「いつものようにいつもの場所で」(2017年3月19日 花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書22:39-46
 今日も、いつものように、いつもの場所で共に祈るために集まってきました。
 先週はそれぞれ、どのような一週間を過ごされたでしょう。何回笑いましたか。怒ったこと、泣いたこともあったでしょうか。
 私は先週の休みの日に、突然、「最近、笑ってないなぁ。そうだ、寄席にいって笑ってこよう」と思いついて、新宿の末広亭に行ったんです。
 平日の昼間だったのに、お年寄りの方だけじゃなくて、結構若い方もおられたので、「みなさん、どんな仕事しているのかな、とちょっと思いましたけれど、でも、それぞれに笑いたくて、ここにきているんだろうなぁ」と思っていたわけです。
 新宿末広亭って、真ん中の客席の両脇が、ちょっと高い、座敷になっているんです。その座敷の席は、畳に座布団で、真ん中の椅子席に座っている人に向かって座るわけですね。そして顔だけは舞台を向いて、噺家さんの話を聞くわけです。
でも、正面をむけば、ちょっと上から、客席に座っている人の顔がよく見えるわけです。
 するとですね、噺家の話を聞いて、大笑いしている人のなかに、うつむいて寝ている人や、スマフォの画面を見ている人や、腕組みして機嫌悪そうにしている人の顔を見えるんですよ。
あの人、いつ笑うんだろうって、そっちのほうが気になってしまって、みんながお笑いするたびに、その人の顔を確認してしまいました。
最後まで、笑わなかったですよ、その方。やがて、うつむいて寝てしまいました。

なぜ、寄席に来たのだろうって、いろいろ考えてしまいます。

笑いに来たはずなのに、笑いたいから来たはずなのに、噺家さんの話を聞いても、笑えない。言葉が、心に入ってこないということなのだろうか。

 なにか素直に聴けなくなっているんだろうか。心の耳が、固く閉じてしまっているんだろうか。

 いろいろ考えさせられます。

 さて、わたしたちの教会の、今年度のテーマは、週報の一面にいつも書かれていますけれども、

「神に聞き、互いに聞き合う仲間」ではないですか。

 神に聞き、互いに聞く。

 この礼拝は、共に神の言葉を聞くために集って、主イエス語られる、神の言葉に、耳を傾ける現場。

そしてここで出合った、お互いの言葉に聞きあい、出会っていくのが教会。


ただそうはいっても、本当の意味で「聞く」ということは、簡単なようで、実は難しいことではないでしょうか。

いや、「聞く」ことは簡単。むしろ「話す」ほうが難しいと思われるでしょうか。

でも、よく考えてみてほしいのです。

「話す」ことは、心に平安がなくても出来る。むしろ人は、心が穏やかでないから、「話しつづけ」ることもある。

しかし、「聞く」という行為は、聞く人の心が安定していないと出来ないことではないですか。

内面が安定していないと、つい、なにか自分も、話したくなってしまうでしょう。イライラしていたら、じっと人の話を聞くことは難しいでしょう。

「聴く」という行為は、相手を、自分の心のうちに、招き入れることであり、受け止めようとすること。

それは、その人の心に、その隙間がないと、「聞く」ことは難しい。


神の言葉に聴くことも、そうでしょう。神を自分の心のうちに、招き入れるということなのだから。

そしてそれこそ、「祈り」の本質。「祈り」とは、天の親である神を、自分のうちに招き入れて、語り合う、愛の交わり、交流、コミュニケーション。それが「祈り」です。

そういう意味で、本当の祈りとは、自分は心を閉ざして、一方的に言いたいことを、神にぶつける独り言ではなくて、

自分の心を開いて、弱さもすべてさらしてなされる、天の父と子との、交わりこそが、本当の「祈り」であるわけです。


今日、朗読されたみ言葉において、主イエスはまさに、その「祈り」をオリーブ山でしておられる。

天の父に心を開く、真実なる交わりの姿、真実なる祈りの姿。

それが人の目には、乱れた姿、みっともない姿、弱々しく恐れおののいている姿に見えたとしても、

主イエスは隠すことなく、弟子たちにその姿を、見せてくださったのです。


 この主イエスの必死な祈りは、よく「ゲッセマネの祈り」と呼ばれます。それは、この場所が「ゲッセマネ」という場所だったと、マタイとマルコの福音書には記されているからです。

