「新しい救いの約束」(2017年3月5日花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書22章14節〜23節

 今日は素晴らしい青空の日曜日となりました。でも、まだ、寒暖の差が激しいですし、学校に勤めている妻によると、また、学校でインフルエンザが流行りだしているというので、わたしは去年のクリスマスの悪夢(インフルエンザに罹ってしまいクリスマス礼拝をお休みしたこと)を思い出してしまって、体調管理に気を付けないとと、緊張しているわけです。

 目に見えない神を信じる私たちですけれども、そのわたしたちは、目に見える体をまとっています。
 痛みや苦しみを感じる、弱く限界ある体、肉体をわたしたちはまとっている。

目に見えない神を信じ、目に見えないところに、永遠の価値を見出している私たちですけれども、

同時に、そのわたしたちは目に見える肉体の弱さを、痛みを感じる存在です。

先週から、わたしたちの教会員のNが、入院しておられます。主が体の苦しみを超えた平安を、神の平安を与えていてくださいますようにと、祈ってください。共に寄り添っておられる、奥様のためにもお祈りください。

心は燃えていても、肉体は弱いと、主イエスは言われました。

そして、その人間が抱えている、体の弱さを、痛みを、苦しみを、神の子は、誰よりも知っていてくださるお方として、

この地上に、人として生まれ、十字架の死、受難への道を歩んでくださいました。

3月1日から、主イエスの受難、苦しみを覚える「受難節」に入っています。


先ほど朗読されたみ言葉は、主イエスと弟子たちの最後の晩餐の箇所でした。

今日は、月に一度の、「主の晩餐式」がこのあと行われますので、今日の主イエスの言葉は、皆さんもよくご存じのことと思います。

ただ、いつも晩餐式で読まれる聖書の箇所は、使徒パウロが受け継いで、手紙の中に書き記した言葉なので、このルカの福音書の主イエスのことばとは、少し違うところがあります。

特に、今日のみ言葉の中で、主イエスは不思議なことを言われているでしょう。16節と18節です。

16節
「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」
18節
「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」

この主イエスの言葉は、ルカの福音書にしか出てこないのです。

主イエスは、これからご自分の肉体、体に苦しみを受ける。十字架につけられ、血を流され、死んでいかれる。

その主イエスの肉体の苦しみは、私たちへの、神の裁きが過ぎ越されるための、犠牲の小羊なのだ。

そうルカの福音書は語ります。

 その昔、エジプトの奴隷だった神の民イスラエルは、神によって、エジプトから脱出する。

その日、神の裁きがエジプトにくだされるなか、その裁きを過ぎ超して、神の民イスラエルが脱出するために、小羊が屠られ、その流された血が家の鴨居に塗られた。

小羊の血が塗られたイスラエルの家だけは、神の裁きが過ぎ超された。

そして、急いで逃げるために、パンは、イースト菌を入れない種いれぬパンを素早く焼いて食べた。

イスラエルは、この神の救いを忘れないように、毎年この「過越の食事」を守っていた。

過ぎ越し。それは、エジプトからの脱出。奴隷からの解放。

この神の救いを覚え続け、子ども達に語り伝えたのが、毎年繰り返された、過ぎ越しの祭りであり、過ぎ越しの食事。

この過ぎ越しの食事が、いわば過去の、神の救いを覚えることだとすれば、

今日の箇所で、イエス様が弟子達に語っている、過ぎ越し、神の救いは、過去のことではありません。

神の国で過越が成し遂げられる」とか「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲まない」と主イエスがいわれているのは、これは、明らかに未来の出来事です。

