「購う方は生きておられる」(2017年10月8日 花小金井キリスト教会夕礼拝メッセージ)

ヨブ19:1ー25

 今は、インターネットのおかげで、だれでもすぐにに地球上のあらゆるニュースに触れることができるわけですけれども、メディアは、興味をもって見てもらわなければ、経営がなりたちませんから、どうしても、ネガティブなニュースばかりを取り上げますね。

 一方でこの世界には、よい出来事とか、奇跡としかいえないような、素晴らしい出来事も、沢山起こっているはずですけれども、そういう出来事は、残念ながら人間の注意をひかない。

人は危険なこと、不安や恐れのほうに、どうしても反応しやすい。それは身を守るための、本当的な反応だと思いますけれども、だからそういうネガティブナことを、メディアのニュースは探して取り上げるわけです。

 なのでテレビばっかり見ていると、ネガティブな考えに洗脳されてしまう気がします。神様が、いつも身近なところで、ニュースにはならないような、小さくても、素晴らしい働きを、奇跡をしておられることが、見えなくならないように、心の目が開かれますように

 さて、夕礼拝では、先週に引き続いて、ヨブ記を読んでいますけれども、

 ヨブ記の、一つのテーマは、神義論とか弁神論といわれる、つまり、神様が「善」であり「愛」であり、「全知全能」であるならば、なぜこの世界には、これほど「悪」が存在しているのか、という問いに答えるのが、神義論とか弁神論と言うものですね。

神が造られたこの世界に、なぜ悪があるのか。
それは神が「善」でも「愛」でもないからではないかとか、
「善」なのに、この世の「悪」にまけてしまうなら、そんな神は、全知全能でもないじゃないかとか・・・・

そういう問いに、いろいろな人が答えようとしてきたわけです。

神が「全知全能」でないのなか、限界があるのなら、それは神ではないし、たとえ「全知全能」でも、「善」をする気がない神様なら、それもまた困る。

私たちが信じる神さまは、「全知全能」でありながら、しかも「善」であることは、わたしたちの信仰にとって、大前提であるわけです。

そうであるからこそ、それではなぜ、神が造られたこの世界には、明なに「悪」があるのだろうか、ということが問題になるわけです。


さて、わたしたちは、先週からヨブ記を読んでいるわけです。

神の前に無垢な人、誠実な人であるヨブ。

その彼の人生に、次々と「悪」が引き起こされる。

その舞台裏、つまり天では、神様とサタンのやり取りがあった。

サタンは、ヨブが神を信じているのは、自分の生活のためだ。ご利益のためだ。だから試練を与えたら、神を呪うはずだといった。

神様は、そんなサタンの言葉ではなく、むしろヨブの誠実さを信じたからこそ、サタンがヨブに手を下して「悪」を行うことをゆるされた、という舞台裏でのやりとりが、あったわけです。


しかし、そんなことは、この地上を生きるヨブにはわからない。
なぜ、何も悪いことをしていない自分に、こんな不幸が襲うのか、ヨブにはわからない。

ただ、そうであってもヨブはいったわけです。

「神から幸福をいただいたのだから、不幸も頂こうではないか」と。

これがある意味、ヨブの神学。ヨブが信じ、イメージしている神様、ということです。


「幸福も不幸も、恵みとして与えてくださる神」という神学です。


ところが、このあとヨブの3人の友人が、登場してきて、雰囲気がかわります。


この3人もそれぞれに、自分が信じている神さまのイメージがあるわけです。その彼らの神様のイメージ、神学に立って、ヨブに向かって語りはじめ、対話、議論が繰り返されていきます。

たとえば、エリファズという人は、こうヨブに言います。
「人が神より正しくあり得ようか。造り主より清くありえようか」とか、
「幸いなのは、神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない」

つまり、神は人よりも正しい。あなたはなにか間違っているのだ。だからあなたのその不幸な状態は、神の懲らしめを受けているのだ、といったわけです。

つまりエリファズのイメージする神は完全なる「善」「正しい神」ということです。

そういわれて、ヨブは

「絶望している者にこそ、友は忠実であるべきだ」といい、
「間違っているならわからせてくれ」「わたしの下に不正があろうか」と、自分のどこが間違っていたのかと、問うています。

