「いつまでも主と共に」(2017年10月22日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

1テサロニケ4:13-18

 今日は、空模様も、政治も、嵐の一日になりそうですけれども、

外の世界がどれほど嵐でも、わたしたちは、復活の主イエスとともに、

教会という舟に乗せていただいていますから、嵐で揺れることはあるけれども、大丈夫。

主が共におられるから、必ず向こう岸に、神の国に、みんなでたどり着けるでしょう。


今日の礼拝は、「召天者記念礼拝」ですね。まさに、共に、向こう岸を、神の国を、見上げる礼拝です。

ロビーに飾られたお写真。愛するご家族、仲間たちの写真を見て、また、名簿の名前に目を落としつつ、

みなさんそれぞれに、その方と過ごされた日々を、思い起こされたでしょう。

わたしも今回から、父の名前を「記念するかた」のところに、載せていただきましたけれども、

やっぱり「名前」を見ると、いろいろなことを思い出しますね。

一人暮らしで、4月に心筋梗塞で急に亡くなりましたけれども、

生きているときは、教会にはこれなかったけれども、こうして名簿に名前が載って、教会の礼拝で祈ってもらって、「よかったねお父さん。やっと教会にこれたね」という感謝な気持ちになりますね。


このメッセージの前に歌った賛美歌は、「世の終わりのラッパがなりわたるとき」という歌ですけれども、

やがてこの世界の歴史が完成する、世の終わりのときに、主が来られて、わたしたちの名前を呼んで、

神の国へと、導き出してくださる。


その名簿に、わたしの名前もちゃんとある、だから大丈夫、という讃美歌ですね。

どんなに外が嵐でも、人生の舟が揺れても、

私たちをこの地上に生んで、名前を付けてくださった、天の親である神様が、

ちゃんと名前を呼んで、救ってくださるから、大丈夫。恐れなくていいよ、ということです。


もし、わたしがラッパが吹けたなら、ぜひ、ラッパで伴奏して、歌いたいところです。

若い人は、「ラッパ」ってわかりますかね。「ラッパー」じゃないですよ。今で言えば、トランペットとかホルンとか、管楽器のことです。

来週の日曜日は、ここでその「ラッパ」の音が聞けますから、どうぞ期待してくださいね。


さて、先ほど朗読されたテサロニケの手紙

その16節のところで、使徒パウロはこういいます。

「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降ってこられます。」

また、

「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っているものが、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」


とても神秘的で、壮大なイメージで、よの終わり、終末について、パウロは表現していますね。


彼は、神の霊、聖霊に導かれつつ、神様からの啓示として、このようなイメージを受け取って、精一杯言葉にしているのだと、信じます。

ただ、パウロも人間ですから、実際にそれを見たわけじゃない。

幻、イメージを言葉にしているわけです。黙示録と同じですね。本来言葉にならないものを、言葉にしているわけです。

音楽を言葉で伝えているようなものです。無理があるわけです。

だから、正直、パウロはここで何を言っているのか、よくわからない。

「神のラッパ」ってなんなのか、空中で主と出会ったり、雲に包まれて引き上げられるとは、具体的には、どういう状態なのか、正直、よくわからない。

いや、わからなくていいのです。大切なのは、そこではなくて、

最後のところでパウロが言いたかったこと、つまり、「わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」という、このことだけが、わかったなら、それでいいのです。


ところで、「召天者記念礼拝」の「召天」という言葉は、プロテスタント教会が使う用語です。

天に召されると書いて、「召天」。

教会用語は難しいですね、教会にはじめて来られた方は、落語の「笑点」と、勘違いしてしまいそうです。

カトリック教会では、「帰天(きてん)」と言っています。天に帰るとかいて、「帰天」ですね。これも言葉としては、ちょっとわかりづらいでしょうか。

ただいずれにしろ、キリストを信じるものにとって、死ぬということは、主によって、主のもとに引き上げられることなのだ、という信仰を、ひとことで、「召天」とか「帰天」と表現しているわけですね。


