「愛がなければ」(2017年10月29日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

1コリント13章

この礼拝堂一杯に、ホルンの賛美が響きわたりましたね。ホルンの響きに、心が高揚いたします。

ホルンの宮田四郎さん、そしてピアノの山岸正裕さんと共に、神様を礼拝できますこと、感謝です。

今日、はじめて教会の礼拝に参加された方、久し振りな方もおられますね。この出会いに導いてくださった神様の恵みと祝福が、豊かにありますように、主イエスの名によって、お祈りします。

 さて、先ほど「いつくしみ深き、友なるイエスは」と歌いましたけれども、意外とこの讃美歌は、あまりに教会で歌われすぎたのか、最近はあまり歌われなくなったようで、むしろ結婚式場でよく歌われることが多いんですね。先ほど、朗読された、聖書の言葉、コリントの信徒への手紙13章の「愛」の教えと共に、キリスト教式の結婚式場では、定番の賛美歌と、聖書の箇所であるのです。

 結婚式といえば、わたしは山形の酒田で開拓伝道をしていた頃、一つ、忘れられない結婚式を体験したのです。


ある土曜日の10時ころ、電話がかかってきました。すぐ近くのホテルからでした。

今から1時間後に、結婚式が始まるのだけれど、頼んでいた牧師さんが、日程調整のミスで、牧師さんが遠くに出掛けてしまっているのだというのです。

時間になっても、牧師さんが式場にあらわれないので、ホテルの担当の人が連絡したら、日程ミスが発覚した。

それで急きょ、わたしのところに電話がきたのでした。
電話を受けながら、「そりゃいくらなんでも無理だ」と思いました。結婚式の司式なんて、滅多にしていないのに、一週間後ならともかく、1時間後なんて、そんな無茶な。
お話の準備もなにもできない。無理だ。

「ちょっと、あまりにいきなりで、難しいです」と断ろうとしたけれども、
「他に頼める人がいないんです」と言われたら、断れない。

覚悟を決めて、電話を切った直後に、大急ぎでガウンに着替え、頭の中でイメージトレーニングをしながら、ホテルに駆け込んだのが、式が始まる40分くらいまえ。

会場に駆け込んで、係の人から結婚式の大まかな流れを聞いて、頭に叩き込む。
「本番でわすれたら、小声で教えてくださいね」とお願いしながら、
「もし、わたしがこなかったら、どうなっていたんですか」と、きいてみたら

「考えたくもないです」と言われました。そりゃ、そうだと思いました。
30分前に、新郎新婦と顔合わせる。

「大丈夫。緊張しなくていいですよ。神さまの祝福を祈りますからね」と、緊張気味の2人に言葉をかけたけれども、

実は、その言葉を、一番必要としているのは、本当は、自分だったわけです。

短いリハーサルやこまかい調整を終えたのは、式の10分前。
その間、たびたび心の中で祈りました。

この状況を生み出したのは、わたしじゃないんだから。
うまくいかなくても、失敗しても、
この状況に投げ込んだのは、神さまなんだから、神さまが責任とってくださいね。
もう、あとは神さまに委ねますと、祈ったら、すっと心に平安が与えられた。

式の5分前、そばにいた新郎に話しかけました。気さくな好青年でした。
新婦と出会ったきっかけなどを話してくれたので、結婚式の中の、メッセージの中に、おりこんだはずです。でも、いったい、何を話したのか、覚えていません。

その時も、讃美歌は「いつくしみ深き」そして、聖書はこのコリントの信徒の手紙13章でした。

いったいこの聖書の箇所から、なにを語ったのか全然覚えていないのですけれども、結婚式の途中から、だんだん自分の心が落ち着いてくる中で、

一つ、気づいてきたことがあったのです。

それは、ほんの1時間前、突然の出来事に、「失敗したらどうしよう」「うまくできるだろうか」「なにを話したらいいんだろう」とか、要するに、自分のこと、自分の心配ばかりに、心が向いてしまっていたな。

