「いま、ここに」(4月23日週報巻頭言)

 私たちは過去の出来事や、未来に起こるかもしれないことに、絶えず心が乱されるものです。

人は「いま、ここに」しか生きられないのに、わたしたちの心が、過去の悲しみや未来の不安に乱されている間は「いま、ここに」生きることに心を集中することはできません。

祈りは「いま、ここに」心を集中する修練と言えます。祈るとき私たちは「いま、ここに」おられる神の御前に出ます。

祈りとは「いま、ここで」私たちに語られる神の言葉に心を集中し、耳を傾けることです。

エマオの村に向かって歩いていた主イエスの二人の弟子たちは、主イエスに期待していた自分たちの希望が、イエスの十字架の死によってすべて打ち砕かれ、さらに自分たちも捕まり投獄されると恐れつつ、エルサレムからエマオへと歩いていました。

彼らの心は、過去の悲しみと、未来への不安でいっぱいでした。しかしその二人の弟子とともに、復活の主イエスは歩いておられると、福音書は伝えます。ただ、彼らの(心の)目が遮られてわからなかっただけなのだと。

復活のイエスと出会う現場は、過去でも未来でもなく「いま、ここ」です。

祈ることは、「いま、ここに」おられるあの方の愛の声に耳を傾けることです。

毎日たとえ数分でも「いま、ここに」心を集中して祈るとき、私たちは決して一人ぼっちではないことに、そして共にいてくださる方の愛に、目が開かれることでしょう。