今日は台風がいよいよ接近しています。
さて、夕礼拝でヨブ記からメッセージを読み取る、4回目となります。
ある日、突然災難に巻き込まれたヨブ。神を信じ、正しく生きていた彼の人生が、急転直下、不幸のどん底へと落ちていく。わが子を失い、財産を失い、自分の健康もも失うなかで、なおヨブは、神様から幸福を頂いたのだから、不幸さえ頂くべきではないかといったヨブ。
そんなヨブの神様への信仰を試すかのように、その後3人の友人たちとの議論が始まりました。
彼らの言い分を一言で言うなら、「神は正しいお方なのだから、ヨブに襲ったこの災難は、あなたの隠されている罪のゆえなのだろう」ということです。
代わる代わるやってきてヨブを責める友人たちに、ヨブは自分はなにも間違ったことはしていない、自分は正しいと言い続けます。自分は正しいはずなのに、こういう目に遭っている理由がわからない。神様の横暴だと感情は高ぶり、逆に自分は生きていてもしようがないと、激しく落ち込んでいきます。
最後にエリフという若者が登場してきて、3人の友人の議論も生ぬるいし、自分は正しいと言い張るヨブもわかっていないと、批判します。
そしてこのエリフは、神の霊、全能者の息吹によらなければ、人は神のことはわからないのだという、大切なことを語り、所々で、神がヨブを滅亡から救うというような、不思議な言葉を、まるで預言者のように口にします。
そしていよいよ、先ほど朗読された箇所に入るわけです。
まさに、今日の空模様のように、嵐の中から、主なる神の言葉が響いてきたのでした。
嵐の中から、主の声がする。それはとても印象的です。様々なことを考えさせられます。
嵐は試練や苦難を想像させますし、湖で弟子たちと主イエスが乗った小舟が、嵐に遭遇した物語を、思い起こさせられます。
あのときも、嵐の中で、主イエスの声が響いたのでした。沈まれ、だまれという言葉が。
それは、主イエスが、嵐に向かって語ったとも言えるし、揺れる船の中で、心が嵐のようにざわついていた、弟子たちの心に向かって、沈まれ、だまれと、主イエスはいわれたんじゃないか、とも受け取れる出来事でしたけれども、
さて、このヨブ記のなかで、嵐の中から登場してきた主は、いったいなにを語られるのでしょう。
この議論に明け暮れていたヨブと3人の友人たちに、どう答えてくださるのでしょう。
わたしたちの関心は、きっとこうじゃないですか。
いったい正しいのは、どっちなのか。ヨブか、3人の友人か。どっちの言い分が正しいのか、神様の判決が聞きたい。
3人の友人たちのいうように、ヨブに罪があったから、ヨブは、こういう目に遭ったと、神様は言われるのか、
それとも、ヨブがいうように、彼にはなにも罪はないが、あえて、ヨブに試練をあたえていたのだ、と答えられるのだろうか。
2節から読んでみます。
「これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。
男らしく、腰に帯をせよ。
わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」
さて、これは誰に向かって言っている言葉かと言えば、直前まで話していた若者エリフではなくて、ヨブに答えて仰せになっているわけです。
「神の経綸」とはなんでしょう。簡単に言えば、神様のお考えや、神の業ということです。
神様のご計画とか、摂理とか、御心とか、御業とか、様々な言われ方をしますけれども、ようするに神様が考え、しておられることのすべてです。
そして、神の経綸というものは、当然のことながら、神様しかわからないということです。
人間だって、その人が本当に何を考えて、何を計画しているかは、その人に聞かなければ、わからないでしょう。
そういう意味で、嵐の中から語られた神様の第一声は、怒りなのです。あなたたちは、わたしのことを何も知らないのに、好き勝手に言葉を重ねて、神の経綸を暗くしていると。
3人の友人たちは、勝手に自分たちの考えで、神はこういうお考えなのだと、言葉を重ねてきた。ヨブもまた、自分は間違っていないのに、神はひどいことをなさっていると、語り続けてきた。
これはすべて、自分の考えでしょう。自分を中心にして、自分から出発して、神について考えているのです。
今までの言葉のやり取り、議論の土台は、すべて神ではなく、自分の考えだったのです。
この、自分を土台として、自分から考えるのは、神学ではなくて、哲学なのですね。
哲学者のデカルトが、「我思うゆえに、我あり」と言いましたが、あらゆるものの存在を疑っても、その疑っている自分自身の存在だけは、疑うことができない。考えている自分は、確かに存在している。この「考えている自分」という土台だけは、否定できない、ということです。
そうやって、自分という土台に立って、この世界をながめて、出来事をながめて、神について考えてみても、決して神様のお考えはわからない。神の経綸に、暗いままということです。
これが、哲学と神学の決定的な違いでもあります。
