ヨブ記32章1節〜14節
こんばんわ。
先週はそれぞれどんな一週間を過ごされたでしょうか。
思うようにいったこと、行かなかったこと。
思わぬ出来事があったり、何事もない日々だったという方もおられるでしょう。
夕礼拝では、旧約聖書のヨブ記を5回にわたって読んでいく、その3回目ですけれども、神を信じ、正しく生きてきたはずのヨブに、これ以上ないほどの災難が襲うという状況に加え、ヨブを慰めるつもりで来たはずの、3人の友人たちまでもが、ヨブは神に罪を犯しているから、その報いを受けているのだというようなことをいい、傷口に塩を塗るようなことをして、苦しめていく、という出来事を読み進んで来たわけでした。
このヨブの姿を読む時、わたしたちもそれぞれに大変なことは経験しますけれども、ヨブの苦難よりは、まだいいんじゃないかと、そんな慰めを感じたりします。
なによりも、ヨブは憐れだと思わされるのは、3人の友人たちが、誰一人としてヨブの立場に立とうとせず、その言葉を受け止めようともせず、自分の言いたいことをいい、ヨブを責め続けた、ということです。
まるで警察の尋問にでもあっているかのように、罪をかくしているのだろう。神は正しいお方なのだと、責め続ける言葉は、聞くに堪えません。
そういうことができるのは、自分は神の御心がわかっていると、自分を神の立場に置くからです。3人の友人たちは、それぞれに自分を神の立場において、ヨブを責め続けたのでした。
しかし、結局友人3人が責め続けても、ヨブは自分は正しいと言い続ける。
そのヨブと3人のやりとりを、そばでじっと聞いていた若者がいたのです。
それが先ほど読んだ聖書の箇所に登場する、エリフです。
エリフは怒っています。ヨブがあくまで自分は正しいと主張するし、3人の友人たちも、ヨブの罪をちゃんと指摘できなかったと、怒っているのです。
ヨブの3人の友人たちに対しても辛辣な批判をしています。
6節
「わたしは若く、あなたたちは年をとっておられる。・・・」
9節
「日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になればふさわしい分別ができるのでもない。」
人生経験が長いからと言って、賢くなるのではないという言葉は、かなり辛辣です。
そういうことをいえる根拠は、なんなのか。人生経験をこえて、人に知恵を与える者とは何なのか。
それをエリフは8節でこう言います。
「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」と
この言葉はとても重要な言葉です。「息吹」という言い方は、神の霊の働きを指して言っているのだと思いますが、そういう神の側からの語りかけによらなければ、神について人は知ることが出来ないと、エリフは言います。
人間の人生経験、さまざまな体験、思考、哲学を積み重ねても、そういうことでは神を知ることは出来ないのだ。神を知るためには、神のほうから、ご自分のことを、教えて下さらなければ、わからない。
人を知る、ということにも言えることですが、その人が自分のことを話してくれなければ、その人のことを知ることはできません。人間でさえそうなら、ましてや、神について知るということは、神様ご自身が、わたしはこういうものだと、語って下さらなければ、わかりようがない。
ヨブの3人の友人たちは、ある意味、自分たちの知識、長い人生の経験から、神とはこういうお方なのだと、語っていた。自分の経験のなかで、知識の中で、神とは、こういうお方なのだと言っていたわけです。
しかし、人間がいくら長い人生経験を経たとしても、知恵や知識を得たとしても、神を知るということは、それとはまったく違うのだ。神を知るということは、神の霊。全能者の息吹によって、知るのだといった、エリフの言葉は真理です。
逆を言えば、たとえ年が若くても、知識がなくても、聖書のことをあまり知らない、神学を知らないとしても、神の霊の働きによって、全能者の息吹によって、神のことを、神の心を悟ることが出来る。
この信仰があるから、わたしのような未熟な牧師でも、こうして講壇に立って、神様について語ることが出来るのです。
エリフは、21節で「人間にへつらうことはしたくない。」と言っていますが、年齢や人生経験が長い人であろうと、気を使うことなく、へつらうことなく、自分に神様が示された言葉を、語らないではいられないのだというエリフの言葉は、とても大切なことを語っていると思います。
このエリフという人は、このあと37章までずっと語り続け、38章で主なる神が、ヨブに語り始める流れになります。
つまりこのエリフの言葉に、ヨブは反論をしないまま、次に、神ご自身が語り始める流れになっています。
そういう意味で、このエリフは前の3人の友人たちとは少し違った立場のように見えます。
神様から言葉を聞いて、語る預言者のような立場に、このエリフは立っているようにも思えます。
実は、この次の33章で、エリフはまるで預言者のような言葉をヨブに語っているのです。
33章23節
「千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために、使わされる御使いがあり、
彼を憐れんで
「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけてきました」と言ってくれるなら、
彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになり、
