「叫び続ける人々」2023年3月26日主日礼拝

●序

 おはようございます。こんにちは、こんばんは。

3月の最後の日曜日。桜雨(さくらあめ)の朝となりました。

なぜ神さまは、ちょっとした雨では散らないように、強い桜の花びらにしてくださらなかったのかと、思わなくもありませんが、

はかなく散ってしまうからこそ、散るまでのみじかい時間が、永遠の価値をもつとも、いえるでしょう。。

死にゆくいのちを、みつめることは、辛いことですが、

わたしたちの罪のために、十字架の上に、そのいのちを散らされていく、イエス・キリストの受難の歩みから、

わたしたちは目をそらすわけには、いきません。

それは、わたしたち自身が、できれば見ないでいたかった、自分自身のなかにある、罪に深く目を向けることであるとしても、

そうであるからこそ、その罪を赦そうと、神の御子が、罪の苦しみをその身に受けていかれた、神の愛とあわれみの姿を、今日もともに見つめ続けたいと、願っているのです。

 

さて、先ほど朗読された、イエスさまの受難の時期には、イエスさまが最後のところで、鞭うたれたと記されるだけで、イエスさまの言葉は、一言も記されない箇所となります。

ただ、イエスさまを巡って、人間の言葉だけが飛び交っていく箇所なのです。


登場するのは、ローマに捕らえられていたバラバ・イエスという人、そしてローマ総督ピラトと妻、そしてユダヤの祭司長や長老たち、最後にユダヤの群衆たちになります。


最初に、この箇所に至るまでの話の流れを、みじかく辿っておきます。


先週の礼拝で読まれた箇所は、ユダヤ権力によって捕らえられたイエスさまが、ユダヤ議会の不正裁判によって、死刑判決を受けるという出来事でした。


しかしローマの支配下にあるユダヤ議会は、ローマの許可を得なければ、イエスの死刑を執行することができない。

ですから、ユダヤ議会は、ローマの地方総督ピラトに、主イエスを死刑にするようにと訴えました。そして、総督ピラトによる、イエスへの尋問がなされていく。

その尋問の際には、ユダヤの長老たちが、イエスに不利な証言をするのだが、イエスは、それに一言も反論なさらない。

このイエスの姿にピラトは驚くとともに、同時に、これは激しく訴え続けている、ユダヤ指導者たちの「ねたみ」によることであると、見抜くのです。

そのことは、18節に記されていました。


ピラトはわかっていたのです。イエスを死刑にせよ、と訴えている指導者側が、偽りを言っていることを。そして、今、目の前で、何も反論も弁明も語ろうとしない、イエスという男には、実は、なにも罪のないことを、ピラトは悟っていた。


しかしそのピラトは、自分自身の心の良心に従い、イエスを解放しようとはしませんでした。

そうではなく、ユダヤの群衆に、その大切な判断を丸投げしてしまうのです。


それが今日読まれた聖書箇所に記されている出来事です。


その箇所を、もう一度読んでみます。

 

★15節~18節(スライド)

27:15 ところで、祭りの度ごとに、総督は群衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。

 27:16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。

 27:17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」

 27:18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。

 


繰り返しになりますが、大切なことなので、もう一度申し上げます。


ピラトはわかっていたのです。イエスを死刑にせよ、と訴えている指導者側が、「ねたみ」によって、偽りの証言を行っていることを。

そして、その偽りの証言に、何一つ弁明せず、沈黙を守っているイエスという男には、死刑になるような罪などないことを、ピラトはわかっていた。

 

しかしピラトは、イエスを解放することができる、力ある立場にいながら、自分の良心にしたがって、真実を行うのではなく、

群衆に選ばせ、群衆の機嫌をとることによって、総督としての自分の立場を守るという選択と行動を取ったのでした。


それはある意味、ローマの地方総督という立場を勝ち取ってきた、政治家ピラトにとって、当然の判断だったともいえます。


もしここで、自分の良心に従って、イエスを解放してしまったりしたら、ユダヤ議会と、ユダヤ群衆は反発し、社会の秩序が混乱し、ローマ総督としての評価を落とすことになると、ピラトは計算したに違いないからです。


そういう「計算」ができる人だからこそ、ピラトはここまで出世し、権力と立場を手に入れてきたはずだからです。

 

