- 序
聖歌隊の「ハレルヤ」の賛美が、会堂いっぱいに響き渡りました。
花小金井教会には、日常的な聖歌隊というものはないのですが、時折このような力強い聖歌隊が、パッと現れては、あとくされなく消えていく、不思議な教会ですね。
人間の思いや願いをこえて、神の自由な聖霊の風に吹かれて、生まれてくる新しい命の躍動がある。
今、高らかに賛美された「ハレルヤ」は、ヘンデルの「メサイア」という、全曲を演奏するのに2時間半もかかるオラトリオのなかの一曲です。
十字架に死なれた主イエスは復活し、やがて終わりの日に、全能の王として、この世界を治める希望を、力強く、高らかに「ハレルヤ」と賛美する歌です。
この復活の喜びあふれる、イースターの礼拝にだけは、与りたいと、久しぶりに会堂にこられたかたもおられることでしょう。感謝です。
教会の入り口に植えられている、ハナミズキも、今朝、真っ白な花を咲かせて、このイースター礼拝を祝福してくれています。
また、先ほどは、教会にあらたに一人の方をお迎えすることができました。
それもこれもみな、だれかが計画したことでも、願ったことでさえなく、ひとの思いをこえてはたらかれる神様のお働き。
つい、先週までは、この会堂の正面に紫色の垂れ幕がされ、一か月以上に渡って、十字架に向かうイエスさまの、その受難の苦しみの姿を、ずっとわたしたちは見つめ続けてきましたのに、
その垂れ幕が突如「金色」に変わり、牧師のネクタイも白くなり、この会堂全体の雰囲気が、まったく明るく変わってしまったのです。
この変化は、わたしたちの信仰に基づいているのですけれども、よくよく考えてみれば、実に驚くべきことではないかと、思うのです。
福音書によれば、最初のイースターの日の数日前の金曜日。主イエスは十字架につけられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、叫びつつ、死んでいかれたばかりなのです。
その絶望的な死を、イエスさまに従ってきた、女性の弟子たちは、遠くからじっと見つめていました。
このとき男の弟子は、全員イエスを見捨てて、逃げ隠れていたわけです。
十字架の上で息絶えたイエスさまの体は、岩をくり抜いた墓に丁寧に納められました。
それをしたのは、アリマタヤのヨセフという、表立っての弟子ではなく、隠れてイエスさまを慕っていた人でした。
いつも前面に出て目立っていた弟子たちが逃げ去り、むしろ隠れてイエスさまを慕っていたこのヨセフが、大切な働きをしていることも、意味深いことです。
神さまは、どのような人であれ、自由に用いられて、その働きをなさるのでしょう。
このヨセフがいてくれたおかげで、主イエスの遺体は、他の死刑囚の遺体と一緒に、一つの穴に投げ込まれずに済んだからです。
ヨセフはイエスさまの体を、きれいな亜麻布に包んで、新しい墓に葬り、墓の入り口は、大きな石で塞がれ、ローマによって封印されてしまいました。
この埋葬の様子を、最後まで見まもっていたのも、イエスに従ってきた女性たちでした。
マグダラのマリアと、もう一人のマリア、おそらく母マリアとおもわれますが、彼女たちはそれを見守りつづけ、埋葬が終わった後も、「墓の方を向いて座っていた」と、マタイの福音書に記されています。
彼女たちは、どのような思いで、墓を見つめて座っていたのでしょう?