神が「正しい」お方なのは、わかる。でも、自分のどこが間違っているのかが、わからないとヨブはいうのです。

また、ヨブはこういうことも言います。
「人を見張っている方よ わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれがなんだというのでしょう。
なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。
なぜ、わたしの罪を赦さず、悪を取り除いて下さらないのですか」

と言います。

ヨブは、神様が「善」であることはわかる。でも、なぜ警察が、スピード違反の検問で狙い撃ちをしているみたいに、わたしを狙い撃ちするのですか。神さまの「正しさ」は、そういう正しさじゃなくて、罪を赦し、悪を取り除かれる、正しさじゃないのですかという、問うているわけです。

神の「善」「正しさ」について、エリファズとヨブにはすこしイメージ違いがあるわけですね。

次にビルダトという友人がでてきて、ヨブにこんなことを言う。
「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ、彼らをその罪の手にゆだねられたのだ」と

かなりはっきりと、神の「善」「正しさ」を強調して、ヨブの不幸は、神の裁きなのだと、言い切っていきます。

よく、こんな傷つける言葉を、友人に向かっていえるものだと思います。

ヨブは答えます。
「それは確かに私も知っている。神より正しいと主張できる人間があろうか。」と

しかし、ヨブにしてみれば、神は正しいからこそ、この自分の正しさをわかってくれるはずなのに、訴えを聞いてくれないことに、困惑しているのです。

それで、ヨブはこういうことさえ言うようになる。
「神は無垢なものも逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる」のだと

そして、どんどんヨブは落ち込んでいき、もう生きていたくないといってみたり、わたしのどこに罪があるのですかと叫んでみたり、憐れんでくださいと嘆いてみたり、様々な感情を爆発させていきます。

そして3人目にツォファルという友人が登場してきて、ヨブに言う。
「あなたは、自分は正しいというが、あなたは神をきわめることが出来るか。全能者の極みまで見ることができるか」と、ヨブを責めつづけるのです。

次から次へと責め続けてくる友人を持ったヨブは、かわいそうな人です。

そんな3人の友人とのやりとりで、すっかり傷ついて意気消沈したヨブの言葉が、先ほど読んだ19章からになります。

「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉を持ってわたしを打ち砕くのか。
侮辱はもうこれで十分だ。わたしを虐げて恥ずかしくないのか。
わたしが過ちを犯したのが事実だとしても、その過ちはわたし個人にとどまるのみだ。ところが、あなたたちは、わたしの受けている辱めを誇張して、論難しようとする」

ヨブは子どもたちを失い、財産を失い、自分自身の体もぼろぼろの状態で、本当に慰めの言葉を必要としている時に、「泣きっ面に蜂」とはこのことでしょう。傷口に塩を塗りつけるような、責めることばに、打ちのめされているのです。

ヨブの立場に立って読むと、実にこのヨブ記は、残酷な書物です。
まさに八方ふさがり。瀕死の状態で横たわっているそのヨブの周りを、さらに取り囲んで友人たちが、言葉という刃物で切りつけているわけですから、これは実に残酷な話。

かといっても、この3人は極悪人であるわけではなく、むしろヨブのためを思って、もしかしたらヨブを助けようとさえ思って、ヨブが自分の罪に気づいて、悔い改められるようにと、諭していると、そう読むことも出来る。

ヨブよ、あなたがそんなに苦しんでいるのは、他の誰でもない。ましてや神のせいでもない。あなた自身の罪のせいなのだ。自分の罪を認めなさい。そうすれば幸いがやってくる。それがあなたの為なのだと、そういう「善意」から、3人の友人はヨブを責めている、と読むことも出来るでしょう。

こういうことはわたしたちも心当たりがある。
こどもが悪いことをしたのに、それを隠して、自分は悪くないよ。あいつが悪いんだと、いっているなら、親はこどもに向かって、「あなたにも悪いところがあったでしょう」と問い詰めるでしょう。自分の罪に気がつきなさいと、言いたくなるでしょう。

しかも、このヨブの3人の友人は、「神は絶対に正しい」という土台から、確信をもって語っていますから、まるで容赦ない。ヨブの嘆きの言葉に、耳を傾けて、傾聴したり、共感したり、一緒に泣いたりしない。どこまでも議論で追い詰めて、「論難」、非難し続ける。