そういう意味で、このようなピラトがしたような判断は、いつの時代であろうと、権力と力を手に入れてきた人々にとっては、心当たりのある判断でありましょう。


なにが正しく、真実であるのかを、実は知ることができる立場なのだが、その真実に基づいた判断を選択すると、今度は、自分自身の立場が危うくなってしまうときに、

自分の心の良心、その本心にふたをしてしまえる人が、いわゆる組織において上に登ることができる人々であることを、このピラトの姿は、示しているのではないでしょうか。


独りの真実より、沢山の人間から指示される偽りによって、自分の立場とポジションを守ってしまう。


いや、むしろ正しいこと、真実などと、青臭いことを言っていたら、この社会では生き抜くことなどできないのだと、開き直ってさえいく。


この神を見失い、真実を見失った、偽りに満ちた社会のなかで、だれもが生き残るためには、本心にふたをし、妥協し、開き直りながら、目の前の生活を守っていきている。

「きれいごとだけでは、生きられない」と、自分自身に言い聞かせながら。


そういう意味で、今もピラトという人は、わたしたちの心の中に、生きつづけているのではないでしょうか?

 

さて、そのピラトに、彼の妻が不思議なことを告げました。

★19節(スライド)

27:19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」


このピラトの妻の伝言という、不思議な記述は、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書には記されない、マタイの福音書だけに記される出来事です。

さて、この妻の伝言の言葉が記されてたことで、わかることが二つあります。

それは、ピラトが本心ではわかっていたであろう、イエスは正しい人であるというメッセージを、妻の口を通して、ある意味はっきりと聞いたということ。

そしてもう一つは、そのはっきり聞こえてきた、自分自身の心の良心の声ではなく、結局は、群衆の声に従うことを選んでいくのだ、ということです。


では、その「群衆の声」とは神の前に正しい声と言えるものだったでしょうか?


★20節~23節(スライド)

27:20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。

 27:21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。

 27:22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。

 27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。


その場にいた群衆は、バラバを釈放し、イエスを死刑にすべきであると、祭司長や長老たちに説得をされていたのでした。

ユダヤの指導者たちは、群衆に対して、どうしてそのような説得ができたのでしょう?

バラバという人が、いわゆるユダヤ人を殺したという犯罪人ならば、その男を釈放するようにと、群衆を説得することは、難しいはずです。

しかしこのバラバという男が、ローマに対する暴動をおこした、ローマにとっての犯罪人ならば、むしろ彼は、ユダヤ人にとっての英雄であり、その英雄であるバラバを、釈放するようにと、ユダヤの指導者たちが説得することは、たやすかったはずです。

その理解を裏付けるかのように、16節ではバラバのことを「評判の囚人」と言い表しています。

ユダヤの独立のために、ローマへの暴動を企て、とらえられたという意味で、「評判の囚人」であったとすれば、

祭司長や長老たちは、このユダヤのために戦ったバラバをこそ釈放すべきであって、ユダヤの神殿や指導者たちを批判するような、イエスなど、十字架につけてしまうべきだと、群衆を説得することは、実に簡単なことであっただろうと、想像するのです。


民族主義の前には、善も悪もありません。ただ、自分たちの仲間だ。見方だということだけが問題となってしまう。


この話題をここで語るのは、勇気がいるのですが、先週のWBCの野球の試合で、日本が世界一になったでしょう。

わたしも日本人ですから、嬉しいんですよ。大谷選手は大好きだし、日本チームの雰囲気も、チームワークも本当に素晴らしかった。

ただ、私の友達には、韓国人もいるし、他の国の人もいる。

勝った国があるということは、負けた国があるということを、つい忘れてしまい、

あなたも一緒に喜ぶべきであると、熱狂を押し付けるような、連日の報道には、正直、へきえきとしていたわけです。

そういう熱狂の行きつく先に、今日の聖書の箇所における「群衆」の姿を、思い起こしてしまうからでしょう。


この時のユダヤの群衆たちの目には、バラバこそが民族の英雄であり、イエスユダヤ民族の裏切者とうつっていたにちがいない。

そのように、祭司長、長老たちは群衆を扇動したのです。

そうでなければ、「十字架につけろ」などと、群衆が叫びだすわけがありません。


 戦前は、マスコミが群衆を扇動し、「鬼畜米英」と叫ばせ、戦争に突入していきました。

 ここでイエスではなくバラバを選んだユダヤも、この時から約40年後に、ローマとの無謀の戦争を引き起こし、壊滅的な滅びへの道を歩んでいく歴史を、わたしたちは知っています。


神の真実の声は、人間の熱狂の叫びの中にはなく、むしろ彼の妻がひっそりと語った伝言の中にあった。

しかしピラトは、小さな真実の声ではなく、偽りに扇動された、多数派の声に聞き従っていく。

「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と、言い訳をしながら。

 

