ルカによる福音書13章1節〜9節
今日のメッセージの題は、なんだか変な題でしょう。
実は、ひと月も前に、メッセージの題だけ先に決めてしまうのです。それをもとに、礼拝委員の方々と賛美歌の選曲をするからなんですが、ひと月たって、さてメッセージの準備を始めてみると、なぜ「そこをなんとか」としたのか、すっかり忘れてしまっていて、あらためて「へんな題をつけたなぁ」と、おもっているわけです。
「そこをなんとか」といったら、次に続くのは、「お願いします」でしょうね。つまり、「そこをなんとかお願いします」というでしょう。
今日のイエス様のたとえ話の中で、「いちじくの木を切り倒してしまえ」と息巻く主人に向かって、「御主人様、今年もそのままにしておいてください」「つまり、「そこをなんとか、今年一年待って下さい。」と懇願している、この園庭の姿が、今日のメッセージの中心であるわけです。
だれよりも、このイチジクのそばで、現場で、世話をしてきた園庭。
だれよりも、このいちじくの状況をよく知っている園庭。であるからこそ、この「切り倒せ」と息巻く主人に対して「そこをなんとか、待って下さい」と、とりなさずにはいられなかった。
この主人は、それでも3年待った。
でも、今わたしたちが生きている時代は、3か月も待ってはくれないんじゃないですか。すぐに結果を出せ。即戦力しか採用しない。業績だ、生産性だ。実らないものは切り捨てろ。
そういう世界にはまることのできない人は、どんどん居場所がなくなっている、殺伐とした時代ではないですか。
今、この日本に生きるわたしたちこそ、この「園庭」のような存在を、もっと身近に、必要としているのではないですか。
「なんだこいつは、ぜんぜん役に立たないじゃないか」と、息巻く社長に、
「そこをなんとか、ちょっとまってあげてください」「責任は私がとりますから」と言ってくれる上司。そんな上司がいてくれたら、幸いでしょう。
「彼には、こういう事情があるんですよ。わたしはよくこの人のことを知っていますから、だから大丈夫です。もう一年、待って下さいますか。」
そうやって、信じ、助け、とりなしてくれる存在が、誰にでも必要じゃないですか。
「いや、全部あいつが悪いんですよ。わたしはちゃんと言っておいたんですけどね。だからあれは使えないんですよ。やめさせた方がいいですよ」
そういう上司をもった部下はかわいそうじゃないですか。
むしろ、「そこをなんとか、まってあげてください。必ず実りますから。」そのように、信じ、支えてくれる人がそばにいる人は、幸いです。
たとえ、周りには、敵が満ちていても、一人でもそばにいて、自分を信じつづけ、待ち続け、愛という肥やしを与えてくれる存在がいたら、
絶望せずに、生きていけるはず。
さて、今日の御言葉を最初から読んでいきましょう。
実は、スキャンダラスなニュースがイエス様のところに飛び込んできた所から、今日のお話は始まったのです。群衆に話していた主イエスのところに、数人がやってきて、こう告げました。
1節
「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」
このニュースが、何を伝えているか、お分かりになるでしょうか。
そのピラトがガリラヤ人の血を、彼らのいけにえに混ぜた、とはどういうことか。
ユダヤのガリラヤ地方には、ローマの支配に抵抗する、革命家が沢山いたそうなのです。
そもそも、ユダヤにはヘロデという王がいるのに、ローマが総督をおいて直接統治をすることにしたのは、ガリラヤ出身のユダという男が、ローマへの反乱を起こしたのが、きっかけだったから。
ガリラヤという場所は、異邦人との辺境の地でもあったわけです。なので衝突もよくあったのでしょう。なので、ガリラヤという場所は、ローマへの反乱を企てる人が生まれる場所でもあった。ピラトはそういうローマへの反乱分子、指導者を探し出し、処分したという、そんなニュースであったわけです。
彼らは神殿で動物を捧げ、礼拝をしていたところを殺されたので、いけにえの血と、彼らの血が混じったといわれているわけです。
民間人を無差別に殺した、という話ではないのです。そんなことをすれば暴動になるでしょう。そうではなく、むしろユダヤ教の人々にとっても、「あいつらのやり方は、やりすぎだ」と、眉をひそめられていた、そういう過激派、反乱分子が殺害されたというニュースが飛び込んできたわけです。
それを聞いたユダヤの群衆たちは、どういう反応をしたのかといえば、
「あの反乱分子たちは、罪深かったので、あういう目にあった」と、切り捨てたわけです。
それは、主イエスの言葉から、わかります。
2節
「イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難にあったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深いものだったからだと思うのか』
「思うのか」と主イエスに言われたということは、そう思っていた、ということでしょう。
「あいつら、当然の報いだよ」「罪深い奴らだったからな」と、切り捨てたということです。
あえて批判と誤解をおそれずにいえば、今、沖縄で起こっていることに、なにか似ている。
外国の軍事基地をこれ以上作らせないと、座り込みをして抵抗している地元の人々がつかまったり、けがをしたというニュースを、
遠くの本土で聞いているわたしたちが、なにか遠くのことのように、切り捨ててしまったり、あそこまですることはないんじゃないのとか、切って裁いてしまったり。
罪深いとまでは、言わないけれど、日本の安全のためなんだから、わがままいうなとか、遠くからながめて言う人もいる。
不思議と、ガリラヤと沖縄が、エルサレムと東京が、イメージとして重なりあう時代ではないですか。
また、もうひとつ、イエス様は自然災害で死んだ人々のことも取り上げます。
4節「また、シロアムの搭が倒れて死んだあの一八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深いものだったと思うのか」と
その頃、シロアムの塔が倒れる事故があった。おそらく、地震でしょう。自然災害です。
これは、だれも悪くない、にもかかわらず、それによって亡くなった人は、罪深かったから死んだのだと、思っている人がいたのです。
信じられないけれども、そういう人がいたからこそ、イエス様はここであえて、その話をなさるわけでしょう。
今度は、このシロアムの搭と、わたしは、東北が重なってしまう。
5年前の東日本大震災の直後、当時の東京都知事はこう言いました。
「津波は、日本社会が 我欲を洗い流すための天罰」
きっと、彼の親戚も知り合いも、東北にいなかったのでしょう。
同じことを、キリスト教もやりました。
韓国のギネスブックに載るほど、人が集まる大きな教会の牧師はいいました。
「大地震は神の警告、日本が偶像礼拝から神に立ち返るチャンス」
いったい、どちから罪深いのでしょう。いったいだれこそが、神の警告を受けているのでしょう。
わたしは、あの時、このシロアムの搭と、東北が重なりました。
主イエスはいわれます。
5節
「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」
弱くされて、傷ついている人のその傷口に、塩を塗るようにして
「あの人たちは問題を抱えているのだ。だから仕方がない。当然の報いじゃないか」と、傷にさらに塩をぬって平気な、残酷さ。
非人間性。
罪深いというのなら、むしろそれこそ罪深い。
本来、神に似るものとして造られた人間なのに、
最初の人アダムが、エバが悪いんです。罪深いんですと裁き、エバはエバで、蛇がそそのかしたんですと、蛇のせいにする。
だれも自分の罪深さに気づかないまま、あの人が悪い、この人が罪深いと、いい募るだけなら、人類はやがて攻め合って、滅びていくにきまっているではないですか。
「この道を、力強く、前え」なんていって突き進んでいたら、人も国も滅びてしまう。
変えなければ、方向変換しなければ、
つまり、悔い改めなければ、
神の似姿に造られた、本当の自分を回復しなければ、
神が愛であるように、神を愛し、互いに愛する道へと、
つまり、悔い改めて、神に愛されている、神の子に、お互いが立ち返らなければ、
責め合っている世界のまま突き進めば、わたしたちは、この世界は、滅びてしまうではないですか。
「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」
そう主イエスは言われます。
責め合い、人を、切って裁いて切り捨てる世界は、いつかあなたを同じように、切って裁いて、切り捨てていく。
「滅びる」とは、神と人とのつながりから、切り離されることだから。
愛されること、つながることから、切り離されることこそ、もっとも恐ろしい「滅び」であるから。
神は、この世を滅びから救われるとは、神と人を、切り離す罪から、救うこと。
そのために、神と人、人と人とをつなげるために、主イエスはこの世に来てくださった。それこそが救い。
今、ここに無関係だった一人ひとりが、主イエスにおいて、一つの仲間となっている。神の霊。聖霊が働いて、心つながる仲間となっている。
この教会の存在こそ、滅びではなく救いの証。
もはや、わたしたちは切り離されない。滅びないという証。
そこから、続いて主イエスが語られた、いちじくのたとえ話を読むと、よくわかってくる。
