「主イエスの用意した食事に与る」(2018年4月15日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

ヨハネによる福音書21章1節〜14節

今日は、久しぶりの雨となりました。

雨の中、教会を訪れる人々を、白いハナミズキの花が、出迎えてくれています。

晴れているときには、真っ黒いアゲハチョウが、白いハナミズキの花の蜜を吸う姿が見られることもあって、

なんだか、この花の咲く季節は、まるで天国のような・・・いったことはありませんけど、そういう美しさに触れて、心が温かくなります。

つい、目の前の問題。やらねばならないことに追われる日々の中、

心の余裕を失って、神さまが見せてくださっている、美しさに、気づかずに生きてしまいやすいものですが、

この美しい世界を造られた主は、わたしたちを愛して、さまざまなことを通して、日々、わたしたちを喜ばせて下さっているのでしょう。

そのことに、気づけないまま、見えないままに、時が過ぎてしまわないように、

心の目と耳が開かれるようにと、今日もわたしたちは、この場所に集っています。


わたしたちを愛し、赦し、今日も豊かな恵みを注いでくださっている、主に心を向ける、この時間。

神の愛の最大の証である、主イエスの十字架、そして復活の出来事に、心を向けます。

たとえ、この世界が、自分の人生が、

罪のゆえに、悲しみに満ちているように見えるとしても、

わたしたちの罪の為に、十字架についた主イエスが、「復活」なさったから、


目の前にみえている現実をこえ、失望をこえ、

復活の主イエスと、ここでもう一度出会いなおして、新しく立ち上がって歩み出したいのです。


十字架に死んだ主イエスを、神は復活させた。主イエスは、今、生きておられます。

この「復活の主イエス」と出会うこと、出会い続けることこそ、

すぐ失望し、うつむいてしまいがちな私たちを、支え続けてくれる、希望です。


復活の主イエスと出会う。


マグダラのマリアが、「わたしはイエスさまのためになにも出来なかった」と、自分に失望し、墓の前で泣いていたとき、

また、男の弟子たちが、夢破れて、人をおそれて、家に閉じこもっていたその時、

彼らがそのどん底から、立ち上がっていけたのは、復活の主イエスとの出会いの故でした。


そして、復活の主イエスは、ただ闇雲に、弟子たちに現れたのではなく、その人その人にとって、相応しい時に、ふさわしい形で、出会っておられるのです。


マグダラのマリアには、わたしにすがりついてはいけないと言われましたが、

自分は信じないと言っていたトマスには、わたしの十字架の傷に、触れなさいと言いながら、出会ってくださいました。


復活のイエスさまとの「出会い方」は、それぞれ違います。

私たちも、イエス様との出会いは、それぞれでいい。違っていいのです。


小説家の「椎名麟三」は、あるとき福音書を最初から読み進めていた時、ルカの福音書を読んでいるところで、

復活のイエスさまのことが分かったのだそうです。彼はそこで、イエスさまと出会った。そういう出会い方をしたのでした。


それぞれに、イエスさまとの出会い方があります。

はっきりとはいえないような、そういう出会い方もあるでしょう。弟子たちも、始めはそうでした。イエス様に出会っているのに、よくわからなかったと、今日の出来事の中にも出てきます。でも、確かに出会っているのです。


