受け身であること

今、毎週の朝の礼拝でのメッセージでは、ルカの福音書を順番に読みすすんでメッセージをしています。
夜の礼拝では、聖書教育のカリキュラムにそって、聖書を読んでいます。
それは、まず、毎週毎週、「メッセージの聖書個所を選ばなくて楽」ということが、もっとも大きい理由です。
毎週、毎週、聖書個所を選んでメッセージなさる方を、わたしは尊敬します。わたしにはそんな能力はないのです。たぶん3回くらいで、行き詰るでしょう。
それからもう一つ、理由があります。
自分で聖書個所を選ばなくていい、ということは、
自分では選べない、ということであり、
語るものが、御言葉に対して受け身にならざるを得なくなる、ということです。
これはとても大切なことだと思っていて、
もし、メッセージを語るものが、自分自身も受け身であることをしなくなってしまうとき、
そこで語られることばは、ただその人が言いたいこと、自己主張に堕ちてしまいやすいからです。
礼拝
それは、聖霊によって語らせられる福音のメッセージを
語るものも聞く者も、すべてのものが受け身になって聴く現場なのです。