やがて実現する神の救い。救いの完成の事柄です。やがてこの世界は、完全に救われる、そういう終末の救いがあるのだ。終末の過越があるのだ。

ここに、ポイントがあります。今を生きる、わたしたちの希望があります。

今、この世界が、未だに、なにか大きな悪いものの力によって、束縛され、支配され、人々が奴隷のように苦しめられているように見えるとしても、

約2000年前に、主イエスがその肉体に苦しみを負い、血を流し、肉を裂くことで、

この世界に蒔かれた、神の国の小さな命の種は、

やがて大きく育ち、最終的には、神の国は完成する時がくる。

最終的な神の救いがある。主イエスは、もう一度来られて、わたしたちの罪を過ぎ越して、神の国に入ってくださる日がくる。

そして、その神の国、天の国で、主イエス様と一緒に、パンとブドウの杯で、祝宴をあげる喜びの日がくる。

そういう、終末の希望を、この最後の晩餐の、主イエスの言葉から、わたしたちは読み取りたいのです。


昔、イスラエルの民を、エジプトの奴隷から、過越によって、解放した主は、

やがて終わりの日に、神の小羊である主イエスの犠牲のゆえに、

主イエスが流された血と、裂かれた、そのからだのゆえに、

神の裁きから、わたしたちを永遠に過ぎ超し、完全なる神の国へと、招き入れ、

わたしたちは、主イエスと共に、パンとぶどうの杯で、喜びの祝宴をあげる。

主イエスは、その喜びの祝宴の日が来るまでは、過ぎ越しの食事も、ぶどうから作ったものも飲まない。

断食と断酒をして、その喜びの祝宴を迎えるのだ。

ここに断固たる、神の国への希望を見ます。

目の前の救い。一時的な過ぎ去る救いではない、究極的な救い。

肉体の弱さと限界を抱え、罪に縛られてしまっている私たちを、

この、究極的な救いに招こうとなさる、断固たる主イエスの決意。

一緒に神の国で喜び合いたいのだと、招く、主イエスの決意を、わたしはここから読み取ります。

私たちの救いは、この肉体の弱さを超え、地上の人生を超えた先にある、神の国で迎える祝宴にあるのです。


ただ、その喜びの祝宴に至るためには、どうしても通らなければならない苦しみの道を、主イエスは今、歩んでおられるのです。


主イエスは、15節で言われます。

「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と。


主イエスは、ご自分が、犠牲の小羊として、やがて「苦しみを受ける」ことを、覚悟して言われます。

「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」のだと。

主イエスは、これからご自分が、肉体において苦しみを受けることを、覚悟なさっています。

そして、主イエスが経験する、肉体の苦しみのわけを、十字架のわけを、弟子達に伝えようとなさっている。

ここで伝えなければ、もう後はチャンスがないからです。もしここで、やがてご自分が流すことになる血と、突き刺される体が、あなたがたを永遠に生かし、神の国へ招く、

神の新しい救いの約束であることを、今、ここで伝えなければ、

この後、怒涛のように、巻き込まれていく、人間の罪のゆえの、裏切り、逮捕、裁判、むち打ち、十字架が、

いったいなんだったのか。弟子たちも、わたしたちも永遠にわからなかったはずだから。

主イエスの苦しみの意味が、弟子達に、そして2000年後に生きる、わたしたちに、

この晩餐の出来事がなければ、決して分かるわけがなかったはずなのです。

あの主イエスの絶望が、苦しみが、わたしたちを救う、神の救いであったという、この逆説は、

この最後の晩餐の経験があったからこそ、この主イエスの言葉を思い起こしたからこそ、弟子達はのちに悟っていった。

そしてそれは、現代を生きるわたしたちも、月に一度、このあと行う、主の晩餐の式を通して、

いつもいつも、主イエスの十字架の苦しみの意味を、

そこに秘められていた、神の救いの意味を、思い起こすのです。

ますます、悪と暴力による支配が強まっているように見える、この世界のなかで、

しかし、必ず神の救いはやってくる。実現する。神の過越の日が来る。

そして、神の国で、主イエスと共に、過越の食事を、喜びの食事会、祝宴をするのだ。

神の御子、主イエスが、血を流し、肉を裂かれたゆえに、この希望は必ず実現する。

その希望を、私たちは毎月の晩餐式において、思い起こし、勇気をいただいて、歩みだしていくのです。


しかし、主イエスを囲む最後の晩餐の席には、やがて主イエスを裏切る弟子もいたのです。

主イエスは、その弟子が、ご自分を売り渡すことを知っていました。

22節にこうあります。
「人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」

 主イエスはその弟子の名前を言いません。わたしたちはこれは「ユダ」のことだと知っています。でも主イエスは名前を言いません。

なぜなら、これはユダだけの問題ではないからではないでしょうか。

このあと、「だれがいったいそんなことをしているのか」と、議論を始めた、弟子達すべての問題ではないでしょうか。なぜなら、この後、全員が主イエスを見捨てて逃げたのです。