ところが、このルカの福音書だけは、「ゲッセマネ」とは言わずに、「いつものようにオリーブ山」で祈ったと書いています。「ゲッセマネ」という場所をルカは知らなかったわけではないでしょう。あえて、「オリーブ山」とルカはいうのです。

少し前の箇所で、主イエスは、エルサレムに入場したあと、、毎日、昼は神殿で教え、夜はこの場所で過ごされたとルカは書きます。

おそらく毎夜、オリーブ山のこの場所に来ておられた主イエス。そして最後の夜、その場所に弟子たちもつれて、一緒に祈りにきたのです。

それにしても、ルカの福音書は、「ゲッセマネ」ではなく、これは「オリーブ山」の祈りなのだと強調するのはなぜなのでしょう。

振り返ってみれば、主イエスが「山」で祈る場面は、とても重要なメッセージがそこにありました。

たとえば、大切な12人の弟子を選ぶとき、「山」に登り、祈られたとルカは書いています。

そして、3人の弟子だけを連れて、祈るために山に登ったこともありました。

そこでは、主イエスのお姿が真っ白に光り輝く「神の栄光」の姿を、弟子たちにお見せになったのです。

さて、そう考えると、今日のみ言葉において、ルカが、この最後の祈りの現場は、オリーブ山だったのだと語ることの意味を、受け取ることができるのではないでしょうか。

つまり、主イエスは、あの光り輝く姿を見せてくださった時と同じように、今、弟子たちつれて、「山」において祈ろうとしておられる。

あの「神の栄光」を現してくださった、あのときの祈りを、主イエスは祈られる。

まさに、「神の栄光」の姿を、弟子達に見せるために。



しかし、その「神の栄光」の姿とはとは、

弟子たちや、群衆たちが望んでいた、光り輝く、王の姿ではなかったのです。

まさに、人の弱さ、惨めさをさらけ出し、血のしたたりのような、汗を、ぼたぼたと流し、みっともなくも、出来ることならこの杯を、苦しみを取りのけてくださいと、祈るという、このみじめな祈りのなかにこそ、「神の栄光」は表わされていたのです。