でも、これは本当は、「神は絶対に正しい」という土台に立っているんじゃなくて、「自分が信じていることは、絶対に正しい」ということなんですね。それはヨブ記の最後になって、はっきりするわけですけれども、この3人の友人は、神の代わりになって裁いているけれども、人は神の立場に立っちゃいけない。そんなことをすると、人は実に残酷なことを、人に対して行ってしまうのだ、ということを、この3人の友人の、お節介な言葉から思うわけです。

ヨブは、6節以下で、神は自分に向かって怒っておられる、道を塞ぎ、行くてに暗黒を置き、名誉を奪われたといいます。

そして13節以下で、兄弟も友人も親族も、妻も子も、すべての人に忌み嫌われ、愛していた人々にも背かれた。その孤独を嘆きますが、

ヨブは、これは神が自分に向かって怒り、追い詰めていることと受け止め、

それゆえに、21節からこう言います。
「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ。神の手がわたしにふれたのだ。なぜ、あなたたちまで、神と一緒になってわたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか」と

3人も友がいて、だれか1人でも、ヨブの側に立って、ヨブの話を聞いてあげる人がいたらと思います。

話を聞いてもらい、受け止めてもらうことは、その人を大切にすることであり、愛するコトなのですから。

たとえヨブの語っていることが100%正しくはないとしても、間違っていそうなところを探し出して責め続けてみても、ヨブが救われることも、変わることもないわけですから。

ヨブは、自分の言葉がちっとも聞いてもらえないこと、聞き流されているゆえに、23節でこう言っているのではないでしょうか。

「どうかわたしの言葉が書き留められるように 碑文として刻まれるように。
たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように」と

3人の友人たちがしたことは、彼ら3人が信じている神のイメージ、神学をもって、ヨブを説き伏せようとした、ということです。神は「絶対的に正しい」。「善」である。この神様に対するイメージを、神学を、ヨブにぶつけた。

しかしヨブの神様へのイメージは、神は善であることはもちろんそうなのだけれども、そうであるからこそ、なぜ正しく歩んできた自分が、こんな目に遭っているのかが、わからないという苦悩。単純に神は「善」であると、割り切れない、神様に対するイメージ、神学の葛藤を経験しているのです。

その神様のイメージ、神学の葛藤のなかから、ヨブは宝のような一言を、ここで口にします。

「わたしは知っている。わたしを購う方は生きておられ、ついには塵の上にたたれるであろう。」と

この一言は、ヨブ記の中では大変有名な一言です。

「購う方」とは、自分を救う方としての、神様を指していっている言葉なのでしょうか。
そして「塵」とは、死を意味すると言われます。

死において、この自分を贖い、救って下さる方がいることを、知っているのだという、ヨブの告白と受け止めることができます。

キリスト教の伝統では、ここに「復活」の希望を読み込んで、

「世の終わりにわたしは土から起き上がる」と読んできた伝統があります。

いずれにしろ、ヨブはこの苦難が苦難では終わらないこと。滅びで終わらないこと。必ず救って下さる方がおられる希望を、しっかりと握っている。

その救って下さる方と、今この苦しみを与えている方は、同じ方なのか。神なのか。

わたしたちは、この時のヨブの心を、信仰をすべて知ることは出来ませんけれども、

しかし、あの十字架のうえで、あのまったく正しく生き抜かれたイエスさまが、天の父に向かって、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んでいかれた、その主イエスを、

父なる神は復活させられたことを、知っています。

あの3人のヨブの友人たちが、神のことを単純に「絶対に正しい」「善」とイメージして、人間の罪を裁く、怖い方と決めつけていた、そういう神とは次元の違う、

人の罪を購い、救ってくださる神こそが、わたしたちの神であることを、わたしたちは主イエスを通して、知らされたのです。

ですから、わたしたちもこのヨブのように、先の見えない試練の時も、人から聞いてもらえず、理解されない孤独の時に、

「わたしは知っている。
わたしを購う方は生きておられ
ついには塵の上にたたれるであろう」といった、

ヨブのこの信仰に立てますように。