今日の21章の出来事で、イエス様の弟子たちは、復活の主イエスに出会うのは、3度目なのです。

一度目はイースターの日の夕方でした。二度目は、その一週間後、最初の時に不在だった、トマスも一緒に、イエス様に出会いました。

そして今日の箇所では、そのあと弟子たちが、どういうわけか、彼らの故郷である、ティベリアス湖畔、つまりガリラヤ瑚に、帰っていった、その場所で、

弟子たちとイエス様が、もう一度出会い直したという出来事になります。

すでに2度も出会っているのに、4節には、こう書いてありますね。

「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」と。


見ているのだけれど、見えていない。認識出来ていないという不思議な状態です。。

「復活のイエスさまとの出会い」とは、そもそもそういう不思議な側面がある、ということです。

ですから、わたしたちもきっと、復活のイエスさまと、なんども出会っているのかもしれません。

ただ、そのことに気がついていない。よく見えていない。認識していない、ということがあるのでしょう。

美しいハナミズキの花をみても、その花の美しさに気付けない。

そもそも花が咲いていることさえ、見えていないという、心の状態の時があるでしょう。



ペトロや、弟子たちは、なんども「復活の主イエス」と出会っているのです。

それなのに、今、そこにおられるイエスさまのことが、わからない、気づけないままに、

彼らは、自分の故郷の、慣れ親しんだ生活に、逆戻りしていたわけです。


でも、これは不自然なんじゃないかと、考える人もいます。

復活のイエス様に出会っているのに、また、もとの生活に戻ってしまうなんて、不自然じゃないかと。

なので、この21章は、後から書き加えた出来事じゃないかと、聖書の学者さんのなかには、そういわれる方もいます。

確かに、20章の最後では、このヨハネ福音書の目的が書かれて、いったん終わっているような書き方になっていますから、


21章のこの物語は、あとから教会が書き足したんじゃないかと、そう考えるわけです。、


でも、わたしはそうは思わないのです。それはちょっと合理的過ぎる読み方だと思うからです。

それに、弟子たちがガリラヤに戻ってしまったことは、ちっとも不自然じゃない。むしろ自然なことだと、わたしは思うのです。


一度や二度、復活のイエスさまと出会ったからといって、すぐには彼らの人生、その生き方、生活は変わったわけじゃなかったのだと、

そんな弟子たちの正直な姿が、ここに描かれているのだと。だから20章と21章は、繋がっている物語なのだと、わたしは読むからです。

確かに「復活のイエスさまと出会う」という体験は、決定的であるけれども、でも、それで弟子たちは新しく、歩み出せたわけじゃなかった。

新しい使命に向かって、福音を伝えていく人生に、すぐに邁進したわけじゃなかったのだ。

そこには、プロセスがあったのだ。そこにおいて、なんども復活のイエス様は、弟子たちと出会いなおしてくださったのだと、そういうことを、ヨハネ福音書は伝えているんじゃないでしょうか。