そういう意味で、弟子たちすべてが、主イエスを裏切る者。不幸な者なのです。

そうであるからこそ、主イエスは、ここで弟子達すべてに向かい、

「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約」なのだと、杯を回された。

この主イエスの犠牲の血を必要としない人は、この世界にただ一人もいないのです。

これはユダだけの問題ではありません。私たちすべてが、人間という存在そのものが、どうしようもなく抱えている、罪の問題です。

罪の赦し。その赦しには、どうしても主イエスの命が、必要なのだ。

どうしても、私たちは、主イエスの血と、体、そのいのちのパンを、いただかなければ、わたしたちは、不幸な者なのだ。

わたしたちは、どうしても、この主イエスの命を、いただかなければ、本当の意味で、幸いな者として生きられない。

そのことに、あらためて、気づき、主イエスの命を、いただくものとなりたいのです。


.小羊を屠って食べる話。

主イエスの命をいただくということを、具体的にイメージするために、一つの話をさせてください。

 北海道の自然の中で、悩める若者たちが立ち直っていくために、共に農業をしたり動物を飼いながら共同生活をする、「恵泉塾」というキリスト教系の施設があるのです。

 たった一度のあなたの人生をどう生きたらよいのか、「聖書」を基にして一緒に考え、それもただ、一人で頭の中だけで考えるのではなく、異なる人々と共に暮らす「生活訓練」や、具体的に自分の生活を支える「労働」を通して、「体で考え」語り合い、生き方の「改善を図る」のだそうです。

クリスチャンで、元、高校教師、水谷けいしんという方が始めたのですが、その水谷先生が書かれた本のなかに、主の晩餐の意味を改めて考えさせてくれる、こんな言葉が記されていました。

少しご紹介します。

「皆さんが遊びにいらしたときには、山羊を一頭つぶしてごちそうしたいのです。

 私たちが肉を食べるとき、実はそれは、生きていたわけですね。名前は、花子と言うんです。私たちは、四年間育ててきました。つぶらな瞳で、鼻をクンクン言わせながらすり寄ってきます。小屋から出し、飛び跳ねる彼女を山に連れていって放牧し、夕方に連れて帰るのです。戦時中に、山羊を飼っていたお寺のご住職が、こんなことを言っていました。「山羊は可愛いですよ、もう本当に。草むしりをしていると、前足でだっこしろと言って背中に乗って来る。本当に可愛い」。やはり、動物を飼った人ですね。分かる気がします。そういうふうに、動物は、私たちの世話に対して、喜びを体いっぱいで表現し、そして、生きているんです。

 そんな花子をつぶして、みなさんに食べさせます。私たちは、もうグッと胸が詰まって食べられません。「花子よ、おまえ、こんな姿になって」。

 でも、私たちは、いつも、そのような、命のあったものをお皿に盛って食べているんです。スーパーでは肉の固まりになっていますから、命の価値が分かりません。

 イエス・キリストはまさに、そのようにして死なれたということです。あの方は生きておられたんですよ。愛してくださったんです。三十数年の人生を、本当の苦労なさって、その挙句、私たちのために命を提供なさったんです。

 私たちは、十字架というと、シンボルみたいに、胸や耳にぶら下げて。それは何かきれいごとでしょ。しかし、違うんじゃないですか。十字架というのは、もっと血なまぐさいものでしょ。イエス・キリストの犠牲というのは、山羊の花子です。私たちは、それを食べなければ生きていけない。「これはあなたがたのためのわたしの体である。あなたがたが生き延びるために、私が必要で、私は食べられたくて生まれてきたんだ。食べなさい」。

 どうでしょう。私たちの信仰は、なにか頭の中だけの観念になっていないかと、問われるような言葉です。

 神の愛とか神の恵みと、一口でいうけれども、心血注いで愛し育てた命を、つぶさなければわからない愛がある。

わたしたちはだれもが、そうやって、命をいただかなければ生きられない。そうまでして、生かされている。

そのことを改めて深く、深く思う。

 主イエスは、私たちに、神のいのちを、永遠の命を与えるために、そのいのちをつぶされていく、神の小羊でありました。


 やがて、そこまで愛を注いでくださるお方を、弟子たちはすべて捨て去り逃げ去っていく。

 その弟子たちすべてと、もちろんユダをも含めて、主イエス

「あなた方と一緒に、この過越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた」といってくださり、

ご自分を見捨てて裏切っていく、一人一人に、

「これはあなた方のために与えられるわたしの体」
「これはあなた方のために流される、わたしの血による、新しい契約だ」と、神の命を注いでくださいました。


今、ここに集う私たち一人一人が、どれほど自分に失望していても、希望なくさまよっているとしても、

いや、むしろそうであるならなおのこと、主イエスは私たちを、この晩餐に招き、語ってくださるはず。

「これはあなた方のために与えられるわたしの体」だ。

「これはあなた方のために流される、わたしの血による、新しい契約だ」

これを食べ、生きるのだと。


今、主はわたしたちを招いておられるのです。