再び若い時のようになるであろう。
神は彼に祈って受け入れられ、
喜びの叫びのうちに御顔を仰ぎ、
再び神はこの人を正しいと認められるであろう。
これはヨブを責める言葉ではありません。救いの言葉です。こんな言葉が、エリフの口から溢れてきます。
さらに、つづけてエリフは、こんな言葉を語ります。
「彼は人々の前で讃えて歌うであろう。
『わたしは罪を犯し、正しいことを曲げた。
それはわたしのなすべきことではなかった。
しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。
わたしは命を得て光を仰ぐ』と
まことに神はこのようになさる。
人間のために、二度でも三度でも。
その魂を滅亡から呼び戻し、
命の光に輝かせてくださる。」
これはまさに、神の救い。福音の言葉です。
そんな言葉が、エリフの口から不意に飛び出してくる。不思議です。
神の霊によって、全能者の息吹によって、エリフは語らせられているのでしょう。
新約聖書のなかの、使徒パウロがかいたコリントの信徒への手紙のなかで、パウロはこういうことを言いました。
「人のうちにある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知るものはいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられているものを知るようになったのです」(1コリント2:11ー12)
実は、わたしたちも、神の霊を受けている。だからこそ、神様から恵みとして与えられているものが、なんであるかを知ることが出来るのだ、とパウロは言います。
その恵みとして与えられているものとは、なんなのか。
パウロはその少し前の箇所で、こう言いました。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1:18)と。
主イエスが十字架につけられ殺されてしまうという、人の目からみれば、絶望でしかない、あの出来事。
十字架につけられたイエスさまが、「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた、あの絶望の言葉も、人間のまなざし、価値観から見れば、
敗北の叫びであり、神にさえ、見捨てられてしまったという、絶望の叫びでしかないでしょう。
十字架とは、当時の死刑の道具なのです。人間の醜さ、残酷さのきわみ、ある意味シンボルが、この死刑道具の十字架。
この礼拝堂の正面に、大きく掲げられている十字架。わたしたちは死刑の道具を、今に至るまで飾り続けているのです。
本当なら、そんなものは見たくもないし、できれば記憶から消し去りたいものであるはずなのに、わたしたちはそうしません。むしろ、この十字架を忘れないようにと、掲げ続ける。
それは、人間の目からみれば、愚かなことなのです。
しかし、神の霊を受けて、心の目が開いた人には、この十字架につけられたキリストこそが、わたしたちを救う、神の力であり、めぐみであることがわかるのです。
ヨブの人生に起こった出来事の意味も、ヨブがいくら自分の頭で考え、自分の人生経験を通して、その意味をとらえようとしても、わからない。
自分の頭で考えれば考えるほど、ヨブはどんどん混乱し、落ち込んでいくのです。
苦難の意味を、人間がいくら考えてみたところで、人間には決してわからない。
そこにある神の御心は、神にしかわからない。
だれも、神のかわりになって、答えることはできない。自分の人生経験とか、哲学で、わかったようなことを言ってはいけない。ヨブの3人の友人たちがしたように。
人間はいくら考えても、わからない。あの主イエスの十字架の死は、いったいなんだったのか、あの苦難に何の意味があったのかを、弟子たちは決して自分の知識や経験から、知ることはできなかったはず。
しかし、神様は、神の霊によって、霊の息吹を、人の中に吹き込んで、
人間の知恵、人間の経験では決して理解できない、神の知恵を、悟らせてくださるのです。
エリフが、「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」といったように、わたしたちの霊に、神様の霊が働き、神の御心を、悟らせてくださる。
自分の人生に起こった苦しみの意味を、試練の意味を、
主イエスのうえに起こった、あの十字架の意味を、
わたしたちに、悟らせてくださるのは、人ではなく、神さまご自身。神の霊の働き。
主イエスは、当時の奴隷がするようなことを、なさったとき、
ご自分の弟子たちひとりひとりの足を、洗ってあげる、ということをなさったとき、
何でそんなことをなさるのか、わからないと驚く弟子たちに、いわれました。
「今はわからなくても、やがてわかる日が来ると」
神がどれほどあなたたちを愛しているのか。
今はわからなくても、やがてわかる日が来る。悟る日が来ると。
ヨブの試練の意味も、やがて神様ご自身によって、明らかにされる。
だから、今はわからなくて、苦しくても、辛くても、
やがて神様がわからせてくださる日がくることを信じたい。
エリフが神の霊によって、語ったように、
わたしたちの信じる神様は、
「人間のために、二度でも三度でも、その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせてくださる。」お方であること、信じて。