「祝福された者」(2017年1月8日花小金井キリスト教会夕礼拝)

マタイによる福音書5章1節〜12節

 今年最初の夕礼拝です。今年も小さくても温かな礼拝を捧げていきたいと願っています。よろしくお願いします。

 さて、聖書教育の聖書箇所から、夕礼拝もメッセージを取り次いでいますけれども、今日は、マタイの福音書の有名な、「山上の説教」から、冒頭の「8つの幸い」の教えが、今日読むべき箇所になっています。

 ここでは「幸いである」という言葉が、8つ続いています。しかし、よく言われることですけれども、これがいったい「幸いか」といいたくなる言葉が続くのが、この「8つの幸い」でもあるわけです。

 心の貧しい人々、悲しむ人々。それが幸いだという。それはないんじゃないかと、わたしたちの常識にチャレンジしてくる言葉が続く、この「8つの幸い」。

 そうやって、わたしたちの思い描く「幸い」は、本当に「幸い」なのかと、問いかけてくる言葉の数々。当然、まっすぐに素直に、納得できるものではないわけです。

 ただ、それは「言葉」の問題。「訳し方」の問題もあるわけです。「幸い」と訳されますけれども、英語に訳すなら、これは「ハッピー」と訳すのではなく、「ブレッシング」なのですね。つまり、神の祝福です。

 ああ、なんと神に祝福されているのか、心の貧しい人々は、と訳したほうが、原文のニュアンスに近い。自分の思い通りになって、「ハッピー」という話ではないわけです。

そうではなく、神に祝福されているといわれている。釜が崎で、ホームレスの人々と共に生きている、本田神父は、この「幸い」を、「神の力が注がれている」と訳しました。

具体的なイメージが湧く訳だと思います。

 今日は、時間が限られていますので、一つ目の「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉だけを取り上げたいと思います。

 そもそも、「心が貧しい」という言い方を、普段わたしたちはしないでしょう。どうですか。

 「心が貧しい」という言葉を聞いて、どういう状態をイメージするでしょう。心が狭い。思いやりがないという、そういう意味でしょうか。

 聖書のほかの翻訳では、「心の貧しさを知る、謙遜な人は、幸いです」となっていて、心の貧しさとは、謙遜である表現している聖書もあります。

 ですから、「心が貧しい」という言葉で、わたしたちがイメージするようなネガティブなイメージというよりも、むしろ神さまとの関係で、謙遜である人。

自分自身の力に頼れないことを知り、神に寄り頼む。そういうイメージがこの「心の貧しい人」という表現に込められているのでしょう。

詩編86編を読むと、神さまのまえに、心貧しい人のイメージが、具体的に記されています。少し読んでみましょう。

86:1 【祈り。ダビデの詩。】主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。

86:2 わたしの魂をお守りください/わたしはあなたの慈しみに生きる者。あなたの僕をお救いください/あなたはわたしの神/わたしはあなたに依り頼む者。

86:3 主よ、憐れんでください/絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。

86:4 あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは/主よ、あなたなのです。




「わたしは貧しく、身をかがめています」。ここには、自分を誇るプライドはありません。

しかし、とはいっても、自分はだめなんですと、自己卑下をしているわけでもない。そうではなく、心低く、神の憐れみを求めている。

「自分はだめなのだ」と自己否定するのは、心低いくされているのではなく、むしろ「プライド高い自分」が、「自分はだめだ」と自分自身を責めているわけですから。

自己評価が低い。自分には価値がないと思う。自分には何もいいものがないと思う。それは、「心が貧しい」ということではなく、むしろ「心がプライドで肥え太っている」から、自分を否定し、自分だけじゃなくて、他人のことも「あなたもだめだ」と否定しているのです。

そういうプライドから、解放されて、自由になって初めて、神さまの恵み、憐れみを心から求めるようになれるでしょう。

コップに水がいっぱいはいっていたら、もうなにも入らない。神さまが注いでくださる、心のエネルギー、力、喜び、愛、希望。そういう命の水は、コップが空っぽでなければ、十分に入らない。

心が貧しいとは、言い換えるなら、心のコップが空っぽの人。そのコップにフレッシュな命、神のくださる力と恵みを、いっぱいに満たしたいと、心が飢え乾いている人。

それはなんと幸いなことか。神の祝福であろうか。なぜなら、神の国はその人たちのものであるのだから、と主イエスは言われます。

小さな幼子を抱き上げて、神の国はこの幼子のようなものの国であると、主イエスは言われたことがあります。

神の国とは不思議なもので、地峡における、弱さとか無力さのなかにこそ、鮮やかに現れるものなのだと主イエスはいわれます。

コップが自分のプライド、自己満足によって、満たされてしまうのではなく、空っぽのコップだからこそ、そういう心の貧しさこそが、神の命、神の力、神の愛が、豊かにそこに注がれる。

パウロは、おそらく自分の持病に苦しんでいる中で、神さまに祈り続け、その祈りの中で神さまから「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という声を聞いたのでした。

それを聞いたパウロは、「だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」といい、「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言ったのでした。