目の前の二人、そしてご家族のことに、ちっとも心が向いていなかったな。

自分のことばっかりになっていたな。「愛がなかったな」と気がついた。

本当の主役は、今、目の前で、新しい出発をしようとしている、この2人じゃないか。

自分がうまく出来るかなんてことより、これから始まる、新しい家庭が、愛に溢れるようにと、神様の祝福を祈るのが、自分の役割じゃないかと、目が覚めたら、

むしろ「スーッ」と不安や緊張が解けていった。

今、この二人の人生の重要な時間に、立ちあわせていただていることの、不思議さ、感動が心をおおったのです。

この出来事、証を通して、お伝えしたいことは、つまり、

「愛がなければ、なにをしても、何の益もない」と、今日のみ言葉で、使徒パウロが語った一言に尽きるのです。


コリントの教会には、人間関係にだいぶ問題があって、異言とか、預言とか、神秘的な知識があると、自分を誇る人々と、周りの人々との間に、裁きあい、緊張関係があったようなのです。

パウロは、そんなお互いが、共に生きていけるようにと願いつつ、この手紙を書いているのです。

なので、たとえ、山を動かすほどの信仰があろうと、全財産を貧しい人のために使い尽くすほどの、良い行いをしようと、


誰かのために、自分の命を捨てるほどのことをしようとも、


それが結局は、「自分」のことを誇るためにしているのなら、人に認めてほしいから、しているのなら、

それは、愛でもなんでもないのだ。愛がなければ、どんなことをしたとしても、無に等しい。空しいことだと、言うのです。


そして、このパウロの言葉は、時代を超えて、今、私たちの生き方とか、心の中の本当の思いを、探る言葉ではないでしょうか。

「愛がなければ、なんの益もない」

自分がいましていることは、他者への愛なのだろうか。本当の動機は、自分のためではないのか・・・


今日、お迎えした宮田先生が、「わたしの体験談」という証の文を書いておられて、そのなかにこんなことが書かれていました。途中からですけれども、一部、ご紹介させてくださいね。

クリスチャンになられてからしばらくたったころのお話の部分です。


 私は「主に選び出された特別な演奏家」というプライドを持ち続けて、それが、気がつかない罪になっていました。ある時は「クリスチャンだから、格好良く演奏するのだ」などと思い上がって、大失敗をしたり、また、練習しすぎて唇を痛めて、交響楽団での演奏が出来なくなってしまいました。しかし、数年後には主の恵みによって、すべてが益となり、音楽大学の准教授として、より安定した職に就くことが出来ました。そしてさらに自分自身で体験した試練を通して、キリストの十字架の苦しみは私のためであり、私は一方的な神の愛によって救い出された、ということを再確認することが出来ました。そして、次のような悔い改めの祈りをして、今まで得られなかったような大きな平安と喜びに満たされました。

「主よ、わたしは音楽家としてのプライドを、罪として悔い改め、捨て去ります。どうか気づかなかったこの罪を赦してください。もう一度献身の思いを新たにして従います。経歴も地位も能力もあなたに捧げますので、それらが傲慢の罪の原因になるようでしたら、どうか捨て去ってください。あなたに愛されて、罪赦され、生かされているだけで十分です。もし、私の演奏があなたのお役に立てるようでしたら、どうかそれを再び用いてください。」


 宮田さんも、あるとき「愛がなければ」どんな演奏も、空しいことに気がつかれたのではないでしょうか。

「愛がなければ」

その「愛」とは、では、具体的にはなんなのか。それをパウロはこう言葉にしていますね。


「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」

「ねたまない。自慢しない。高ぶらない。自分の利益を求めない、いらだたない、うらみをいだかない」

これはみんな、自分のことです。自分中心、自分のプライド、自分はたいしたものだと、認めてほしいという欲求ではないでしょうか。


人から褒められたくて、ボランティアをするとか、慈善活動をするとか、
人を助ける仕事、人に喜ばれる仕事をするとか、そういうことごとではないでしょうか。

でも、それはあのイエスさまが批判なさった、律法学者たちのように、人から褒められたくて、わざわざ人前で目立つお祈りをしたり、慈善をしたということと、同じことでしょう。