さて少し聖書からはなれます。

キリスト教は長い歴史の中で、何を信じているのかその信仰の内容を、短く整理した文書を、「信条」という形で、いくつか作ってきました。

その一つに、「使徒信条」と呼ばれるものがあり、教派によっては、礼拝の中で毎週唱えることのある、基本的な信条と言われるものです。
幾つかの翻訳の中から、一つご紹介します。


使徒信条(スライド)

わたしは、天地の造り主(つくりぬし)、全能の父である神を信じます。
わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから 生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。
わたしは、聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠(えいえん)のいのちを信じます。
アーメン

( 口語文 「讃美歌21 使徒信条B」より)


このキリスト教の歴史において大切にされてきた「使徒信条」のなかに、イエス・キリスト以外に二人の名前が記されています。

ひとりは母「マリヤ」であり、もう一人は「ポンテオ・ピラト」つまり、総督ピラトです。


「主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから 生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、・・・・」

信条というものは、厳選された短い言葉で、信仰のエッセンスを語るものですから、ある意味しょうがないのですが、マリアから生まれたイエスさまの人生の歩みが、すべて省略されて、マリアの次に「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」となっていることについては、もう少し言葉が必要なのではないかと、思わないでもありません。

ただ一方で、なぜイエスさまの受難を語る時に、「ピラト」という実名を、ここに記さなければならなかったのか。そのことの意味はなんなのかと、そのことに関心を抱きます。

 福音書の内容からしても、大祭司、祭司長、長老、律法学者、ファリサイ派などのもとに、苦しみを受けたと告白したほうが、聖書の内容に即しているようにも思うのですが、使徒信条は「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」と記している。

この理由を、ある人は、イエスさまの苦しみには、具体的な日付があったことを示すために、その当時の総督ピラトの名前が記されたのだと、説明します。

神の子が、人の罪を背負って苦しまれたという信仰は、頭の中だけの理屈などではなく、確かに歴史に刻まれた事実として、ピラトが地方総督をしていた時代におこったことなのだ。

この神の救いの出来事が、人間の歴史のなかに確かに起こったしるしとして、ピラトの名が、ここに記されているという説明を聞いたことがあります。

しかし、それでもなお、ピラトでなければならなかったのか? この時の大祭司の名前でもよかったのではないか。あるいは、ローマ皇帝の名前でもよかったのではないかという気もする。

なぜ、ピラトなのか? 

繰り返しになりますが、ピラトは今日の聖書の箇所で、こう言いました。


★24節(スライド)

 27:24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」


そしてユダヤの群衆は、こう答えた。

★25節(スライド)

 27:25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」


しかしなお、使徒信条は「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」と、ピラトの名前を書き記すのは、なぜか?


それは26節

★26節(スライド)

27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。


最終的にイエスさまを死に定める決断をしたのは、ピラトであったからでありましょう。

「わたしには責任がない」と言い逃れできない、最後の選択をしてしまったのは、やはりほかでもない、ピラトだったことを、使徒信条は告げているのでしょう。


彼がこの決断をしたとき、祭司長や長老たちも、群衆たちは、拍手喝さい、大盛り上がりだったかもしれません。

そこにいた、すべての人にとって、このピラトが下した決断は、よい決断だった。
バラバも助かり、ユダヤ教の指導者たちは安堵し、群衆たちは、ローマからユダヤ民族の誇りを勝ち取ったかのように、興奮し、盛り上がって、叫び続けていたことでしょう。

その中心に、ただお一人、神の御心にまっすぐに歩む、主イエスが、鞭うたれておられる。


当時のむちの先には、金属が埋め込まれ、うたれたものの肉をそいでしまう、残酷な刑。


この場所に登場する、イエスさま以外のすべての人間が、自分のした判断は間違っていない。自分には責任などない。これですべてが穏便に丸く収まる。

あの厄介者がいなくなってくれるのだから、と胸を撫でていたであろう、

その人々のそれぞれの思惑の、ただなかで、神の御心を生きるイエスさまは、

ただひたすらに、むち打ちの苦しみに耐えておられる。


わたしたちのために。何も言わずに、ただ、わたしたちの罪をすべて、その身に受け止めてくださるために。


日本人の手で作られ、愛されてきた賛美歌「まぶねの中に」は、主イエスの生涯を歌った讃美歌です。


そしてその3番と4番は、主イエスの受難を見つめて、そこに真実を見抜いた人の、信仰の告白が歌われている。

ご一緒に歌いましょう。


★賛美歌205「まぶねの中に」

3.すべてのものを 与えしすえ
死のほかなにも むくいられで
十字架のうえに あげられつつ
敵をゆるしし この人を見よ

4.この人を見よ この人にぞ
このなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活ける神なれ

 


祈りましょう。