復活のイエス様と出会いながらも、前に進んだり、後ろに戻ったりしている弟子たち。

でも、イエス様はそんな弟子たちを見捨てたりしないで、なんども出会いなおしてくださり、

一歩一歩、やがて彼らが歩むべき道へと、新しい使命へと、導いてくださっているのだと、そのように読むのです。


わたしたちも、今日、この礼拝において、目には見えないけれども、復活のイエスさまと、出会い直しています。

ここで、今日、またあらたに、イエスさまの声を聞き、また一歩、自分に与えられた道へと、歩み出していきます。


この前、4月1日にのイースターの日に、ここで、一人の方のバプテスマ式がありました。

人はそれぞれ、違った形で、復活のイエスさまと出会い、ある時、その出会いの経験が、バプテスマ式という形となって、あらわれるわけです。

しかし、その「復活のイエスさまと出会う」という感動、その体験が、

すぐにその人の人生を、大きく変えていくかというと、そういうものでもないことを、わたしたちは、自分自身の経験として、周りの人の経験としても、


知っているでしょう。人はそんなに簡単には変わらないのです。


確かに、わたしは復活のイエスさまと出会った。その喜びと感動を味わった。

でも、それではわたしは、これから、どう歩んでいけばいいのですか。

何をしていけばいいのですか。それはいまいちわからない、という状態の中を、しばらく生きていくものではないですか。



弟子たちが、エルサレムで復活の主と出会いながらも、すぐに彼らの使命である、伝道へと、向かっていったわけではなく、

むしろ、自分たちの故郷であるガリラヤへと、帰っていき、元の生活、かつての住み慣れた生活に、いったん戻っていったのは、

別に不自然なことではなく、むしろ自然なこととして、起こり得ると思うのです。


にもかかわらず、その、ふるさとガリラヤにおいても、復活のイエスさまは出会ってくださったという、ことこそが、今日の大切なポイント、メッセージなのです。


弟子たちは、そうやって、なんども復活のイエスさまとの出会いの経験を、繰り返しつつ、

徐々に行くべき道へと、進んでいくのです。それがこのヨハネの21章に書かれている物語です。



わたしたちも、毎週、この礼拝のなかで、み言葉と聖霊によって、「復活の主イエス」と、出会い直しているわけです。

それでもまた、ここから自分の家に戻ってみれば、またもとの生き方、古い生活、自分の古いガリラヤへと、舞い戻ってしまうこともあるでしょう。

自分は、なんにも変わっていないと感じることも、あるでしょう。


にも関わらず、そういう古びた生き方、喜びのない生活のただなかに、復活の主イエスは、なんどでも現れてくださり、

声をかけてくださるのではないでしょうか。


「子たちよ、なにか食べ物はあるか」と、弟子たちに問いかけてくださったように、

今日も、私たちと出会い直し、声を語ってくださっているでしょう。




ペトロはもともと漁師だったのです。ですから、住み慣れたふるさと、知り合いのいる町で、漁をしていけば、生きていけるのです。食べていけるのです。


それで十分。だれからも批判される筋合いのない、まっとうな人生ではないですか。

復活のイエスさまに出会った経験は、大切だけれども、

そうはいっても、毎日、生活していかなければならない。

日々、どうやって生きていけばいいのか。これからなにをして、食べて行けばいいのか。

まだそれがはっきり見えない中、故郷に戻った彼らは、もんもんとしていたのかもしれません。

そして、しびれを切らしたように、ペトロは立ち上がり、「わたしは漁に行く」と言ったのでしょう。

そのペトロの言葉に、ほかの弟子たちもつられるようにして、「わたしたちも一緒に行こう」と言ったのでしょう。

なにをしたらいいのかわからないまま、もんもんとしている中で、唯一、自分にできることをしようとした、ペトロたち。

しかし、そういうペトロの思い、考えで、生きていっても、人生はうまくいかないのです。

ペトロは漁師のプロだったというのに、結局、漁に出ても、なにもとれませんでした。


これは、とても象徴的な出来事です。

復活のイエスさまと出会っていても、信じていても、主イエスの声を聞かないままに、自分の考えだけで、行動するなら、

頑張ってみても、うまくいかない。空回りして、疲れるだけ。実らないという経験をするのだ、というメッセージがここに秘められています。

帆掛け船は、風にのれば、楽に前に進んでも、風に逆らえば、頑張っても、前に進まないように、

この時のペトロたちの状態は、そういうことだったわけです。

神こそが実りをもたらすお方であるのなら、

その神の御心を聴いて、復活の主イエスの声を聞いて、歩んでいくのが、豊かな実りをもたらす道です。


しかし、たとえそうであるとしても、

なにも魚が捕れなくて、ジタバタしていた弟子たちを、主イエスは見捨てたりせず、彼らの前に、また現れてくださいました。

弟子たちは、それが主イエスとは気づかないまま、

その、謎の人からの、声を、弟子たちは聞いたのです。

「子たちよ、何か食べるものはあるか」と。

「子たちよ」と、親しげに呼びかけるその人は、「何か食べるものはあるか」と聞きました。

もちろん、魚がとれていないことを、イエスさまは知っておられたはずです。

しかしあえて、「何か食べるものはあるか」と、イエスさまは弟子たちに問われたのです。