これは、仏教がいうところの、魂が「極楽浄土」にいく、ということとは、ちょっと、いや、だいぶ違います。


キリスト教は、魂だけが天国に行くのではなくて、今日のみ言葉にあるように、新しい体に、「復活」して、神の国に入る、ということだからです。


14節
「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」

わたしたち罪を背負い、十字架に死んだ主イエスを、神は、復活させたその力で、

神は、わたしたちも同じように、新しい体へと復活させてくださる。

魂だけの救いではないのです。新しい体をまとって、神の国にはいる。これがキリスト教の希望です。


これは、今日の週報の巻頭言にも書きましたけれども、「青虫が蝶に変わる」ことに譬えるのが、やはりわかりやすい。


「青虫」はなんで、蝶から生まれるのに、最初から美しい蝶じゃないんでしょうね。

地面をはいつくばって、葉っぱをたべる、そういう「体」をまとって生まれてくるわけです。

でも、実は、青虫は、その「体」で一生を終えるために、生まれてくるわけではないでしょう。

やがてやがてまったく違う「体」に変えられ、羽をまとって、空を飛び、花の蜜を食べるために、青虫として、生まれるわけです。


わたしたちの、今の地上の人生は、いわば、この「青虫」のよう。

青虫の時間は、やがて蝶となるための、大切な準備期間だったように、

わたしたちの今の人生も、この「体」でいきることも、やがて、新しい体をまとって、「蝶」のように舞い上がるため。

だから、今ちょっと体の具合が悪くても、病気でもいいんです。その状態で永遠にいきるのではないのだから。

やがて新しい体。新しい命、永遠の命に、復活する。ここが、福音の素晴らしいところ。


ただ、そのプロセスにおいて、一つだけ、忘れてはならないものがあるのですね。


それが、「さなぎ」と呼ばれる期間です。この「さなぎ」と呼ばれる期間の理解をもっていないと、ちょっと混乱することがあるのです。



 聖書に戻りますけれども、このパウロが書いた、テサロニケの信徒への手紙ですが、

これはおそらく、新約聖書で一番最初に書かれた文書なのです。主イエスの十字架の死と復活から、20年くらいしか経っていない、はじめのころの教会に宛てた手紙です。

 復活した主イエスと出会った人たちが、また生きていた時代。「主イエスは、本当に復活して、わたしたちの目の前に現れたんだ」と、証言する人たちが沢山いたころです。

その主イエスは、またすぐに戻ってくるのだ。自分たちが生きているうちに、戻ってくるのだ。

そして主が来られたら、この世界は新しくなるし、自分たちも、新しい体に復活して、神の国に入るのだ。

それは今か今かと、待ち望んでいたころの、教会に向けて書かれたパウロの手紙なのです。


迫害されていた苦しみも、困難も、もうすぐ終わる。「青虫」のようなわたしたちは、もうすぐ「蝶」となって、神の国に入るのだ。

この希望によって、忍耐し、生きてきたテサロニケの教会の人々。

しかし彼らには、大切な知識が欠けていたのです。

「青虫」は、すぐには「蝶」にならないのだ、ということを。
「さなぎ」の期間があるのだ、ということを。

13節でパウロはこう語り出します。

「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と。

この「既に眠りについた人たち」とは、最近、教会の仲間や、家族で、なくなった人々のことです。

教会の中で、親しい人が亡くなっていく。迫害のためだったり、病のためになくなった人もいたでしょう。

すぐにでも、主がきてくださって、青虫は蝶になれるはず。新しい世界が始まるはずだと、信じていたからこそ、

主が来ないうちに、親がなくなり、伴侶がなくなり、子が亡くなってしまうことが、

深い嘆きと悲しみとなっていた。

自分たちが生きているうちに、主は帰ってきてくださるのではないのか。王として君臨してくださるのではないのか。新しい命へと、復活するのではないのか。

ある人々は、仕事さえやめてしまって、今か今かと、その「再臨」を待っている状態だった。
ところが、待てど暮らせど、主はこない。そうこうしているうちに、時が過ぎ、愛する家族や仲間のなかで、病気になったり、亡くなってしまう人が出始めていくとき、

いったい、死んでしまった人たちは、どうして死んでしまったのか。主がこられたとき、先に死んでしまった人たちは、どうなるのかと、ショックだったことでしょう。

あの人は、なぜ、再臨がくる前に、死んでしまったのか。罪のためか。裁かれ滅びてしまったのか。そういう疑問や嘆き、悲しみが教会の中にわき起こっていたことでしょう。

自分たちは死ぬはずがない。青虫はすぐ「蝶」になるのだと、思っていたわけですから。

自分たちが死ぬ前に、主がこられ、新しい体となって、神の国にはいれるのだと、思っていたわけですから。

それなのに、愛する人が、親が、夫が、妻が、子どもが、死んでいってしまう。
いや、自分自身が、まさに死の病にかかり、自分は神に見捨てられたのではないかと、嘆き悲しんでいた人もいたかもしれません。