哲学は人間の考えから出発して、神を考えようとする。しかし、神学は神の啓示から出発するのです。神様が聖霊によって、人間に語ってくださったこと、聖書の言葉をとおして、神様のお考えを探っていく。それが神学。
そもそも、神様のお考え、神の業も、神さまに聞かなければ、わかるわけがないわけですから。
自分という土台にたって、神を論じることの、むなしさ。
「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くする」とは、そういうことでしょう。
しかしそういいながらも、ここで、神様は、まっすぐにヨブに向き合って、語ってくださったのです。
「男らしく、腰に帯をせよ」と言われて、うじうじと、自分のなかに閉じこもっていないで、これからわたしが語るから、向き合いなさいと、呼びかけてくださった。
4節から
「わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。
だれがその広がりを定めたかを知っているのか。
だれがその上に計り縄を張ったのか。
基(もとい)の柱はどこに沈められたのか。
だれが隅の親石を置いたのか。
その時、夜明けの星はこぞって喜び歌い
神の子らは皆、喜びの声をあげた。」
天地を造られた神の、その心が、あなたにわかるのか。
その広さ、形、土台、についての知識があなたにあるのか。
8節以下では、海の創造について、その限界について、詩的な表現で語られていきます。
このあと、自然や動物を造り、支配しておられる神の摂理が、切々と告げられていくのです。
それを一言でいうなら、この世界のすべては、自然、動物、人間、ありとあらゆるものは、神の計り知れない配慮、愛の計画のもとに、存在しているというメッセージです。
神の配慮と愛なくして、存在しているものは何一つない。
あなたは、その神の心を、知っているのかという、ヨブへの問いかけです。
この質問に、ヨブが答えられるわけがありません。ヨブは神ではないのです。
それでは、神様は、ヨブに答えられない質問をして、ヨブをいじめているということでしょうか。
そうではないでしょう。むしろ、主なる神はちゃんとヨブと向き合って、神がどれほどの愛と配慮をもって、この世界を良いものとして、造られたのか。
そのことを、親が子どもに向き合って、教え諭すようにして、語りかけてくださっている。わたしはそのように受け止めます。
わたしたちも又、今、自分が存在していること。今日まで生きてきたことの背後には、どれほどの神様の配慮と愛があったのか、わたしたちはなにも知らないままに、当たり前のようにして、生きてきてしまったでしょう。
良いことは自分の努力のおかげ。悪いことは誰かのせい、神様のせいにしながら、生きてきたのではなかったですか。
今のこの自分の苦しみも、悲しみも、神様はすべて知っておられる。
ヨブはなにも見捨てられていない。この天地を造られ、細部に至るまで配慮と愛をもって、支配している神様が、ヨブを見捨てるわけがない。いじめるわけがない。
そこには人間には到底わからない、神の経綸があるのだ。その神の経綸とは、この世界を滅ぼす経綸ではなくて、細かなところまで愛と配慮に満ちた、この世界を作り上げていく、神の経綸なのだ。
今の、そのヨブの試練も、そして私たちひとりひとりの人生の出来事すべても、
神がこの世界の隅々を配慮をもって創造された、その神の経綸のなかにある出来事。
ただ、そのことだけを信じて、自分の悲しみの中に閉じこもらないで、へたり込まないで、自己弁護していないで、
神と人とに、まっすぐに向き合い、歩み出したい。
今、わたしたちが、ここに存在していることの不思議さ、神の経綸、その奇跡に、まっすぐに向き合いたい。
まったく正しい主イエスが、罪人のようにして、十字架につけられるという、その苦難、苦しみのまっただなかにさえ、神の経綸が、神の愛があり、
神様はその神の経綸を、人が思いもしなかった、想像さえできなかった、復活という仕方で、ちゃんと示してくださったのです。
十字架という人間の絶望、苦難に対する問いに、神は、復活という、神様にしかできない、答えを与えてくださいました。
それは、ヨブの苦しみに対して、世界の創造という答えで、答えてくださったことにも繋がります。
苦しみは新しい命の創造に至る道筋。プロセスなのだと、答えてくださった。それが神のやり方なのだと。
十字架はかならず復活に至る。苦しみと喜びは一つ。
だから、恐れなくていいのです。マイナスに思えることを、主は必ずプラスにしてくださる。十字架は復活に至るのです。
ヨブは、この世界を愛と配慮をもって造られた神の経綸にふれることで、自分の苦しみの、その計り知れない意味に、向き合うことになります。
神の経綸は、人間の知恵ではわからない。でも、それでいいのです。わかった気にならなくても、いいのです。
ただただ、神の愛を信じて、神は、新しい命の創造をなさる方。死んだ命を復活させる方。
どんな嵐の中からでも、力強く語りかけてくださる、神の愛と業を信じて、
わたしは、この神に愛されているのだと、信じて、新しい一週間も歩み出していけば、いいのです。