澤一清さんが、その人生の最後の時を、花小金井教会員として過ごし、

ご家族を愛し、教会を愛し、地域を愛した、その藤澤さんのことを、

神は、主イエスを与えるほどに、愛しておられた・・

このひとつのことだけを、お伝えする。これが、わたくしが、ここに立たされている勤めです。

2月19日(月)。まだ藤澤一清さんがお話ができる状態のとき、鈴子さんとともに、告別式の準備をいたしました。

これは、指示ではなくて、お願いだから、そのつもりできいてくださいと、いわれて、

まず、元牧師ということに関係なく、一個人の葬儀として、行ってほしいということ。
そして、わたしの牧師は、藤井牧師だから、藤井に説教をしてほしいということ。
そして、自分は本当に教会の皆さんの忍耐によって、牧師として立ちつづけられたことを、心から感謝していますということ。

そしてメッセージでは、ヨハネ福音書の3章16節のみ言葉から、語っていただけたら、嬉しいということを、伺いました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

このヨハネ3章16節のみ言葉。

あまりに有名で、よく知られているがゆえに、ともすると、慣れてしまい、聞き流してしまいやすい、み言葉であるかもしれません。

しかし、藤澤さんはそのとき、神学者のバルトの話をなさり、彼もその壮大な神学において、いいたかったことは、

神様はわたしを愛している。「主我を愛す」だったんだよ。

そして、わたしもそうなんだと、いわれました。

わたしは神に愛されている。本当に、愛されている。

このひとつのことを、82年の人生の最後に、藤澤一清さんは、みなさんに伝えたい。心から「証」したい。証言したいと、このヨハネの3章16節のみ言葉を、わたしに託されたのです。

 去年の9月25日、藤澤一清さんは、大腸に癌が見つかり入院、そして手術となりましたとき、担当の主治医の先生に、「わたしの命はどれくらいあるのですか」と聞きました。

その時はあと8ヶ月と言われました。

その宣告によって、残された命の時間を、本当に大切に生きたいと、強く願われた藤澤さん。
私と何度かやりとりをさせていただき、実は3回の予定で、藤澤さんの話を聞く会を予定したのですが、

実際には、11月29日の夜、1回しか実現できませんでしたが、

その時は、「イエスと私」というテーマで二時間ほど、語ってくださいました。

そのなかに、こういう言葉がありました。

10年前、牧師をやめたとき、わたしの祈りは変わったのですと。

それまでは教会のことをまず祈っていました。しかし牧師をやめてからは、家族のことをまず祈るように、自然になったのですと、いわれました。

さらに、今回病気になって、また祈りが変わりました。

「神様、今日も命を与えてくださってありがとう」という祈りに変わったのですと、いわれました。

はじめて、自分のことを祈りました。自分の命を感謝したと、そういわれました。自然に、そうなりましたと、といわれました。

何十年も、教会の牧師として生きてこられた藤澤さん。

キリスト教の様々な概念、神学があっても、今、病気になってあらためて、私にとって一番大切なことは、何なのか、ということに、真剣に向き合われたのです。

そして、私のなかで、今まで、いろいろな服を着てきたけれども、病気になって、自分のなかで着ていた服を脱がされたとき、その深い、深いところにあったのは、なんなのかと、

