「わたし息子よ」(7月17日花小金井キリスト教会夕礼拝メッセージ)

サムエル下18章31節〜19章1節

旧約聖書は、物語の宝庫です。今日まで何回かに渡って、イスラエルの王ダビデの生涯を追って聖書を読んできました。

前回は、長い試練の末にイスラエルの王となったダビデが、部下の妻バテシェバを奪い、その部下ウリアが戦死するように計らうという、ダビデの黒い部分を読みました。

そして今、読んだ箇所は、それからだいぶ時がたち、さまざまな出来事を経たあとの、出来事になります。


イスラエルの王ダビデは、敵アブサロムに命を狙われていた。そのアブサロムを、ダビデの兵が殺した。

それは本来、ダビデにとって良い知らせのはず。知らせをつげた使いは、そう信じて走ってきた。

しかし、実は、その敵であるアブサロムは、ダビデの息子であり、ここでダビデは王としてではなく、父として、息子アブサロムの死という、悲しい知らせを聞いたという出来事でありました。


ダビデの命をつけ狙っていた息子アブサロムは、40歳のときに、父に反旗を翻し、策略をねって、父ダビデ王を、エルサレムから追い出したのです。

そして、自分が王の立場にたち、にげだしたダビデの命をねらいつづけていたけれども、ダビデについていった兵士たちとの戦いのゆえ、アブサロムはダビデの兵によって殺される。

しかし、ダビデは自分の兵士たちには、息子アブサロムに手荒なまねはしないでほしいと、告げてはいたのです。ダビデはできれば息子アブサロムを生きたままとらえたかったのではないか。そういう思いが伝わってきます。

しかし、アブサロムは死んだ。その知らせを、部下は喜び勇んで、ダビデに届けた。それはダビデとともに逃げ回っていた兵士には喜びの知らせであるけれども、父ダビデには、悲しみの知らせとなった。

ダビデはこのとき、ダビデ王ではなくて、アブサロムの父、ダビデだったのです。。

「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがおまえに代わって死ねば良かった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」

そもそもなぜ、ダビデとアブサロムの親子関係が、こういう悲劇の結末を迎えなければならなかったのでしょう。

なぜ、息子アブサロムは、父ダビデへの反旗を翻すことになったのか。そこをすこし丁寧にお伝えしなければなりません。

すこし、ここに至るストーリーをお話させてください。

ダビデ王には4人の妻がいたのです。先週は、バトシェバとの不倫の話でしたけれども、そのバトシェバが4人目の妻となったのです。そのバトシェバとの間に、やがて次の王となるソロモンが生まれるのですけれども、それは次のお話となります。

ダビデには、そのほか、腹違いの息子たちがいたのです。長男をアムノンといいました。アブサロムは腹違いの弟なのです。

長男アムノンと弟アブサロムは、お母さんが違う異母兄弟。そして弟アブサロムには、同じお母さんから生まれた妹がいました。名前をタマルといいます。

タマルは美しい女性でした。この美しいタマルに、異母兄弟。長男の「アムノン」がたまらなく好きになってしまった。

でも、母が違うとはいえ、タマルは妹。ゆえに、兄アムノンは、その思いを心に秘めつづける。しかし、募る想いはどうにもならず、抑えきれずに、ある日、病気を装いタマルを呼び寄せて、力づくでアムノンはタマルを辱めてしまうのです。

