「だれがあなたを救うのか」(2017年7月9日花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ

shuichifujii2017-07-09


使徒言行録4章1節〜22節


今、使徒言行録の4章が朗読されました。

 毎週、この「使徒言行録」を少しずつ読み進めていますけれども、

NHKの朝ドラも、途中からみても、よくわからないように、

今日初めて来られた方や、久しぶりの方には、お話の流れが分かるように、すこし、振り返らないといけませんね。

 イエスさまは、最後に十字架につけられて殺されてしまいますが、三日目の朝、主イエスをよみがえり、40日の間、弟子たちの前に現れ、天に昇られたわけでした。

そして10日後のペンテコステの日。祈っていた弟子たちの上に、聖霊が降るという不思議な出来事が起こる。

目には見えないけれども、主イエスが、聖霊として、弟子たちのなかに宿られたのでした。

ペトロをはじめとした、弟子たちは、そこからは「使徒」と呼ばれるようになりますけれども、

聖霊が降った後の彼らは、人が変わったように大胆になり、「主イエスは生きておられます。わたしたちはその証人です」と、人々に語りはじめ、たくさんの人々が、ペトロの言葉を信じ仲間になっていくのです。


さて、先週の礼拝では、その使徒ペトロとヨハネが、神殿に祈りに行ったときの出来事でした。

神殿の中の「美しの門」に、生まれつき足の不自由な男性が物乞いをしていた。

ペトロとヨハネは、その男性をじっとみて言いました。

イエス・キリストの名によって、立ち上がり歩きなさい」と

すると、彼の足は癒やされ、立ち上がって歩き始めて、神を賛美しはじめた。

それが先週の礼拝で読んだ箇所でした。


さて、実は、今日はその続きなのですが、飛ばして読まなかった部分があるのです。


足の不自由だった人が癒された現場を見て、驚いていた周りの人々にむかって、

ペトロとヨハネが、説教を始めたのです。

その説教の中で、ペトロは言ったのです。

この男性の足を癒やし、立ち上がらせたのは、私たちではないのだと。
そうではなく、今も生きて働いておられる、イエスキリストの名を信じる、信仰が、彼を立ち上がらせ、歩かせたのだと、いいました。

まるで、このメッセージを語りたいがために、足の癒しが起こったんじゃないかと、そういう流れになっています。

そういえば、弟子たちの上に、聖霊がくだるという、ペンテコステの出来事の時も、

まず弟子たちの上に、不思議な出来事がおこって、彼らが様々な言葉で話し出したのを、周りの人々が驚いたところで、


ペトロがすくっと立ち上がり、この出来事の意味は、実は、こうなのですとメッセージを語る。そういう流れになっていましたね。

そして、ペトロが語るメッセージは、いつもその中心が、主イエスは復活したのだということなのです。


「あなたたちが、十字架につけたイエスを、神は復活させ、メシア、キリストとしたのです」

これがペトロのメッセージの中心。伝えたいことなのです。

逆をいえば、このメッセージを伝えるために、不思議なことが、癒しが、しるしが起こっているとも、読めます。


つまり、人間の罪の暗闇によって、主イエスは十字架につけられてしまったけれども、

しかし、神は、十字架に死んだ主イエスを、死から蘇らせたのだ。

絶望は、絶望で終わらなかったのだ。人間の限界、罪の暗闇を突き抜け、神は、今や、新しい希望の光をもたらしたのだ。

という、人が考えもしなかった、神の救いを、ペトロはどうしても伝えたい。

「わたしたちは、その復活の証人なのです」と、ペテロたちは、大胆にメッセージを語っていく、その背後に、そのメッセージを支えるしるしとして、不思議な出来事や癒しが起こっている。

そう読み取れます。


エスは生きておられる。あなたを、この世を、罪の絶望から救う、イエスは生きておられる。復活なさったのだ。わたしたちは、その証人です。

この「福音」を大胆に宣言することが、「奇跡」や「不思議な業」「しるし」の目的であるならば、

大切なことは、奇跡や癒しそのものではなく、そこにあるメッセージ。福音です。

主イエスの復活という、希望のメッセージを伝えることこそ、大切なテーマです。


さてそのことが、今日、朗読された4章から、さらにはっきりしていきます。

ペトロとヨハネが、メッセージを語ったのは、神殿の中庭でした。

なので、祭司とか神殿守衛長、サドカイ派という、ユダヤ社会の権威者たちが、「あいつらは、神殿で何を教えているのだ」と、いらだち、おそれ、彼ら捕らえて、牢に入れてしまったところから、4章は始まります。


