「もう呪わない」(2017年8月13日 花小金井キリスト教会夕礼拝メッセージ)創世記8:1-22

 先週に引き続き、ノアの箱船の物語を読んでいます。
先週は、6章を読みました。ノアの時代に、人間の悪が地に満ちて、「常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になった神さまが、人間を造ったことを後悔して、心を痛められ、ノアの家族と、あらゆる動物の一つがいずつを箱船に乗せるまでの箇所でした。

今日は8章を読みましたけれども、7章にはいよいよ、ノアが600歳の時に、洪水が起こる。雨が40日40夜、地上に降り続いたとあります。

40という数は、聖書の中でよく見かけます。イスラエルは、エジプトの奴隷から解放されたあと、荒野を40年旅をしましたし、主イエスも、公の生涯に入る前に、荒れ野で40日の間、断食をして、悪魔の誘惑を受けたという、出来事がありました。

たまたまかもしれませんけれども、40日とか40年という数字のときには、なにか試練の期間を示すことが多いのかもしれません。

このノアの時代の洪水も、ある意味、試練であり、裁きであったと思うと、その救いのプロセスとして、40日40夜という日数が、象徴していることがあるのかもしれません。

 ある牧師さんが面白いことを言っていて、その人は毛虫が嫌いなんですけれども、このノアの箱船には、きっと毛虫もいたんじゃないかというわけです。
 今日の朝の教会学校の時間には、ある人がここを読んで、この箱船に乗った動物の中には、「蛇もいたんですかね」っていわれて、面白いなと思いました。

自分が好きな動物だけが、箱船に乗ったわけじゃないということですね。また、蛇は聖書では、アダムとエバを誘惑した、悪い動物のイメージがありますけれども、きっと蛇も乗せたでしょう。好きとか嫌いとか、清いとか清くないとか、そういう線引きをこえて、神さまが創造したすべてのいのちが、この箱船に載せられて、40日40夜という、救いに至る試練の船旅を、共にした。

わたしも昆虫系はだめなんですけれども、でも、昆虫も神さまが目的をもって造られている。神さまにしか分からない計画が、すべてのいのちにはある。そのいのちが、狭い箱船という空間で寄り添い、共に生き抜いて、救われていくというプロセスは、とても現代的なテーマじゃないですかね。

この地上という小さな箱船に共に生きる生き物全体の救い。被造物の救いが、聖書の救済、救いとなっている。

そういう気づきも、このノアの箱船の救いの出来事から頂きます。


いずれにしろ、この洪水の出来事は、裁きや滅びのメッセージではなくて、むしろ世界を救う神の救いがテーマだということは、ちゃんと押さえておきたいわけです。

試練は、救いに至る大切なプロセス。その40日40夜。

そのイメージをもちながら、今日の8章を読み進めみます。


1節で、「神は、ノアと彼と共に箱船にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので・・」

神さまは、ノアと動物たちを、御心に留めた。
この表現が、心に響きます。

御心に留める。神に覚えられている。これこそ「救い」の本質ですね。

目に見える現象でいえば、洪水に飲み込まれないことが「救い」。

でも、その目に見える「救い」は、すでに、目に見えない神が、御心に留めてくださっていることが、やがて実現したということにすぎない、ともいえる。
「救い」は、神に覚えられたときに、もう決まっている。救われている

ノアは、雨が降り止んだあとに、本当に自分たちが本当に救われたのか、何日も何日も待ち続けて、山の頂が見え始めてからも、なお40日経ってから、箱船の窓を開いて、まずはカラスを放ち、次に鳩を放ち、また、何日もまって、何度も鳩をはなって、いわゆる救いの確認をするわけです。

ノアたちは、やがて救われるけれども、それがはっきりとあらわれるまでは、忍耐して待ちつづけるプロセスがあった、ということでしょう。じたばたしても仕方がない。待つしかないという時間。

船に乗っているということは、ある意味逃げたくても逃げられないということですから。揺れるに任せて、委ねて待つしかないということです。

何年か前、私の実家の佐渡島にフェリーで渡った時、台風の過ぎ去ったあと、欠航していた船が、解除された最初の便だったので、まだ風も強く、実に船が揺れたのです。

それは恐ろしいほど揺れました。私は思ったのです。ああ、なんでこの船に乗ってしまったのか。ここで死んでしまうのかと。

地に足がついているのなら、逃げ出すことも出来る。しかし、船に乗ってしまったら、もうじたばたしてもどうしようもない。降りたくても降りれない。委ねるしかないというのは、こういうことかと、本当に実感させられたわけです。

船が転覆するわけはない。大丈夫。救われると信じているけれども、本当に船が港に着くまでは、この大揺れのなかで、必死に祈るしかないプロセスを、通らされる。

子どもたちが必死にお祈りしていたのが印象的でした。結局、無事に佐渡島に着いたのですけれども、長女はその経験をきっかけに、イエスさまを信じてバプテスマを受けると言い出したことは、不思議なことでした。

ノアが何度目かに放った鳩が、オリーブの枝をくわえて戻ってきたのは、印象的です。

オリーブは生命力が強くて、荒れ地でも繁るのでしょうけれども、洪水が引いた最初に繁ったのもオリーブだったということなんでしょうか。

また、朝の教会学校で聞いたお話で恐縮ですが、ある方が、昨日、この聖書の箇所を読んでいて、鳩がオリーブの枝を加えて帰ってきた箇所を読んで、ご自宅に植えてあるオリーブを見ながら、「後は鳩がいればいいな」と考えていたのだそうです。