なぜなのだ。死なないで、神の国に入るはずだったのに、なぜなのだという、嘆きの中にいた人がいたことでしょう。

死ぬことなど想定外だった彼らにとって、愛する人の死や、自分自身の死と、向き合わなければならなくなったときの、失望と悲しみ。

なぜなのだろうか。神の裁きなのだろうか。罪が赦されていないのだろうか。神に見捨てられてしまったのだろうか。

そんな嘆きと悲しみが、神を信じていないからではなく、信じているからこそ、彼らの心を苦しめたことでしょう。

今、朝の教会学校の時間に、旧約聖書ヨブ記を読んでいますけれども、

神を信じ、神の前に正しく生きてきたはずのヨブ。しかし突然自分の子どもたちが死に、財産も失い、自分自身も重い病にかかってしまった、その苦しみに加え、

3人のヨブの友人たちから、そのあなたの苦しみは、あなたが隠している罪のせいに違いない。神は正しい方なのだから、あなたは、自分の罪の報いを受けているに違いないと、責められ続けた出来事が記されているわけです。

家族が死に、自分もまた病に苦しんでいるのに、友はそのヨブに寄り添ってくれないのです。なんという苦しみでしょう。

神を信じていないからではないのです。神を信じているからこそ、なぜこんなことになるのかという、苦悩が生まれるのです。

わたしたちも、この苦悩と無縁ではないはずです。

「なぜ、これからというときに、このような病に」とか、
「あのとき、こうしてあげられたら、こんなことにはならなかったかもしれない」とか、

突然の悲しみ、「死」と向き合わなければならなくなる、苦悩のなか、

自分を責め、人を責め、神様を責めてしまうことも、あるでしょう。

神に見捨てられてしまったのではないかという、不安や恐れ、むなしさ、失望に、心がなえてしまうこともあるでしょう。

 テサロニケの教会の人たちは、なぜ、主イエスが来ないうちに、愛する仲間が、家族が死んでいくのか、これは、いったいどういうことなのか。神に見捨てられてしまったのかと、嘆き悲しんでいたのです。

その心の苦しみから、だれも自分独りで、抜け出すことはできません。
だからこそ、パウロは言うのです。「互いに励まし合いなさい」と

パウロは言います。
13節「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように、嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知って置いてほしい」と

彼らは、滅びたのでも、神に見捨てられたのでもない。
そうではなく、やがて復活する日に向けて、「先に、眠りについた」だけなのだ。

神のラッパが鳴り響く、その日。「先に眠りについた」人々も、そして生きているわたしたちも、共に復活し、いつまでも主がともにいてくださる、神の国に入るときがくる。

この希望の言葉によって、互いに励ましあい、失望せず、生き抜いてほしいと、パウロは語るのです。

青虫は、蝶になる前に、眠っているように動かない「さなぎ」の期間を必要とするのです。

「さなぎ」は、動かないようでも、死んでいるわけではない。生きている。
新しい命に向けて、生き続けている。

今、目に見えない愛する人々も、ちゃんと生きている。わたしたちは、やがて主にあって、神の国で、再会するのです。

今日は衆議院選挙の日。

今日に至るまで、なんどもなんども「希望」という言葉を、耳にしたでしょう。

しかし、政治の語る「希望」は、一時的な希望に過ぎない。

今、死をまえにした人に、病にある人に、政治家の語る希望は、なにも届かないでしょう。

わたしたちも、今は、向き合っていないくても、やがて、すべての人は、自分自身の死というものに、向き合わなければならない日がくるのです。

100%確実に、人は死を迎えます。

にもかかわらず、わたしたちが、なお失うことのない「希望」を、政治はあたえることができますか。

いつかはなくなってしまう、一時的な希望などではなく、いつまでもなくならない、

たとえ、死んでも奪えない、「希望」は、どこにありますか?

パウロは言います。

「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。
神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださる」のだと。

そして、先に眠りについたものも、やがて、眠りにつく、わたしたちも、

共に復活し「わたしたちは、いつまでも主と共にいることになる」のだと。

この希望こそが、今を生き抜く、本当の希望。

たとえ一時、「死」が、わたしたちの計画や、希望を、打ち砕くように、見えたとしても、

主イエスを死から復活させた神は、「さなぎ」のように眠るわたしたちを、目覚めさせ、

主イエスと共に、神の国へと、導き出す日がやってくる。

わたしたちにとって死は、終わりでも、無になることでもなく、

本当の自分自身の姿である「蝶」となる、空に羽ばたくための、準備のとき。

わたしたちは、この「希望」にこそ生かされ、今という日々を、生き抜いていくのです。