ユダヤの社会から生まれた、最初の教会と、ユダヤの指導者たちとの間に、最初の軋轢(あつれき)、緊張が走ったわけです。


ペトロたちは、なにも悪いことはしていない。むしろよいことをしているのです。

そして自分たちが体験したこと、それによって救われたこと、

つまり、主イエスの復活を、語っているだけです。

しかし、そのメッセージは、ユダヤの指導者たちには、当然聞き捨てならないメッセージです。


なぜなら、かつて彼らユダヤの指導者たちは、イエスのことを邪魔だと思い、なんとか始末できないかと画策していたわけだから。

その十字架に死んだイエスを、神が復活させ、私たちを救うキリストになさったのだと、告げているのだから。

これは、指導者たちには、看過できない、聞きづてならないメッセージ。

牢から釈放された次の日

ペトロとヨハネの目の前には、

ユダヤの議員、長老、律法学者。そして、ユダヤ教のトップ、大祭司アンナスを筆頭とする、大祭司一族が集った。

当時のユダヤの権威がすべてが集まった、その前に、

ガリラヤの田舎の、漁師出身のペトロとヨハネが立たされているのです。


今の時代に譬えるなら、普通の市民が、突然、国会の証人喚問に呼び出されたような、イメージでしょうか。


ユダヤの議員たち、最高指導者大祭司に睨まれて、

「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問された、ペトロとヨハネ


13節では、わざわざ彼らのことを、「無学な普通の人」だと、書いています。


律法の専門教育を受けてもいない。社会的にも小さな存在の二人が、

当時のユダヤの権威の前に立たされて、詰問されたのです。

「おまえたちは、何の権威で、誰の名で語っているのか」と


まるで、ライオンに囲まれた、小さなウサギたちのような状況。

この緊張感。緊迫感をイメージして、

このペトロの言葉に、もう一度耳を傾けましょう。

ペトロは大胆に、こういったのです。

「民の議員、また長老の方々。今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する良い行いと、その人が何によって癒やされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架に付けて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。

この方こそ、
「あなた方家を捨てる物に捨てられたが、
隅の親石となった石」です。

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」


なんという大胆さ、力強さでしょう。

ペトロは、詩編118編から引用して、

今、目の前で尋問している、ユダヤの指導者のあなたがたも、

そしてペトロ自身さえも、捨てさった石。

全ての人に捨てられ十字架につけられたイエスを、

神は、人を救う救いの親石として、復活させたのだ。


こんな救いは、他にない。

人に捨てらたどん底から、神はイエスを起き上がらせた。

このイエスの名が、絶望の中にいた、足の不自由な人を起き上がらせ、

そして、かつてイエスを裏切ってしまった、ペトロ自身をも、

もう一度、その絶望から起き上がらせ、今、大胆に語らせている。

ペトロもヨハネも、自分の裏切りの罪がゆるされ、救われた経験があって、今、生かされているのだから。

この救いは、ほかのだれによっても得られないと、いうのは当然なのです。



いくらイエスの名によって、話すなと脅され、命令されても、ペトロはこう答えるしかないのです。


「神に従わないであなた方に従うことが神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と。


そして、今、ここに集うわたしたちも、イエスの名によって、暗闇から救われた、ひとりひとりではないですか。

また、このイエスの名によって、罪の暗闇から救われたいと求めている、ひとり一人ではないですか。


なんども失敗し、自分の罪に失望し、それでもなお、今、自分が前を向いて生きていけるのは、

主イエスの赦し、愛のゆえ。

そのことを、だれにも語るなといわれても、黙っていられない。

わたしたちは、この主イエスの名によって、救われた人々を、たしかに見てきたし、その人生の証を、聞いてきたから。

わたしたちも、自分が見たこと、聞いたことを、話さないではいられないのです。



そんな主イエスの救いの証人を、今日はひとりご紹介したいのです。

もうすぐ50年の歴史を迎える、花小金井教会の、創立当時のメンバーであった、山科賢一(やましなけんいち)さんです。

もう10年以上前に天に召されましたが、昔からの教会のメンバーの方は、もちろんよく知っておられるでしょう。

でも、最近教会に来られた方は、ご存じないでしょう。

わたし自身も、つい最近、山科さんの証をはじめて読ませていただいて、感動した一人として、山科さんのことをどうしても皆さんにご紹介したい。

なぜ山科さんなのかというと、そもそも、この聖書のお話は、足の不自由な男性が癒やされたことから、始まったでしょう。


水曜日のお祈り会の時に、ある方がこういわれたのです「ああそういえば、花小金井教会に山科さんという足の不自由の方がいて、彼は最後まで足は癒やされなかったけれども、でも、本当の意味で、彼は神さまの癒しを体験した人だと思うよ」と、教えて下さったからです。


山科さんの写真を映していただけますか。



山科さんと出会った、当時大塚さん、結婚して笠原さんという方が、本にまとめたなかから、

山科さんの証をご紹介して、メッセージを終わりたいと思います。


「あなたも愛されています」山科賢一

「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、わたしたちの罪のために、名だめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(聖書より)

 わたしは先天性の脳性麻痺という障害で、自分の力では歩くことも、座ることすら出来ずに、数十年間、他人の手を借りなければ、一日として生きることが出来ませんでした。

 またそのうえ、家庭的にも事情があって、私は母の実家で母一人に育てられました。
 そのために、わたしがまた幼かった頃、たまに母がどうしても用事で出かけなければならない時は、私を、おばに預けていきました。
 そのおばは、いくらわたしが「喉が渇いたから、お水をください」と頼んでも、わたしに水を飲ませると小便をすると大変だからと思ってでしょうが、飲ませてくれませんでした。

