「神の息吹をいただいて」(2017年10月15日花小金井キリスト教会夕礼拝メッセージ)

ヨブ記32章1節〜14節

こんばんわ。
先週はそれぞれどんな一週間を過ごされたでしょうか。
思うようにいったこと、行かなかったこと。
思わぬ出来事があったり、何事もない日々だったという方もおられるでしょう。

夕礼拝では、旧約聖書ヨブ記を5回にわたって読んでいく、その3回目ですけれども、神を信じ、正しく生きてきたはずのヨブに、これ以上ないほどの災難が襲うという状況に加え、ヨブを慰めるつもりで来たはずの、3人の友人たちまでもが、ヨブは神に罪を犯しているから、その報いを受けているのだというようなことをいい、傷口に塩を塗るようなことをして、苦しめていく、という出来事を読み進んで来たわけでした。

このヨブの姿を読む時、わたしたちもそれぞれに大変なことは経験しますけれども、ヨブの苦難よりは、まだいいんじゃないかと、そんな慰めを感じたりします。

なによりも、ヨブは憐れだと思わされるのは、3人の友人たちが、誰一人としてヨブの立場に立とうとせず、その言葉を受け止めようともせず、自分の言いたいことをいい、ヨブを責め続けた、ということです。

まるで警察の尋問にでもあっているかのように、罪をかくしているのだろう。神は正しいお方なのだと、責め続ける言葉は、聞くに堪えません。

そういうことができるのは、自分は神の御心がわかっていると、自分を神の立場に置くからです。3人の友人たちは、それぞれに自分を神の立場において、ヨブを責め続けたのでした。
しかし、結局友人3人が責め続けても、ヨブは自分は正しいと言い続ける。
そのヨブと3人のやりとりを、そばでじっと聞いていた若者がいたのです。

それが先ほど読んだ聖書の箇所に登場する、エリフです。


エリフは怒っています。ヨブがあくまで自分は正しいと主張するし、3人の友人たちも、ヨブの罪をちゃんと指摘できなかったと、怒っているのです。

ヨブの3人の友人たちに対しても辛辣な批判をしています。
6節
「わたしは若く、あなたたちは年をとっておられる。・・・」
9節
「日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になればふさわしい分別ができるのでもない。」

人生経験が長いからと言って、賢くなるのではないという言葉は、かなり辛辣です。
そういうことをいえる根拠は、なんなのか。人生経験をこえて、人に知恵を与える者とは何なのか。

それをエリフは8節でこう言います。

「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」と

この言葉はとても重要な言葉です。「息吹」という言い方は、神の霊の働きを指して言っているのだと思いますが、そういう神の側からの語りかけによらなければ、神について人は知ることが出来ないと、エリフは言います。

 人間の人生経験、さまざまな体験、思考、哲学を積み重ねても、そういうことでは神を知ることは出来ないのだ。神を知るためには、神のほうから、ご自分のことを、教えて下さらなければ、わからない。

 人を知る、ということにも言えることですが、その人が自分のことを話してくれなければ、その人のことを知ることはできません。人間でさえそうなら、ましてや、神について知るということは、神様ご自身が、わたしはこういうものだと、語って下さらなければ、わかりようがない。

ヨブの3人の友人たちは、ある意味、自分たちの知識、長い人生の経験から、神とはこういうお方なのだと、語っていた。自分の経験のなかで、知識の中で、神とは、こういうお方なのだと言っていたわけです。

しかし、人間がいくら長い人生経験を経たとしても、知恵や知識を得たとしても、神を知るということは、それとはまったく違うのだ。神を知るということは、神の霊。全能者の息吹によって、知るのだといった、エリフの言葉は真理です。

逆を言えば、たとえ年が若くても、知識がなくても、聖書のことをあまり知らない、神学を知らないとしても、神の霊の働きによって、全能者の息吹によって、神のことを、神の心を悟ることが出来る。

この信仰があるから、わたしのような未熟な牧師でも、こうして講壇に立って、神様について語ることが出来るのです。

エリフは、21節で「人間にへつらうことはしたくない。」と言っていますが、年齢や人生経験が長い人であろうと、気を使うことなく、へつらうことなく、自分に神様が示された言葉を、語らないではいられないのだというエリフの言葉は、とても大切なことを語っていると思います。

このエリフという人は、このあと37章までずっと語り続け、38章で主なる神が、ヨブに語り始める流れになります。

つまりこのエリフの言葉に、ヨブは反論をしないまま、次に、神ご自身が語り始める流れになっています。

そういう意味で、このエリフは前の3人の友人たちとは少し違った立場のように見えます。

神様から言葉を聞いて、語る預言者のような立場に、このエリフは立っているようにも思えます。

実は、この次の33章で、エリフはまるで預言者のような言葉をヨブに語っているのです。

33章23節
「千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために、使わされる御使いがあり、
彼を憐れんで
「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけてきました」と言ってくれるなら、

彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになり、
再び若い時のようになるであろう。
神は彼に祈って受け入れられ、
喜びの叫びのうちに御顔を仰ぎ、
再び神はこの人を正しいと認められるであろう。

これはヨブを責める言葉ではありません。救いの言葉です。こんな言葉が、エリフの口から溢れてきます。
さらに、つづけてエリフは、こんな言葉を語ります。

「彼は人々の前で讃えて歌うであろう。
『わたしは罪を犯し、正しいことを曲げた。
それはわたしのなすべきことではなかった。
しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。
わたしは命を得て光を仰ぐ』と
まことに神はこのようになさる。
人間のために、二度でも三度でも。
その魂を滅亡から呼び戻し、
命の光に輝かせてくださる。」

これはまさに、神の救い。福音の言葉です。
そんな言葉が、エリフの口から不意に飛び出してくる。不思議です。
神の霊によって、全能者の息吹によって、エリフは語らせられているのでしょう。

新約聖書のなかの、使徒パウロがかいたコリントの信徒への手紙のなかで、パウロはこういうことを言いました。

「人のうちにある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知るものはいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられているものを知るようになったのです」(1コリント2:11ー12)

実は、わたしたちも、神の霊を受けている。だからこそ、神様から恵みとして与えられているものが、なんであるかを知ることが出来るのだ、とパウロは言います。

その恵みとして与えられているものとは、なんなのか。

パウロはその少し前の箇所で、こう言いました。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1:18)と。

主イエスが十字架につけられ殺されてしまうという、人の目からみれば、絶望でしかない、あの出来事。

十字架につけられたイエスさまが、「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた、あの絶望の言葉も、人間のまなざし、価値観から見れば、

敗北の叫びであり、神にさえ、見捨てられてしまったという、絶望の叫びでしかないでしょう。

十字架とは、当時の死刑の道具なのです。人間の醜さ、残酷さのきわみ、ある意味シンボルが、この死刑道具の十字架。

この礼拝堂の正面に、大きく掲げられている十字架。わたしたちは死刑の道具を、今に至るまで飾り続けているのです。

本当なら、そんなものは見たくもないし、できれば記憶から消し去りたいものであるはずなのに、わたしたちはそうしません。むしろ、この十字架を忘れないようにと、掲げ続ける。

それは、人間の目からみれば、愚かなことなのです。

しかし、神の霊を受けて、心の目が開いた人には、この十字架につけられたキリストこそが、わたしたちを救う、神の力であり、めぐみであることがわかるのです。

ヨブの人生に起こった出来事の意味も、ヨブがいくら自分の頭で考え、自分の人生経験を通して、その意味をとらえようとしても、わからない。

自分の頭で考えれば考えるほど、ヨブはどんどん混乱し、落ち込んでいくのです。

苦難の意味を、人間がいくら考えてみたところで、人間には決してわからない。

そこにある神の御心は、神にしかわからない。

だれも、神のかわりになって、答えることはできない。自分の人生経験とか、哲学で、わかったようなことを言ってはいけない。ヨブの3人の友人たちがしたように。

人間はいくら考えても、わからない。あの主イエスの十字架の死は、いったいなんだったのか、あの苦難に何の意味があったのかを、弟子たちは決して自分の知識や経験から、知ることはできなかったはず。

しかし、神様は、神の霊によって、霊の息吹を、人の中に吹き込んで、

人間の知恵、人間の経験では決して理解できない、神の知恵を、悟らせてくださるのです。

エリフが、「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」といったように、わたしたちの霊に、神様の霊が働き、神の御心を、悟らせてくださる。

自分の人生に起こった苦しみの意味を、試練の意味を、

主イエスのうえに起こった、あの十字架の意味を、

わたしたちに、悟らせてくださるのは、人ではなく、神さまご自身。神の霊の働き。

主イエスは、当時の奴隷がするようなことを、なさったとき、

ご自分の弟子たちひとりひとりの足を、洗ってあげる、ということをなさったとき、

何でそんなことをなさるのか、わからないと驚く弟子たちに、いわれました。

「今はわからなくても、やがてわかる日が来ると」

神がどれほどあなたたちを愛しているのか。

今はわからなくても、やがてわかる日が来る。悟る日が来ると。

ヨブの試練の意味も、やがて神様ご自身によって、明らかにされる。

だから、今はわからなくて、苦しくても、辛くても、

やがて神様がわからせてくださる日がくることを信じたい。

エリフが神の霊によって、語ったように、

わたしたちの信じる神様は、

「人間のために、二度でも三度でも、その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせてくださる。」お方であること、信じて。