28日の夕礼拝メッセージ

1ペトロ4:1〜11
「愛は罪を覆う」

 わたしも気がついてみれば49歳。若く見られますけれども、立派な中年ですから、同年代の人と話す話が、健康話ばかりになってきます。50近くなれば、だれもで、体のどこかになにか抱えながら、肉体の弱さとか限界を感じながら、生かされていくものでしょう。


 でも、体の限界は、もちろん、年が若くても、風邪をひいたり、お腹が痛かったり、怪我をしたり。そういう時に、あらためて気が付くものでしょう。その時だけ、急に体が弱くなったわけではなくて、もともと人間の肉体、地上の命は、永遠ではなく、限界があるもの。

その当たり前のことに、気がつかしてくれる、という意味でいうなら、病気は恵みなのでしょう。

 でも、できれば、神さまがこの世界を、苦しみも病もない、完全な世界として、はじめから天の国、神の国としておいてくれればよかったのではないか。なぜ、神さまはこの世界を不完全に、悪や苦しみがある状態で創造なさったのだろう。

 よくある説明は、アダムとエヴァが罪を犯したからという、原罪論なんですけど、でも、それを言うなら、神は、アダムとエヴァが罪を犯さないように、なさらなかったのはなぜ、という問いが出てきます。

 アウグスティヌスという古代の神学者は、神は悪や苦しみがおこらないようになさるより、そのような悪や苦しみからさえ、良いものが生まれることを願われた、ということを言ったと聞きます。

 この世界の苦しみの、その理由のすべては、わたしたちにはわからないけれども、

でも、一つ言えることは、最初から完全な天に、なんの悩みも悲しみも苦しみもない天に、最初から生かされたなら、

 神を求め、永遠の求め、愛と平和を求める思いとか、願いとか、そういうプロセスはなかったということです。神を求める歴史がない。神様を求めるうえ渇きも、やっと神様に出会い、神と共に生きる喜びの深みを味わうプロセスもない。

 そういう意味で、神様はあえて不完全なこの世界、苦しみや悲しみのある、この地に私たちを創造なさって、その地から完全なる天へといたる、壮大な救いの歴史、喜びと感動の、神の壮大な、救いの物語を、はじめられたんじゃないですか。

その物語の最初にイスラエルを選ばれることで・・・・

 そのように考えるなら、わたしたちが経験する苦しみとか、肉体の限界とか、死ぬこととか、不条理とか、そういうことのとらえ方も、変わってくるのではないですか。

十字架の苦しみは、復活の喜びにいたる、プロセスであったように。

 今の苦しみも限界も、悩みも、それは、新しい喜びへと至る、プロセスなのだ。

 肉体をもつわたしたちの限界、苦しみも、まさに神様が、イエスという限界ある肉体をとられて、その苦しみを経験され、そのうえで、復活という、計り知れない喜びがあることを、希望を、示してくださったわけですから。

 昨日も教会のある兄弟のお宅をお訪ねしました。病を負うもの。そのそばで寄り添い共に生きるもの。どちらも、十字架を背負って歩む歩みです。

 しかし、苦しみは永遠ではない。主イエスの十字架の苦しみも、永遠ではなかった。十字架で死なれていたのは足掛け三日。主イエスはそこから復活させられ、今も永遠に生きておられます。

 わたしたちの苦しみも、十字架も、永遠ではありません。苦しみは過ぎ去り、喜びが訪れる。

そのことを覚えて、心の準備、心の武装をしましょう。それが、今日の最初のみ言葉でした

4章1節
「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」

 十字架に至るプロセスで、肉体に苦しみを受けた主イエス。肉体の限界を味わったキリスト。わたしたちにとっても、肉体の苦しみがあるからこそ、命の限界に目覚めるし、むなしい罪とのかかわりから離れるようになる。

4:2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。

そう、わたしたちがこの限界ある肉体をもって生きていく、その残りの生涯。どう生きますか、と問われているのです。

野口悠紀雄という経済学者のなにかの本のなかに、彼の机に、一時間を80年に見立てた時計を、いつも机の見えるところに置いているそうです。

地上の時間が80年だとして、自分はもう70歳を過ぎているから、80年を一時間だとすれば、もう53分になった。あと7分だというわけです。それを見るたびに、時間を大切にしようと思うのだそうです。

わたしは49歳ですから、30数分。あと20分ちょっと。まあ、本当は明日の命もわからないわけですけれども、いずれにしろ、時間が限られているという、当然のことを意識するだけで、今のひと時の意味が、価値が、変わって見えてくるじゃないですか。