わたしは数年前に、ひとり暮らしの父を、突然死で失いました。
警察から携帯に連絡が入り、駆けつけた病院で、医者や警察への対応、家族への連絡、葬儀をどうするかなど、次から次へとしなければならないことに襲われてしまい、
涙を流して悲しむような、感情が湧いてくるまもなく、嵐のように過ぎ去る時を、経験したことがあります。
主イエスの十字架の死と埋葬の出来事も、おもえば突然の嵐のような出来事であり、木曜日の夜に、突然とらえられたイエスさまは、次の日の金曜日には、十字架につけられ、午後になくなり、夕方には葬られてしまったのです。
あれよあれよという間に、愛する人は、墓の中に葬られてしまった。
イエスさまを慕っていた女性たちの心、彼女たちの感情は、この嵐のような出来事に、追いついていけたとは、とてもおもえない。
わたしたちは、今日のイースターの礼拝を迎えるまで、長い時間をかけて「レント」「受難節」という時間を持つことができたので、心の備えと準備をもって、十字架を受け止め、そして今日、このイースター礼拝を迎えていますが、しかし、世界で最初のイースターの朝、復活のイエスさまと出会うことになる、彼女たちには、そんな心の準備をするような余裕など、まったくなかったはずだ、ということは、心に留めておきたい。
人生には、三つの坂があるのです。上り坂、下り坂、そして「まさか」です。
わたしたちは、いつも、心の準備をして、ことに望めるわけではありません。
喜びも、悲しみの出来事も、多くは、突然やってくる。
その出来事に、「心」「感情」が、追いつかないことは、いくらでもある。
イエスさまの死と埋葬の出来事は、それをずっと見守った女性たちにとって、そういう出来事であったはずです。
彼女たちは、十字架にしなれたイエス様を見上げつつ、ハレルヤコーラスの練習をして、イースターの日の準備をするわけにはいかなかった。
嵐のような出来事によって、イエスさまが葬られてしまった、その墓の前で、二人のマリアは、ただ呆然と、座りこむしかできなかったはずなのです。
そのような、この世界に突然引き起こされる、理不尽な出来事、暴力は、去年突然始まった、ウクライナとロシアの戦争であれ、いまだに続いている、ミャンマー、アフガニスタンなどの、暴力的な軍事支配であれ、そのような理不尽な暴力をまえに、わたしたち一人一人は、ただおろおろと、座り込むしかない、弱いものであることを、痛感させられるのです。
このとき、男の弟子たちは、みんな逃げ去ってしまいました。
イエスさまを殺害した権力者たちへの、テロを計画したり、弔い合戦をするような弟子たちではなかったのです。
女性たちはなおのこと、この圧倒的な暴力の前に、無力のまま、墓の前にすわるしかなかった。
イエス様が墓に葬られた時。
彼らの希望は、すべて潰えてしまった、終わってしまったはずだったのです。
この全くもって、無力な弟子たち、女性たちの集まりには、この絶望的な状況を変えて、2000年後に「ハレルヤ」コーラスを歌わせるような、力など、全くなかったのです。
あの、イースターの朝がくるまでは。
- 墓で起こった出来事
さて、墓の前に座り込むしかなかったマグダラのマリアともう一人のマリアは、一旦家に戻り、安息日が明けた日曜日の朝、もう一度、イエスさまの葬られた墓を、見に行った。
それが、先ほど朗読された箇所になります。
墓を見に行ったところで、墓はローマ兵によって封印され、中に入れるわけではありません。
ほかの福音書では、イエスさまの遺体の手入れをしようと、女性たちが香油をもって出かけたと、記されています。
いずれにしろ、彼女たちの力では、墓の中に入れないのだから、無駄足になる行為です。
ちゃんと頭で考えて、どうやったら封印を解いて、重い墓石を動かすことができるか、男の助けを借りるなどして、準備をしていかなければ、意味がない。
でも、それでも、番兵が墓を見張っていたのだから、なにもできなかったはずなのです。
何を計画しようと、この状況をひっくり返すことは不可能。
どうにもならない現実が、ただ目の前に横たわっていた。
ところが、それでも、彼女たちは、墓に向かった。
彼女たちの行動は、頭の中の理性を越えた、心の思い、感情に突き動かされたものとしかいえません。
失礼ですが、よく物事を考えた末の行動とは思えません。
明らかに、無駄足になることは、ちょっと考えれば、小学生でもわかる状況です。 とうじ小学生はいませんが・・・
しかし、聖書に登場する、神の奇跡を経験した信仰者たちは、
彼女たちのように、自分の頭の中だけで考えて、これは無理だ、意味がないと、結論を出して、行動をやめてしまう人々ではありませんでした。