実のならないいちじくなど、切り倒せという主人に、「そこをなんとか、まってください」ととりなし、つなげてくださる園庭がいてくださる。
この園庭こそ、主イエス。ここに「福音」があることが、見えてくる。
このいちじくは、なぜだかわからないけれども、ぶどう園に植えられているのです。まったくの場違いなのです。ぶどう園に求められているのは、ブドウでしょう。
いちじくなんて、必要ないのです。ぶどうを育てるために、いちじくが役だつという説もあるけれども、よくわからない。
いずれにしろ場違いには違いない。しかも、実らないいぢじく。
場違いの上に、3年も実らない。
これは、主人にいわれるまでもなく、いちじくが人間だとしたら、思うでしょう。自分は場違いの上に、何の役にも立たない、だめな存在だと。
ブドウ園という世界に、うまくはまれない上に、主人に喜ばれない、だめな存在だと。
無駄に土地をふさいでいるだけじゃないか。自分など、切り倒されても仕方がない。
いや、いっそ切り倒してほしい。死んでしまいたい。
このいちじくの心の声が、みなさんには聞こえてきますか。読みとれますか。
「切り倒してしまえ」と言われている、いちじくの心のうめき声が、悲しみの声が聞こえてきますか。
「いやわたしも、このいちじくとおんなじだ」
「わたしも、切り倒してしまえと、自分で自分にいいたい」
そんな苦しみを抱えて、今日、ぎりぎりの気持ちでここにおられる人がいるなら、
どうか「福音」のことばを聞いてください。
「今年もそのままにしておいてください」
と、信じてあなたを待っている、園庭がいること。
主イエスはあなたの味方であることを。
「肥やしをやってみましょう」
と、いつも良いものを与え、励ましつづけてくださる、主イエスはあなたの味方であることを。
「そうすれば、来年は実がなるかもしれません」
と、だれよりも、信じつづけてくださる主イエスは、
今、あなたの味方であることを。
最後に、
「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言われながらも、
実は、わたしたちの、罪の責任をご自分がすべて背負い、十字架のうえで、ご自分こそが切り倒されたお方がおられることを。
主イエス。神の愛があることを。
ご自分が切り倒される痛み、苦しみを味わわれ、
人間のすべての苦しみ、悲しみと連帯し、永遠にわたしたちとつながるお方となってくださった方がおられることを。
ゆえに、もう決して滅びない。切り離されない神とつながる命を、
愛を、与えてくださった主イエスの声を
わたしたちは、聖霊によって聞きとりつどった、仲間です。
先週の礼拝で、kさんが証をしてくださいました。
イエス様を信じて50年近い人生。主イエスと共に歩むことで、一つだけ言えることは、人生が豊かになったことですと、証してくださいました。
「豊」という名前の通りに、「豊かになった」のだと
それはいいことばかりの人生だったということではなく、沢山の喜びもあれば、悲しみも、苦しみも、痛みも、不安も、恐れも、葛藤も、
そのすべての体験が、主イエスのゆえに「豊か」なものとなったと感謝しておられる姿に、感動しました。
これこそ、「実り」ではないですか。人間が勝手に決めた「実り」ではない。
あの人たちは、罪深いから、ああなったとか、こうなったとか、そういう人間が勝手に決めた、いいこと、悪いこと。
役に立つとか役に立たないとか、そういう人間が勝手にきめた「実り」ではない。
そうではなく、人にはよくわからないこと、いいことも、わるいことも、なんでこんなことが、と思えることも、すべての喜びも悲しも、みんな主イエスによって、主イエスにあって、豊かな人生という「実り」になった。
「自分は本当に幸せものだ」といえる。この「実り」にまさる実りなど、どこにもないではないですか。
わたしたちが、主を信じる前に、主がわたしたちを信じ、忍耐し、み言葉の肥しを与え、さまざまな出会いと体験を与え、
わたしたちの人生の実りを、待っていてくださる。
ならば、わたしたちはいつか必ず、実を結ぶのです。
それは、自分が思い描いている「実り」などではなく、神の国の喜びという実りをこそ、わたしたちは豊かに実らせるはず。
主は、わたしたちを信じて、今日も待っていてくださる。
何度も失敗し、落ち込み、もうだめだとうつむく私たちを、
「大丈夫。もう一年まってくださいと、いってあげるから」と、支えてくださる主イエス。
その愛と忍耐を知ったわたしたちも、この園庭のようになりたい。
責め、切り捨て、弱くされた、人のために、
「そこをなんとか。待ってあげて下さいませんか」
「必ず実りますから。この人はいつか、必ず実るのですから。
大丈夫です。待って下さいませんか」と
とりなし祈り、
いつの日か、一緒に神の国の「実り」を、味わいたいのです。