そうしたら、その日鎌倉に用事で出かけていた、ご子息がお土産に、「鳩サブレー」を買って帰ってきたのだそうです。たまたまとはいえ、不思議なことがあるものです。


脱線しました。

さて、地面が乾いて、箱船から出たノアたちが最初にしたことは、礼拝でした。
主のために、祭壇を築き、せっかく箱船に乗せて救った動物だったけれども、その中から焼き尽くす捧げ物を祭壇に捧げた。

救われたノアが、最初にしたことが、主への感謝の礼拝を捧げることだった、ということはとても印象深いことです。

ノアを神さまが選ばれたわけも、ここにあったのかもしれません。
そもそも、ノアについて聖書は、6章9節で、
「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」と言われています。
ノアが選ばれている理由は、彼の良い行いではなく、神に従う無垢な人であることでした。

「無垢な者」と訳されている言葉は、ほかの箇所では、「全ったき者」と訳されています。

「無垢な者」と「全ったき者」ではずいぶん印象が違いますけれども、それはノアの性格とか、資質とか才能のことではなくて、「神との関係」について、「無垢」とか「全ったき」ということをいっているのでしょう。

神さまの心と、ノアの心が、まっすぐに繋がっているイメージが、「無垢」とか「まったき」という言葉を通して、わたしは受け止めます。

その神さまとノアとの、まっすぐなつながり、関係が、この洪水の後に最初に「礼拝」をした、という姿にもあらわれていると思うのです。

大切な動物を、焼き尽くす捧げ物として、神さまに捧げる、礼拝。

神さまは、別に食べ物に困っているわけではない。焼いた動物を食べるわけではない。

そうではなく、大切なものを捧げずにはいられない、神を愛する心を、神さまは喜び受け取られるのでしょう。

救われた喜びと感謝。神さまへの愛を、自分の大切なものを捧げて、神さまに現していく。

礼拝とは神さまに愛を現す、最高の現場。

ノアにとって、礼拝は、しなければならないお勤めであるわけがなく、救いの喜びと感謝を、神さまに現すにはいられない、したくてしょうがないことだった。礼拝の本質は、ここにあります。

わたしたちにとっても、「礼拝」が活き活きと、刷新されていくのは、神さまの救いが、過去のことではなくて、日々、神さまはわたしを救い続けてくださっていること、助けてくださり、導いてくださることを、心の目が開かれて、日々体験していく、そんな主と共に歩む日常からこそ、日曜日の礼拝に、自分の大切なものを捧げるために、感謝を携えて、礼拝にやってこられでしょう。

日々の出会いと出来事の中に、神さまの恵み、祝福を感じ取って、いつも感謝を捧げるそんな感性が、研ぎ澄まされてたいものだと思います。



少し話が広がりました。そろそろお話を終えたいと思います。

ノアが捧げた犠牲は、主へのなだめの香りといわれました。

「なだめ」とは、怒りをなだめるという、「なだめ」です。そもそも、この洪水が引き起こされたきっかけが、人間が悪いことばかりを考えるようになった。そういう人間の堕落に対して、神さまが怒られて引き起こされた洪水であった、ということとも、関連するのでしょう。

その神のいかりが、ノアの捧げ物から香る、なだめの香りによって、なだめられる。

その意味で、ノアが捧げた礼拝は、ある意味、この世界を救うことになっていくのです。

神さまは、このなだめの香りをかがれて、言われます。

「ひとに対して大地を呪うことはもう二度とすまい。人が心に思うことは幼い時から悪いのだ。わたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」と。

これは驚くべき言葉です。人が悪いものであるにもかかわらず、もうその理由で呪ったり裁いたり、打ったりしないと、神さまは約束してくださったのですから。


ある意味、ノアの礼拝、捧げ物が、この神さまの恵みの約束を引き出したようにも見えます。

なだめの香りといえば、新約聖書の中で、使徒パウロは、キリストに関して、こういうことを言いました。

エフェソ5章1節
「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。キリストが私たちを愛して、ご自分を香りの良い供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に捧げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」

パウロは、キリストの愛に生き抜いた人生、十字架の犠牲の死を、神への「香りの良い供え物」と表現します。そしてわたしたちもキリストに従って愛に生きていく、香りのよい供え物を、捧げようではないか、というのです。

ノアが、洪水から救われた、その最初に神さまを礼拝して、感謝のささげものをしたことと、
主イエスご自身が、ご自分を良い香りの捧げ物となさったことで、人は裁きから救われた。

そして、救われたわたしたちが、その生き方、愛、ささげものをもって、神さまへの良い香りを放っていく人生を生きる。

もう呪うことも、滅ぼすこともない。
ノアに与えられた最初の約束、神との契約は、やがて主イエスキリストにおいて、新しい神さまとの約束、契約となりました。

だから、もう、大丈夫。神の御心に覚えられているから、やがて救いは完成します。

わたしたちと、すべての動物、蛇も毛虫も乗った、救いの船は、ちゃんと向こう岸に到着する。

その救いのプロセスを、待ち望みながら、時々、鳩を飛ばして、オリーブを取ってこらせるようにして、

教会でみ言葉を聞いて、救いの証を聞いて、ああ神さまは、ちゃんと働いてくださっているんだなと、励まされて、

希望を抱いて、新しい一週間へと、歩み出していきましょう。