今日の礼拝

 Hさんご夫妻、Sちゃん、Mちゃん。そしてわたしたち家族と妻の母の10人で礼拝

 今日はみ言葉から主が「聖霊によって生まれる」ということについて、深く思いめぐらせました。

週報の巻頭言から

 イエスさまは聖霊によって母マリアのお腹に宿ったと聖書は教えています。つまりこれは人間の計画や力ではなく、主なる神さまの計画と力によって起こったということです。
 人がイエスキリストへの信仰をもつということは、人間の力や信心によるのではなく、神の業であり、聖霊の働きです。そもそも、信じること信頼とは、当たり前のことではなく神の恵みではないでしょうか。信頼は人間として生きるために必要なこと。だれもが家族を、周りの人を信頼しているゆえに、安心して共に生きています。しかし、人は信頼を裏切ることがあるのです。だれもが約束を破ったことがあるはずです。人に期待して失望したこともあるでしょう。それでも、なお相手を信じつづける。これは実はそれほど簡単なことではないのです。ですから、一緒に生き続けるということは、どこかで、相手をなお信じる決断をしているのです。また裏切られるかもしれない。約束を破るかもしれない。思った通りにしてくれないかもしれない。そして、自分が傷ついたり、損をすることがあるかもしれない。しかしそれでもなお、その罪をゆるし、ともに生きようとする力。これは人間の力だけでは無理ではないでしょうか。ゆえに、聖霊の力が必要なのです。
 そもそも神さまがイエスキリストを聖霊によってマリアに宿らせたのは、神さまが人と共にいるために、人を信じてくださったということです。それは人間が信頼に値するからではなく、神さまを裏切る罪があるにもかかわらず、神さまはその人間を赦し、信じ、神の御子を与えられるのです。ここに聖霊によって宿るという神の業があり、そうまでして、神さまはわたしたちと共にいてくださろうとしている神の愛を知るのです。ゆえにイエスさまは、インマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれると聖書は告げるのです。