ところがアムノンは、その直後に、あれほど熱中していた妹タマルを、憎悪するのです。憎み追い出すのです。

アムノンは、タマルを愛していたわけでもなんでもないのです。異母兄弟といえども、そのようなことが起こったことが知られれば、やはり面倒なことになる。

それで、思いを遂げたアムノンは、タマルを捨てたのでしょう。

タマルは絶望します。そして、同じ母をもつ兄。実の兄アブサロムのところに身を置かせてもらう。

アブサロムは妹タマルにいいます。

「今は何もいうな。彼はおまえの兄だ。このことを心に掛けてはならない」。アブサロムは妹タマルを諭す。

ダビデは、この出来事に、激しく怒ります。しかし、アブサロムは、ぐっとこらえるのです。兄アムノンにここではなにも抗議をしなかった。

しかし、聖書はその直後に、一言こう付け加えます。

「妹タマルを辱められ、アブサロムはアムノンを憎悪した」と

感情をすぐにあらわにする父ダビデと、気持ちをぐっと心に押し込めていく、アブサロムの違いが、この出来事の中に、垣間見えてきます。

アブサロムは心の内に、怒りや憎しみをため込んでいく。そういう人でした。

それは、父が、イスラエルの王であるということも、無関係ではないでしょう。

自分の父は絶対的な王なのです。そして、長男が後を次ぐことが期待される時代。その弟であるアブサロムの置かれた立場もまた、「ぐっと怒りや憎しみの思いを飲み込ませた」ことは想像できます。

そしてそれから2年もの間、アブサロムはその怒りをうちに秘め続けるのです。そしてある時、時と機会を得て、アブサロムは、アムノンへの復讐を果たす。

自分の手で、兄アムノンを殺すのです。

アムノンを殺したアブサロムは逃亡します。結局その後3年間、アブサロムはダビデの前から、逃げ、隠れることになります。

一方、父ダビデは、当初は長男アムノンの死を悼む。悲しみますけれども、やがて、あきらめのついたときに、父ダビデは、アブサロムへの思いを募らせていったのです。

なぜ、アブサロムは兄を殺したのか。その事情を、ダビデはわからなかったわけではないでしょう。妹タマルの仇を討ったのだと、ダビデもわかっていたでしょう。

しかし、そうはいっても、兄を殺したアブサロムを、そのまま王宮に連れ戻すわけにはいかない。そこは王さまのメンツがあったのでしょう。

ダビデは家臣に命じて、アブサロムを王宮の外にある、彼の家へと、連れ戻すように命じます。そしてアブサロムは、自分の家に戻ることができた。

しかし、アブサロムは、王の前にでることは許さなかったのです。ある意味、軟禁状態のように、家に閉じ込められていた。

その後、2年間、そういう状態だった。ある日、アブサロムは、ダビデの家臣の軍人ヨアブにこう告げました。

「なんのためにわたしは連れ戻されたのか。王にあいたい。私に罪があるなら、死刑にするが良い」

ダビデは、その権力をつかって、自分を連れ戻しておきながら、ただ、家に軟禁状態にしている。

あうことさえしない。そのアブサロムのイライラした気持ちが読みとれます。


ここに至ってやっとダビデは、アブサロムを呼び、彼は父である王の前にでることが許される。

それは、一見、親子の和解に見えた。しかし、そうではなかったのです。

アブサロムはその直後から、少しずつ反逆に向けて準備を始めます。人々の心をつかみ、自分の味方につけていく。そしてある日突然、アブサロムはダビデに反旗を翻し、私こそが王であると、父を追い出し、逃げた父の命をねらい始めるのです。


ここにいたる長いストーリーの中に、神は登場してきません。神が導かれたという表現は、いっさいありません。

あえていうならば、ダビデがバテシェバを奪うという罪を犯し、その罪を預言者ナタンから叱責された時に、ナタンはこう宣言しました。

「見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。」と

その預言者ナタンの宣言が、結果として、息子アブサロムの反逆となったということでしょう。

しかし、そのように、この反逆はダビデの罪の報いであるとしても、しかし、アブサロムは、ある日突然反逆したわけではないのです。

そこに至るまで、アブサロムは、父への怒りと憎しみを蓄積していった、プロセスがあったのです。そのプロセスを、聖書は実に丁寧に物語っていることの意味を、受け止めたいのです。

神様がダビデを罰すると、お決めになったので、アブサロムは、予定通りに反逆したという、単純な話として、聖書は物語ってはいないのです。

そうではなく、父ダビデと、息子アブサロムという親子関係の長いプロセスの中で、徐々に、息子アブサロムは、父ダビデへの怒りをためていったということのなかに、ダビデが背負わなければならない重荷があった。