律法学者たちも、彼らの善い行いの本当の動機は、他者への「愛」というより、自分の立場を守るためであったわけだから。

そういう生き方では、人生そのものが空しいものになってしまうのではないかと、

今日のみ言葉は、わたしたちに問いかけてはいないでしょうか。

「愛がなければ、無に等しい」
「愛がなければ、わたしになんの益もない」


・・・しかし逆をいえば、そこに他者への本当の愛があるなら、愛の思いが込められているのなら、

わたしたちのどんな小さな行いも、

だれにも気づかれない、些細なこと、笑顔一つ、目立たず、すぐに忘れ去られてしまうようなことも、

また、人生も、

そこに「愛がある」なら、その小さな一つ一つのことは、忘れられることのない、永遠の価値をもつでしょう。

なぜなら、パウロは8節で「愛は決して滅びない」というからです。


人の目に留まる、「預言も、異言も、知識も」。社会的名誉も、経済的豊かさも、そんなものも、所詮、一時的なもの。過ぎ去っていくもの。忘れ去られていくもの。

しかし「愛は決して滅びない」とパウロは断言します。

その「愛」とは、人間の、コロコロと変わりやすく、条件がつくような「愛」を越えた、神の愛のことです。


10節でパウロはこういいます。

「完全なものが来た時には、部分的なものは廃れる」のだと。

完全なものとは、神以外にはありません。人間はどこまでいっても不完全。

ちなみに、愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない・・・・という愛の部分に、ご自分の名前をいれて、読んでみれば、だれでも気が付くでしょう。

完全な「愛」など、人は持ち合わせてないのです。ここに名前を入れられるのは、キリストだけです。

完全な愛について、イエスキリストは、こういうことを言われたことがあります。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。・・・自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんなすぐれたことをしたことになろうか・・・」
「敵を愛し、自分を迫害する者のために、祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と

これが完全な愛というものです。

未だかつて、こんなことを語り、そしてその言葉のとおりに生き抜いた存在は、イエスキリストだけなのです。

やがて、ご自分をねたみ、憎み、十字架へとつけて殺そうとする人々のために、

十字架につけられた苦しみのなかで、

「父よ彼らをおゆるしください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです」と祈り、まさに、敵を赦してほしいと、祈り死んでいかれた、イエスキリスト。


完全な愛。神の愛とは、唯一、イエスキリストにおいて、この地上に、現れました。

ここに愛があります。これが完全な「愛」というものです。


人は不完全です。自分の見えている狭い範囲だけで判断しますでしょう。

そして、お互いに「だめだねぇ」といいあっている。

だから、「愛は忍耐強い」とパウロが最初にいうのは、わけがあるのです。

「忍耐強い」とか、「寛容」と訳される、この言葉は、つまり、すぐに決めつけない、切り捨てないという意味なのです。

わたしたちは、みんな、自分の視点からして見えていないから。一部分しか見えていないのです。

ある人から面白いことを教えてもらいました。

わたしたちは自分が今見えているものが真実だと思っているけれども、赤外線カメラで見ると、全く違うものが見える。

目の前の帽子のなかに、温かいお湯が入ったコップを隠しておくと、赤外線カメラで見ると、帽子は写らなくて、なかのコップだけが写るのだそうです。

帽子もあるし、コップもある。でも、人間は、両方をみることはできない。一部分しか見えてないという話です。


夫婦の間でも、親と子どもの間でも、先生と生徒の間でも、上司と部下の間でも、教会に集うお互いの間でも、人は、一部分しか見えていないんです。それを、絶対だと言い合うのは、愚かでしょう。


そんな一部分しか見えていない人間同士が、共に生きるためには、「自分は一部分しか見えていない」、だから「あの人の言葉も真実の一部があるはずだ」と、互いに言葉を聞き合うために、忍耐強くあることこそが、愛なのだから。

だから、パウロは一番最初に、「愛は忍耐強い」というのではないでしょうか。


そしてなによりも、誰にもまして、忍耐強く私たちに関わってくださっているのが、神様なのだから。

なんども失敗し、人を傷つけ、神様の御心に背いてしまっている、神の子でも、いや、そうであるからこそ、神様は、だれよりも「忍耐強く」、「情け深く」、見捨てることなく、関わってくださっている。

その神の憐れみは、神の御子イエスキリストが、わたしたちの、どうしようもない罪を背負って、死んでくださるほどの、完全なる愛であったのです。

この神の愛こそ、決して滅びることなく、いつまでも残る永遠の価値ある命。

今は、まだ神の愛といわれても、神に愛されているといわれても、

わかったような、わからないような、

まるで、曇った鏡におぼろに映った人影を見ているような、もやもやした、よくわからない状態だとしても、

人生の幾多の試練を経て、やがて神様によって、天に招かれる時、

わたしたちは、すでに神様にはっきり知られているように、

わたしたちも、はっきりと神様の愛を、知る日が来る。

これほどまでに、愛されていたのか。そこまでしてくださっていたのかと、

あの神の御子主イエスの十字架の愛の意味が、わかる時がくる。

この「愛がなければ」

この「愛にあいされていなければ」

決して生きることが出来なかった、人生であったのだと、

気づく日が来るのです。