そのことを、考えていたとき、思ったのです。

「私は教会に生まれ、教会で育っち、父が牧師の家庭に育った、

母が歌っていた子守歌は、いつも「主我を愛す」であったことを。

このわたしを、イエスさまが愛してくださっているという、この短く、しかし意味のある言葉が、

今、自分の服をみんな脱ぎ捨ててみたら、それしかなかった。自分の中には、イエスさましかない。

もう、理屈も説明もいらない。わたしには、イエスさましかいないんですと、その夜、語られた言葉を、そこにいた人々は、きっと忘れることはないでしょう。

また、手術を受ける直前、麻酔の注射をうたれながら、出て来た言葉は、「イエスさま、一緒にいてね」という言葉でしたとも、証してくださいました。

ヨハネ3章16節
「神は その独り子をお与えになったほどに 世を愛された」

この世とは、わたしのこと。

この短いみ言葉のなかに込められている、深い、深い意味を、

藤澤一清さんは、82年のご自分の人生の、総括として、

このみ言葉が、わたしのすべてですと、わたしのなかには、この神の愛だけ。主イエスしかいないのですと、証なさった、このことを、

今日、ここにお集まりの皆さんに、お伝えさえできたなら、

そして、わたしたちもまた、それぞれに、神に愛されていることに、

もう一度立ち帰り、神に感謝を捧げることさえ出来たなら、わたしに託された責任は果たせたと思います。

最後に、かつてこの花小金井キリスト教会は、牧師が辞任し、教会が割れてしまうという、深い深い傷を負った時期があったとき、

もはや、神に愛されているという、み言葉さえ、空しく響いてしまうほどの、深い心の痛みに、教会が呻いていた、その時に、

花小金井教会の牧師として立ってくださって、パートナーの鈴子さんとともに、

痛み悲しむ、教会員の一人一人を慰め、愛し、祈り、支えてくださって、

この花小金井教会が、もう一度、この「ヨハネ3章16節」のみ言葉を信じる群れとして、

神に愛されている群れであることを、信じて、立ち上がっていった、そのときに、

牧師として、み言葉を語りつづけてくださった、その深い愛と慰めの、業を、

わたしたち花小金井キリスト教会は、決して忘れることはないでしょう。

家族を、教会を、どのような人をも大切に愛された、

藤澤一清さんの、その心の深い土台に、

ヨハネ3章16節のみ言葉がいつもありました。

そして、このみ言葉が生きて働き、

その人生のすべてを貫いて、永遠の命に至る、愛の実りをもたらしてくださった

主なる神に、心からの賛美と感謝を捧げます。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」


このあと歌う、新生讃美歌363番「キリスト教会の主よ」は、藤澤一清さんが、花小金井教会の一人一人を思いつつ、訳詞をなさった曲だと、ご本人から聞いています。

教会を愛し、教会の主は、教会を愛しておられる、キリストご自身であるということに、

常にこだわっておられた藤澤さん。

一昨年の花小金井キリスト教会のクリスマス礼拝の日。その日はバプテスマ式が予定されていました。

ところが、牧師のわたしはインフルエンザにかかってしまい、礼拝に出られなくなったのです。

メッセージは代読していただくことにしましたが、バプテスマ式は、そういうわけにはいきません。だれかに、代わりにやっていただかなければならない、という状況に立ち至り、

藤澤一清さんに無理を言って、バプテスマ式の執行をお願いしたのでした。

急なお願いにも関わらず、淡々と引き受けて下さった藤澤さんは、

そのバプテスマ式において、こういう言葉で、バプテスマを授けられたのです。

「父と、子と、聖霊の御名によって、教会があなたにバプテスマを授けます」と

牧師だからでも、元牧師だからでもないのだと。

人間が人間を救うことなどできない。

そうではなく教会が、あなたにバプテスマを授けるのですと、そう宣言して、藤澤さんはバプテスマを授けられました。

あなたを愛しておられるお方は、教会の主なのだから。

この徹底して、教会にこだわり、教会を愛し、教会を問い、教会に仕えて生きた、藤澤さんの心のそこには、ヨハネ3章16節のみ言葉が、いつも響いていた。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

今日、わたしたちは、このヨハネ3章16節が告げている、

独り子を信じる者は、一人も滅びることなく、永遠の命を得るという約束を信じ、

このただ、一つのことを、まっすぐに信じ、信頼して、

藤澤一清さんを、教会の主、イエスキリストに委ねます。

そして共に、わたしたちを愛しておられる、神を、崇めたいのです。