自分の思い、考えで頑張って、なにも実らないままでいた彼らに、。

その自分の姿に気付くようにと、「何か食べるものはあるか」と声をかけて下さるイエス様。

その問いに、「ありません」と答えるしかなかった弟子たち。

でも、「ありません」と、いうことができて、よかったのです。。

ここで弟子たちが、「これでも一生懸命やったんですよ」とか、「頑張ったんです」と、言い訳をしなくて、よかったのです。

自分の惨めな状態を、素直に認めて、「ありません」と言うことが出来たからこそ、

次の主イエスの言葉を聞くことが出来たからです。



「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と。

自分の思い、自分の考えでは、やっぱりうまくいかない。

「自分たちには、もうなにもありません」と、素直に告白した弟子たちだからこそ、

この謎の人物の言葉にさえ、すがるようにして、素直にまっすぐに、言われたとおり、網を降ろしたわけだから。

もしかしたら、今、わたしたちにも、復活のイエスさまは、それとはわからない姿で、語りかけておられるかも知れません。

「船の右側に網を打ったらいいんだよ。」と・・・

「こうしてみたらいいんじゃないかな」と、語っておられないでしょうか。

復活のイエスさまは、いつも語りかけてくださっている。ただ、わたしたちのプライドのせいで、心の目と耳が塞がって、分からなくなっているのかもしれません。

弟子たちは、言い訳なしに、自分たちにはなにも「ありません」と言いました。

そこに響いてきた声に従うと、網を引き上げることも出来ないほど、沢山の魚が網にかかったのです。

彼らは、神だけが実現できる、豊かな実りを、体験したのです。

この出来事を通して、ある弟子は気がつき叫びます。

「主だ」と

かつてイエスさまが行った、似た出来事を、思い出したのでしょう。

ペトロは「主だ」という叫びを聞き、自分が裸であったのが恥ずかしかからか、

上着をまとい、とっさに湖に飛び込んでしまいます。

「主だ」と聞いて、喜んで、イエスさまのところに行こうとして飛び込んだのか、

逆に、「主だ」と聞いて、裸で漁をしていた自分の姿を、

つまり、昔の漁師の姿に戻ってしまった自分の姿が、恥ずかしくて、上着をまとって水に飛び込んでしまったのか。

その気持ちは、ペトロにしか分かりません。

ただ、「主だ」と言われる瞬間まで、ペトロはイエスさまのことを忘れて、

かつての自分の姿。自分の慣れ親しんだフィールドで、やり方で、自分の力でなんとか魚を捕まえようとしていたのに、うまくいかなかったのですから、

「主だ」と言われて、とっさに、そんな自分を主に見られたくないと、慌てて水に飛び込んだんじゃないかと、わたしはそうここを読んでいるのです。

そして、そういうペトロの姿は、

同じように、復活のイエスさまに、なんども出会っているはずの、わたしたちにとっても、共感できると思うからです。

復活のイエスさまに出会っているのに。

バプテスマを受けたのに。

長い間信仰生活をしてきたのに、

何か、自分の人生、うまくいかない。

頑張っているのに、うまくいかない。実らない。

本当に自分は、これでいいんだろうか。信仰があるのだろうか?

わたしは、神に愛されているのだろうか?

祝福されているのだろうか?

神さまの罰を受けているんじゃないか。裁かれているんじゃないか。

もし、現実の厳しさを前に、そういう不安を感じて、

ペトロのように、主の前から隠れてしまいたくなるときには、

どうか、この後の出来事を、ぜひ心に留(とど)めていただきたいのです。

「子たちよ、何か食べ物はあるか」と、優しく「子よ」と呼んでくださった復活の主は、

魚を捕ることができずに、おなかをすかせた、彼らのために、

炭火をおこし、魚とパンを焼きながら、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、準備を整えて、待っていてくださるお方なのだ、ということを、心にとめてほしいのです。

まるで、やんちゃで、言うことをきかない子ともたちが、

なんどもなんども、失敗して、うまくいかずに、うつむいて、家に帰ってきたとしても、

お母さんは、ひとことも、子どもをとがめたりせずに、

「さあ、ご飯よ。たべなさい」と、ただ子どもを信じ、食事を用意し、待っていてくれるように。

なんど失敗しても、弟子たちのことを、「子よ」と呼んでくださる復活の主イエスは、

弟子たちを一言もとがめることなく、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、言ってくださいました。

もう、弟子たちは、「あなたはどなたですか」などと、野暮なことは聞きません。

自分たちは、この方に深く愛されていることが、分かったからです。

この、主イエスの用意した、愛の食事に与った弟子たちは、

やがて、自分の人生の使命を、受けとって、

自分の命の限り、

命をかけて、イエスさまの愛にこたえて、生き抜いていきます。

 今日、主イエスは、わたしたちにも、「子よ、何か食べるものはあるか」と問いかけてくださってはいないでしょうか?

心を開き、復活の主イエスが与えようとしておられる、

神の愛という食事に、ともに与りたいのです。