息子アブサロムは、権力欲のゆえに、謀反をしたわけではない。何もしなくても、やがて彼は、王になれたはず。王位継承権からいえば、ソロモンよりアブサロムの方が上だったはずだから。

アブサロムの謀反は、権力を手に入れたいのではない。父への恨みであった。わたしはそう読みます。

そして、父ダビデは、息子アブサロムが突然反旗を翻した時、どう思ったのだろう。

あのバカ息子と、ダビデはアブサロムを、憎んだのだろうか。

そうではないのです。ダビデは息子アブサロムを愛していたのです。反逆した後も、自分の部下たちには、アブサロムに手荒なまねはしないでほしいと、いい続けていた。

そして、今日の御言葉では、死んだアブサロムの代わりに、自分が代わりに死んだらよかったとさえ言った。

そのダビデのアブサロムへの思いが、はっきりとことばとしてほとばしり出たのが、先ほど読まれた御言葉。

「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがおまえに代わって死ねば良かった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」


なぜ、そうであるなら、こういう悲しい結末を迎える前に、その父としての思いを、「おまえを愛しているのだ。おまえの代わりに、死んでもいいとさえ思っているのだ」というその気持ちを、アブサロム伝えることができなかったのか。

もし、罪の報いというならば、この父のまっすぐな思いを、息子に伝えられなかったことこそ、そうなのではないかと思う。

もし、アブサロムが兄アムノンを殺してしまったとき、ダビデがそうせずにおれなかった、アブサロムの心を理解してあげたなら、

そして、ダビデの前から逃げつづけていたアブサロムを、せっかく呼び寄せながら、2年間も放置してしまわず、

一言、わたしはおまえをゆるしている。愛していと、いってあげたなら、アブサロムの中の憎しみは、怒りは、消えていったのではないか。

歴史にもしはありません。そういう意味で、ナタンが預言の通りに、アブサロムは、ダビデに逆らう者となった、ということです。

罪の報いとは、ダビデが本当の気持ちを、まっすぐに息子に伝えられずに、心が離れていくという悲しみの報い。


ああ、あの、羊飼いをしていたころのダビデは、実に自由に、いきいきと、伸び伸びと生きていたのに。

自分は鎧なんていらないと、石投げひもだけで、ゴリアトと戦ったあのダビデは、いま、ここにはいない。

イスラエルの王の立場が、まっすぐだったダビデの心に影を落とした。息子を反逆させるまで、追いつめる父となってしまった。


息子アブサロムをここまで追いつめ、死なせてしまう前に、おまえの代わりに、私が死ねばよかった。

王であるまえに、お前を愛する、父であるべきだった。

ダビデは今、深い後悔と悲しみの涙を流している。

このダビデの涙は、すべて息子を持つ父に問いかけてくる涙でしょう。


わたしも、牧師である前に、こどもたちの父であるか問われていると思います。

仕事や、立場に逃げず、子どもに伝えなければならない言葉を、こどもが聞かなければならない言葉を、伝えたい。

主イエスは、私たちは、天の父が愛している神の子であると、教えてくださったから。

神を、天の父よと、呼ぶようにと、教えてくださったから。

あの放蕩息子のたとえ話を通して、天の父は、息子の帰りを信じて待ちづづけ、帰ってきたなら、抱きよせ、くちづけし、宴会を開いて喜ぶ父だ、天の父だと教えてくださったから。

わたしたちは、だれもが、どんな立場であるかよりまえに、神の子なのだ。天の父の子なのだと、教えてくださったから。

「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ」と、天の父の愛のことばを、わたしたちは聞いている、神の子だから。

愛のことばを語らせなくさせる、罪の束縛から、主イエスの十字架は、わたしたちを解放して下さったから。


私たちは、愛のことばを語ります。

あなたを愛している。あなたはわたしにとって、大切な人なのだと、愛のことばを語りつづけるのです。