この人の目には、弱く、みっともなく、惨めにみえる祈りを、

「あえて」弟子達の前にさらすようにして、主イエスは、見せてくださったのだ。

「神の栄光」の現れとして、「神の子」にしか祈れない、本物の祈りを祈っておられる。

「神の救い」を巡って格闘する、神の子の祈りの姿を、見せてくださっている。

これこそ、逆説的な「神の栄光」の姿。

それが、ルカの福音書がこの場所のことを、「ゲッセマネ」とは呼ばずに、「オリーブ山」と呼んでいる意味ではないかと、私は受け取っています。


 主イエスは、その活動の最初から、悪魔の誘惑を受けてきました。

神の御心に従い、苦しみの道、十字架の道に向かうことを阻む誘惑を、受け続けてきました。

その最後の最後に、今、主イエスは、決定的に、悪魔の誘惑と戦っておられる。これは祈りの格闘なのです。

「誘惑に陥らないように祈りなさい」と弟子たちに言われた主イエスは、まさにご自分が今、その誘惑と戦い、激しい祈りをなさっている。

十字架の上に、ご自分の血を流すという、杯を、人々を救うこの杯を、

取りのけてほしいとさえ、祈らずにはおらないほどのはげしい誘惑と、戦っておられる。

そして最後の最後に、「わたしの願いではなく、御心のままに」と祈るにいたった、祈りの戦い、格闘の姿。

ひざまずき、苦しみ悶え、汗が血の滴るように地面に落ちるほどの、格闘の祈りの姿に、

実に「神の栄光」の姿があらわれ出でている。

しかし、この時、弟子たちは、この主イエスのお姿に「神の栄光」を見ることなどできなかった。

ただ、この主イエスの祈りの姿をみて、悲しみの果てに寝てしまったのです。

当時のユダヤ人の祈りは、立ったまま天を見上げて祈るのがふつうであったのに、

主イエスは、みじめにもひざまずき、命乞いをするような、祈りをしている。

そのように、弟子たちは、主イエスの祈りの姿に、悲しみと失望を感じたのではないか。

これから、ローマ帝国と戦う、その力ある指導者であるお方が、

ひざまずいて、無様にももだえ苦しみ、泣き言を連ねるような、祈りをしているその姿に、

弟子たちは、失望し悲しみ、寝てしまったのではないか。


人は、自分の期待はずれな話を聞かされつづけるとき、つまらなさゆえに、眠りこむものです。

関心のない授業。関心のない映画を見て、眠り込むことは、わたしたちも経験があるでしょう。

弟子たちは、主イエスの祈りに付き合うことができず、眠ってしまった。

ローマと戦うという関心。自分の願い、自分の思いで、心がいっぱいの弟子たちにとって、

この主イエスの祈りの姿は、退屈で眠り込むような出来事だったのではないか。

自分の関心、自分の問題、自分の悲しみで、心がいっぱいの時には、たとえ寄席にいって、プロフェッショナルな噺家の話を聞いたとしても、心の耳が閉ざされて、眠り込むことができるように。

神の働きが、そこでなされているのに、神がまさに、ここにおいて、栄光をあらわしているのに、

自分の思い、自分の悲しみで、心がいっぱいで、眠り込んでしまった弟子たち。


 誘惑とはつまり、自分の思いでいっぱいになって、神の御心に対して、心の耳と目が閉ざされることだから。

心が閉ざされ、神に対し、神の御心に対し、なんの関心もなく、眠り込んでしまう。

それほど、自分自身の問題、自分の悲しみに、捕えられてしまう。ここに誘惑の本質があるのです。

このことに関して、ひとつのエピソードを、引用させてください。

 神学者の加藤常昭さんが書いた「祈り」という著書の冒頭に、ドイツの霊的な指導者、クリストフ・ブルームハルトのエピソードが紹介されています。

おそらく、100年以上前の話として、時代と文化の違いも踏まえて、聞いていただければと思いますけれども、こんなお話です。

ある集会で、ブルームハルト牧師と、ある女性が対話をしていた。それを見ていた人の、記録です。

集会場のホールにいた女性に、ブルームハルト牧師は、語りかけます。

「いったいなにを悩んでおられるのかね」

女性は答えました。

「おお、牧師さま、私は、地上に地獄を得ています」

「いったい、どんな地獄かね」

「夫です、夫ですよ、地獄は」

「その男がどうかしたのかね」

「ひどい酒飲みなのです。夜になって酔っぱらいますと、私の髪の毛をつかんで引きずり回し、踏んづけたりするのです」

「あなたは、そのとき、どうします」

「屋根裏に昇って行って、ひざまずいて、わたしの主である神様に向かって叫びます。こんなみじめな私を見ていてくださいますか。どうぞ、助けてください! 何時間かひざまずいていることもあります」

ブルームハルト先生は、きわめて厳格に、こういわれました。

「まず、そのばかげた祈りを止めなさい」

女性はとてもびっくりして言いました。

「牧師さま、絶対に祈ってはいけませんか。そうしたら、私にできることは、何が残っているのですか」

ブルームハルト先生は、きっぱりといわれました。

「よろしいか、そのばかげた祈りをすぐに止しなさい! それが第一のことです。それから、あなたがなにをしなければならないのか、きちんと言っておきます。今すぐ家に帰って、子どもの世話をして、家事をこなし、家畜小屋の家畜を世話し、畑も放牧地も自分で面倒をみなさい。その男のことには、構わないようにしなさい」

「先生、そんなことを言われてもわたしたちは結婚しているんですよ」

「あなたが結婚したのは、そんな酒飲みとではないでしょう。とにかく、わたしが言った通りにしなさい。だが、もう一度言います。そのばかげた祈りはすぐにやめなさい」

女が出て行ったあとで、わたしはたずねました。

「先生、なぜ祈りを禁じられたのですか。」

そうしたら、ブルームハルト先生は、ひどく驚いて、私を見つめられました。
「君も、そこまで愚かなのか」という問いが読み取れるような目つきをされました。そしていわれました。