行き先わからず旅立った、アブラハムも、おことば通り、この身になりますようにと、主イエスを身ごもったマリアも、
そして、封印された墓へと向かった女性たちも、自分の頭の中だけで考えては、無理だ、意味がない、ありえないと、立ち止まってしまう人たちではなかったのです。
彼女たちは、こんなことして何になる、無駄足になるだけだと、頭の中で、そういう考えが浮かんだとしても、ただ墓を見に行きたい一心で、出かけていったことで、復活のイエスさまと出会うことになるのです。
彼女たちが墓に行くと、「大きな地震」が起こり、「主の天使が降って、墓を塞ぐ石が転がし、石の上に座る」という出来事が起こったと記されます。
「大きな地震」は、これから起こる出来事の重要性が暗示されています。
人間にはどうにもできない地面が、神によって揺れ動かされる。
そして、主の天使があらわれ、墓石を転がし、その上に座った。
これはすべて、神による出来事が起こっていることが象徴された表現です。
この神の出来事に遭遇した番兵は「恐ろしさのあまり、震え上がり、死人のように」なりました。
旧約聖書において、直接神と顔をあわせるものは、滅ぼされなければならないといわれていた、聖なる神との遭遇の様が、
番兵が恐れたという表現で、描かれるのです。
この想定外の、圧倒的な神による出来事の中から、響いてきた上からの言葉。
天の使いが告げる一言は、こうでした。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」
この、人間の想定を超え、神の側から響いてくる「復活宣言」。
この上からの「復活宣言」を伝えることこそが、マタイの福音書の重要なポイントなのです。
「あの方は死者の中から復活された」
人間の妬み、理不尽な暴力によって、十字架につけられ、死なれたイエスを、
神は復活させた。
この「イエスの復活」は、女性たちの心の中によみがえったというような、幻想や幻の話ではなく、
人間が、神のように高慢になり、理不尽な暴力をもって、他者を支配し、勝ち誇ったように見える現実さえも、神は、十字架に死に、墓に葬られたイエスを、復活させ、人間の罪の企みを、ひっくり返される、希望の宣言です。
神は、人間の高慢と罪のゆえに、十字架に死に、墓に葬られたイエスを復活させ、目に見えないイエスとともに、愛に基づく新しい世界を、ここから始めてくださったのです。
その愛の神の国は、やがて終わりの日に、完成に至る。
今は、まだ暴力的な支配という、罪が、国と国の間で、家庭の人と人との間で、悲しみをもたらしているとしても、イエスの墓の前に座るしかなかった、マリアの失望を、わたしたちも味わう日々が、まだ続くとしても、今日、二人のマリアが聞いた、天から響く「復活宣言」を、わたしたちも、この礼拝において、心新たに聴きとりましたから、喜びに溢れて、ここから新しい出発をしたい。
この「あの方は、死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」といわれた、この希望の言葉を、わたしたちへの言葉として受け止めて、歩み出したい。
この「宣言」をきいた彼女たちは、恐れながらも、大いに喜び、走り出しました。
神をただ恐れているだけでは、前に進むことはできません。
復活のイエスとの出会いは、わたしたちに前に向かって走り始める、喜びを与えてくれるのです。
前に走り始めた彼女たちの、その行く手に、復活のイエスさまは立ち現れ、「おはよう」といわれました。
これは「喜びなさい」という意味の言葉です。
復活のイエスとの出会いは、失望していたわたしたちの心に、霊的な「喜び」を与える、神の奇跡であります。
二人のマリアは、イエスさまの足を抱き、その前にひれ伏します。
「ひれ伏す」と訳される言葉は「礼拝」という意味の言葉です。
復活宣言を聴き、失望を越えた霊的な「喜び」を知った人は、
その喜びを与えてくださる、主イエスを「礼拝」する人となる。
そして復活のイエスは、逃げ去ってしまった弟子たちを、見捨てることをなさらなかった。
十字架の時も、埋葬の時も、顔を出すことなく、逃げ隠れていた弟子たち。
愛する人を見捨て、裏切ってしまったその罪さえも、主イエスは責めることなく、彼らを「兄弟」と親しく呼んでくださるのです。
彼らの罪は、すでに赦されている。そのためにイエス様は十字架に死なれたのだ。
それゆえに、イエスさまは言われます。
「兄弟」よ、最初に出会った、あのガリラヤで、再会しようと。
罪赦されているものとして、新しく出会おうと。
すでに先に行っておられる復活のイエスの招きに応えて、
わたしたちも、それぞれのガリラヤへと、ここから出発いたしましょう。
復活の主が待っておられる、わたしたちの自由なガリラヤへと。