人間の欲望。むなしいことで、その大切な時間を使うのではなく、永遠の価値をもつ、神の御心のために、福音を分かち合うために、使いませんかという、話なんです。


4:7
「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」

万物の終わり。この世界は始まりがあって、終わりがくる。その終わりとは、破壊ではなく完成。滅びではなく、救い。

この地上の歴史は、神が始め、神が導き、神様が救い、神によって完成する。完全な天と、この地は、一つになる。

それが黙示録の最後にある、新天新地。そこにわたしたちは、新しい体で復活する。

 そこに至る、救いのストーリー。歴史の一部を、いま、わたしたちは生きています。

物語には終わりがあるので、感動もある。

この世界は、ネバーエンディングストーリーじゃない。エンディングはあるんです。輪廻のようにぐるぐると回り続けることもない。

そんな終わりのない物語は、退屈でつまらない。飽きるでしょう。

こどもは絵本が大好き。物語が大好き。実は、大人も大好き。それは神さまがそのように、人を造られたからなのかもしれません。

 今、わたしたちは、神の救いの物語を、生きているのだから。その物語の中で、わたしたち一人ひとりが、違った、そして大切な、役を任されているのだから。

 先日も、ある兄弟と、ゆっくり時間をとって、マンツーマンで、彼の人生の話を聞かせてもらって、感動しました。決して順風満帆(じゅんぷうまんぱん) とはいえない人生。沢山の傷を、苦しみを経験するなかで、時々に、不思議な出会いがあり、そのときには気が付かなかったけれども、その出会いがなければ、できごとがなければ、どうなっていただろうという、小さな救いを、なんども経験しながら、今に至っている、1人の人の人生の物語。歴史。その話を聞きながら、神が働いている救いの歴史の一つを、その人の中に見させていただき、感動でした。


わたしたちの一人ひとりの人生、それぞれに、神の救いの物語の大切な一つ。脚本は天の父。演技の指導は、聖霊です。わたしたち一人ひとりが神の救いの物語の主役。

え、主役はイエスさまじゃないか。私は、わたしたちは、単なる脇役。

いやちがう。なぜなら、今、イエスさまは、私たちの内におられるのだから。教会はキリストの体なのだから。わたしたち、1人1人は、神の聖霊の宿る、神殿なのだから。

エスさまの心と一つになるとき、私たちは、神さまの物語の真ん中を生きる、大切な存在となっている。

 役者が台本を無視して、自分がやりたいようにやったら、神の物語になりませんね。


4:3 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
4:4 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。

今、自分がどれほど素晴らしい物語の、その大切な配役を任され、期待されているかに気づいたら、
自分の生き方、生活を、神の御心に、聖霊の導きに、心から従わせて生きていきたい、と思うものです。

むなしく、過ぎ去ってしまう、目の前の欲望に、大切な時間を使いたくなくなるものです。


その生き方、生活を、端的に、一言でいえば、


4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。

 ということです。

 神さまの救いの物語。喜びへといたる感動の物語。それは、

 わたしは正義の味方。清い人間。救われた人間。でもあの人は、罪人で、汚れている。悪にやられている。サタンにやられている。

そんな悪を、わたしたち正しい者、救われたものが、攻撃し、滅ぼしつくす

そんな善悪二元論の物語じゃないんです。正義が悪をやっつけるという、そういう物語ではない。

そうではなく、その悪を、罪からくる苦しみを、ご自分の身に受け、罪のない、まったくの正しく、正義の方が、苦しまれるという、「愛」によって、「罪を覆ってしまう」。罪人を責め、滅ぼす物語ではなく、罪人のために、ご自分が苦しみ、その罪を覆っていくという、神の救いの物語。


 この神の救いの物語のタイトルは、ずはり「愛は罪を覆う」ですよ。



 それは他人ごとではなく、私たち一人一人の中に、罪も汚れもあるわけだから。そのような醜いものを、いい加減なところを、愛のなさ、罪深さを、イエスさまは、ご自分の体をもって、覆ってくださった。裁かれ、滅びないようにと、覆ってくださった。

ご自分の肉体を犠牲にして。


 だからわたしたちは、今、このありのままで、あの人も、この人も、何一つ、神さまから責められることなく、神に愛される子とされている。これがまぎれもなく福音。神の救いの物語。「愛は罪を覆う」です。



 わたしたちは、この神の救いの物語の感動を、イエスさまと一つになって、伝えていく、1人ひとりが大切なアクター。主役。

罪はイエスさまによって、覆われたから、大丈夫なんだよ。神はあなたを本当に愛しているのだから。

苦しみ、悲しみは、まだ目の前にあるけれども、神は今も生きて働いて、この救いの物語を完成させるのだから。ちゃんと喜びのハッピーエンドがくるのだからと、主役として、言葉を語り続けましょう。生きていきましょう。

身近な人との間で、今週も、福音の物語を、生きていきましょう。


4:9 不平を言わずにもてなし合いなさい。

4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。


神さまから頂いている賜物があるからこそ、その与えられた役割を生きることもできます。

人と比べて、なにができる、できないと、いう必要は、ありません。
最大の賜物、イエスさまご自身を、わたしたちは頂いているのだから。

わたしたちの中にイエスさまがおられるのだから、もう、恐れることはないんです。

どんなに小さいことでも、どんなことでも、わたしたちを通して、イエス様が働いてくださるのだから。

逆をいえば、イエスさまが働いてくださらなければ、わたしたちが何をしようと、どんなにりっぱな働きをしようと、

神の救いの物語には、なんの意味もないのだから。

 わたしたちは、神さまの愛と救いの物語の主役です。みんな主役。脇役はなし。いてもいなくてもいい人はない。だから、自分の人生の主役をちゃんといきていきましょう。

12節

「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。」

そう、すべての栄光は、この永遠なる感動の物語を、与えてくださったお方。

神の栄光を、わたしたちがほめたたえるためなのです。