「そうだね、あの女性がしていることを、君は祈りと呼びますか。祈りというのは、とにもかくにも、自分の悩みをすべて、自分からふるい落とすようにして、神を待つことです。しかし、あの女性が屋根裏で何時間もひざまずいているとき、じっと見つめ続けているのは、自分のみじめさだけです。自分のみじめさだけを見つめているだけならば、ますますみじめになるだけです。あの人が屋根裏から降りてくるときは、昇った時より、なおみじめになっているでしょう。
まず、学ばなければならないのは、自分のみじめさだけを見つめることをやめるということです」

以上です。


さて、主イエスの弟子たちも、ここで主イエスと共に祈っていたはずです。

「誘惑に陥らないように祈りなさい」といわれたのですから。

しかし、弟子たちの祈りは、悲しみの果てに眠り込んでしまう祈りでした。

自分の悲しみだけを見つめ、問題だけをみつめる、自己憐憫の祈りは、

神の御心に対して、目をつぶってしまう祈り。眠りこんでしまう祈り。


自分の問題、課題、苦しみに、心がいっぱいで、

神がその状況の中に、共におられることも、その状況の中にしめされている神の御心にも、

目が閉じて、眠り込んでしまう祈り。

それが弟子たちの祈りであり、わたしたちもまた、そのような存在ではないでしょうか。


自分の問題で、心がいっぱいで、眠り込んでしまった弟子たちは、まさに、その自分の思いで心がいっぱいになっていたからこそ、主イエスを見捨てて、一目散に、逃げ去ることができたのです。

しかし、わたしたちは、彼らを笑えない。私たちも、また自分の思いで心いっぱいになり、

神の御心など、関心もなく、眠り込んでしまう、そんな弟子たちと同じ人間であるはずです。

あの屋根裏で、自分のみじめさばかりを見つめてしまった、女性と、わたしたちは、それほど変わらないはずです。

そんな弟子たち、そして、私たちであるにも関わらず、なお、

私たちの信仰が、祈りが、失われないとすれば、

それは、私たちの努力によるのではなく、主イエスが祈ってくださったからに、ほかならないのです。

先週の礼拝で、Tさんが取り次いでくださった、主イエスの言葉に、こうありました。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」のだと。

この主イエスの祈りに、わたしたちは、今、支えられて、信仰が与えられ、守られているのです。

「いったい、この自分には、信仰があるのだろうか」
そうおもう瞬間が、私たちの誰にもあるでしょう。

神を信じて歩む日々にも、時に、砂をかむような、むなしい日々が、祈りさえも、眠くなってしまう、そんな空虚さを、感じることがあるでしょう。


大きな、目の前の問題、苦しみ、悲しみにとらわれて、祈りにされ、失望してしまうことが、あるでしょう。

しかし、そうであっても、いや、そうであるからこそ、主イエスは、

「あなた方の信仰がなくならないように祈った」と言ってくださり、

その祈りを、もっとも激しい祈りを、わたしたちのために、ここで祈ってくださった。

この主イエスの祈りは、ご自分の命を救いたいという、祈りなどではなく、

やがて裏切っていく弟子たちを、すべての人々を、どうしても救いたいと願われる、神の愛の御心を、

主イエスは、ご自分の身に引き受けようと、必死に祈られた祈り。「神の栄光」の祈りなのですから。


眠り込んでしまった弟子たち、そして、同じように、神の御心に対して、眠り込んでばかりの、わたしたちの、


その「あなた方の信仰がなくならないように祈」られる、主イエスの必死なる、祈り。

こんな私たちのために、なお、神の救いが、神の御心が、おこなわれるようにと、祈られた祈り。

わたしたちは、この主イエスの、祈りに信仰を支えられ、守られ、愛されて、

今、ここに集わせていただいているのです。

ゆえに、わたしたちはこの、絶対的な安心感に立って、喜んで祈ります。

アバ父よ。天の父よと、神を呼びます。幼子のように、神に心を開き、

神の愛の言葉を聞いて、神に心のすべてをうちあけて、祈ります。

そして、でも、最後の最後には、わたしたちも主イエスと同じように、

「あなたの御心がなりますようにと」祈るのです。

それが、主イエスの必死な祈りで救われ、支えられているわたしたちにふさわしい

祈りなのですから。