このほかにもいやな思い出は数多くありました。そのために神さまの知らなかった時に、母に、「なぜ、僕のような者を生んだのか」と言っては、母の心を悲しませたこともありました。

他人を恨み、また自分の体が不自由なことを嘆き、生きることに希望を失っていました。そうしているうちに、母は、私を連れて再婚しました。そして、義理の父が事業に失敗したために、わたしはある障害者施設に、1965年の春、入所いたしました。

 わたしが神さまの愛を知ったのは、その施設に入ってから何人かのクリスチャンに聖書を読んでもらい、またその人たちの証を聞かせてもらってからで、だんだんとわたしがどんなに罪深い人間かを知らされました。

そのような罪深い私を、神さまは素晴らしい愛によって、憐れみの中に入れてくださったおられることが分かってきました。私の罪とは、なにも法律的な罪のことではありません。わたしは心の中では、よいことをしたいと願っていても、自分が願っていることはしないで、願ってもいない悪いことばかり、考えてしまうのです。

 こういうことは誰でも皆、同じことでしょう。どんなにきれいな着物を着飾ろうとも、人間の心は、他人をうらやみ、自分こそはという、傲慢な気持ちを持っています。

神さまは、すべての物の造り主です。人間がその神さまを忘れて、自分勝手に生きており、そこにわたしたちの罪があるのです。・・・・罪をおかしたままでは、すべての人は永遠にしななければなりません。しかし神さまは憐れみによって、イエス・キリストの十字架の死と復活により、永遠の命を私たちに与えられたのです。・・・・

わたしは教会へいってみたくなりましたので、一人のクリスチャンに頼んで、教会へ連れて行ってもらいました。そこでアスキューというアメリカ人の宣教師に巡り会いました。アスキュー先生は、イエス・キリストを通して愛してくださり、信仰に導いてくださいました。・・・

それ以来、母や他人を恨んでいた罪深さを悔い改め、その年のクリスマスにアスキュウ先生からバプテスマを受けました。それからの私は希望ある人生へとイエスさまによって変えられていきました。

ですから、この喜びの人生を心から感謝し、できるだけ多くの方々にお伝えすることが、わたしに与えられた使命だと信じております。

まだイエスさまを知らない方々に知っていただこうと、日本各地の教会などで証をさせていただきました。

・・・オーストラリア、ハワイ、韓国などにも行くことが出来ました。・・・体も不自由、言葉も不自由、お金もないものが、どこへも行けないとお思いでしょう。

実は私も、この世の常識で考えればやはり無理だと思うのです。しかし、神さまはすべての必要なものを与えてくださいました。・・・・・」


 実はまだ文章は続くのですけれども、長くなるので、この辺にしておきます。

山科さんは、足が癒されたわけではありませんでした。でも、彼は様々な人の助けを借りて、世界中を飛び回り、イエス様のことを伝えたのです。

これは、足が癒されなかったと言えるでしょうか。むしろあの「美しの門」の前にいた男性のように、癒され、飛び回って、神様を賛美しているのではないでしょうか。


その喜びを、山科さんはどうしても、伝えたい。

絶望の日々から、人を恨んでいた苦しみから、救われた喜び、永遠の命、復活の命に生かされる喜びを、伝えたいと、残りの人生を生きた。


ペトロとヨハネが、ユダヤの権威者たちに囲まれて、イエスの名によって、語ってはならないと脅されても、彼らはひるまず、

「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」といった、その同じ気持ちを、同じ聖霊の導きを、山科さんのなかに、感じます。


そして、今ここにつどうわたしたちにも、同じ聖霊の導きを、感じます。

私たちも、この自分を愛し、救ってくださる、主イエスの名を、語らないわけにはいかないのです。

希望もなく、むなしくいきる人々に、伝えないわけにはいかないのです。

語るなと言われれば言われるほど、語りたい。人にしたがうのではなく、人を愛し、救ってくださる、神にこそ、わたしたちは従いたいのです。。


さて、途中で区切ってしまいましたが、山科さんの証は、最後に、ちょっとユニークな終わりかたをしています。

その最後の部分を読んで、メッセージを終わます。



「さて、ここでちょっと話は変わりますが、わたしは最近までウナギが嫌いで食べることが出来ませんでした。

いいえ、食べようとしませんでした。

(ところが)私はある日のこと、空腹のため、たまらなくなって、嫌いなウナギを食べました。
 それからというもの、私はウナギが食べられるというどころではなく、大好物になりました。
 そうです。わたしは食べず嫌いだったのです。食べもしないで嫌いだと言っていたのです。
この証をお読みなっているあなたも、神さまを知ろうとしないで「神はいない」といっているかもしれませんけれども、神さまはあなたの罪を赦すために、神の独り子イエス・キリストを十字架につけられました。

あながたどうであっても、神さまはあなたを愛しています。
どうか好きとか嫌いとか言う前に、あなたの心を開いてください。

私たちクリスチャンは、み言葉である聖書を「食べる」と言っています。あなたも食べず嫌いをしないで、聖書のみ言葉を食べ、今日から主イエス・キリストを自分の救い主として信じられるよう、お祈りいたします。」