 ここに「心の貧しい」人こそが味わうことのできる、神の祝福。神の国の喜びがあります。



 去年の暮れのクリスマス前の木曜日に、わたしは高熱が出て、病院にいったら、インフルエンザと診断されたのです。

正直言って、それだけは避けたかった。クリスマスイブの礼拝、クリスマス礼拝。そしてバプテスマ式もある。そのために祈って準備してきたのに、ただの風邪ならなんとかだましだましできても、インフルエンザにかかっているのに、だましだまし皆さんの前に出て行ったら、うつしてしまって多大な迷惑をかけるでしょう。

だから、すべてを放棄して、お任せするしかなかった。メッセージだけは原稿をつくって、代読していただいたのですけれども、今思えば、メッセージも含めて、すべてお任せしてしまってもよかったなと、思っています。

土曜日のイブ礼拝、そして日曜日のクリスマス礼拝。遠くから響いてくる賛美歌を聴きながら、なにもできずに、ただ横たわっている経験は、あらためてこの「心の貧しい人」の幸いを感じるひとときでもあったからです。

ある意味、強制的に「心の貧しい人」状態に置かれた。「自分が頑張らないと」、「自分がなんとかしない」という、自分の思いやプライドという濁った水で、自分の心のコップがいっぱいになっていた、その心のコップが、強制的にひっくり返されてしまった。

心のコップを満たしていた、自分のプライドという水が、流れ出てしまった。

それは実に寂しさと、存在の不安を感じさせられる出来事。それは、心の平安を与えていた、プライドという心のコップの水が流れ出てしまったのだから、当然でしょう。

しかし、そんな濁った水がコップから流れ出て、空になったからこそ、あらためてゆっくり心を落ち着けて、

神さまのみ言葉という命を水を求め、神の憐れみ、愛、恵みという水を求め、その命の水によって、心のコップを満たそうとするのです。

 一番忙しいクリスマスの時期。「自分が頑張らなければ」「やらなければ」という思いから解放され、ベットの上でゆっくりと詩編を味わい、祈り、神によって心の渇きを満たすひとときは、代えがたい時間でした。

わたしにとって、「心貧しくされる」この経験は、神さまからのクリスマスプレゼントだと思っています。

主イエスも、この地上にお生まれになった時、何一つできない無力な赤ちゃんとして、ただ神と人とに寄り頼む、「心の貧しい人」としてお生まれになったことを思い起こします。

「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである」

「天の国」「神の国」と言われても、目には見えません。ここにある、あそこにあると言えるようなものでもありません。

しかし、確かに神の国はすぐ近くにある。神の国に取り囲まれている。そのことに気づくことができるのは、「心の貧しい人々」

 自分のプライド、偏見、思い込みという、心の目をふさぐ汚れたコップの水を捨てた、「心貧しい人」になって、心の目がよく見えるようになるなら、神の国は、遠くにではなく、すでにそこにあることが、信じられるようになるのではないでしょうか。


 去年の暮、カトリックのシスターで、ノートルダム女学院院長だった、渡辺和子さんが、天に召されていきました。
渡辺さんの書いた本は、たくさんの方を励ましました。彼女が書いた本の中で、「目に見えないけど大切なもの」という本があって、そこに書かれているこのエピソードが、わたしは好きなのです。こんな話です。

「東北地方を旅をしていたときのことでした。その日はあいにく雨がひどく降っていて、周囲の景色は何も見えません。
バスのガイドさんは、さも残念そうに、「晴れていれば、このあたりには美しい湖(みずうみ)がごらんいただけるのですが、今日はおあいにくさまです」と謝るのでした。
 観光客の誰しもが残念がりながらも、そうかといって「いいや、見えていない湖があるはずがない」と抗議した人は一人もいませんでした。
 信じるということは、案外こういうことなのかもしれません。到底ありそうにない湖の存在を、ガイドさんの言葉ゆえに「ある」と信じて疑わない、ということです。

同じことが、神の存在についてもいえるのではないでしょうか。「世の中」というバスに、今日も乗り込んでいる私たちに、イエスさまがバスガイドになって、「今日は目に見えませんが、神様は確かにいらっしゃいます。その方は私たち一人ひとりを限りなく愛していてくださる優しい父なのです」と、説明してくださっているのです。

 時には、「あなたが今経験していることは、父なる神のみ業とは到底思えない、理不尽で苦しいことかもしれませんが、信じてください。私が保証します」と、バスガイドさんはすまなそうにおっしゃることもあります。しかし、私たちは、イエスさまという、バスガイドさんの、その誠実さを知るがゆえに、その言葉を信じて、生きる勇気を頂くのです。

 目に見えない湖など、あるわけがないと言い張るのではなく、ガイド役のイエス様が言われるのだから、イエス様は、誠実な方、真実な方なのだから、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださるほど、わたしたちを愛してくださっているお方なのだから。そのお方が言われるのだから、信じますと、人生というバスの旅を、神とともに歩んでいく。

目に見えない天の国、神の国を、小さなことの中に、弱さの中に、見つけて喜んで生きる。

そんな「心の貧しい人」は幸いです。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」