「待ってもらっている」(2016年7月17日週報巻頭言)

東京にいた私たち家族が、山形の田舎町で家の教会を始めて数年たったころ、まだ家族だけの小さな教会に、不思議にも10代〜20代の若い人たちが入れ替わり立ち替わり出入りしていたことがありました。

ある高校生は、中学から学校にいけなくなり、高校生になったけれども、鬱で家にこもりきりの女の子でした。お母さんと一緒に教会を訪ねてきました。

またある日やってきた大学生の女の子も、中学のころ学校に行けなかった子でした。

また、地元では一番の進学校に進みながら、両親の離婚ゆえに大学受験できず、それいらい数年、家に引きこもっていた男性も教会にやってきました。

ほかにも何人も、生きづらさを抱えた20代の人たちが、小さな教会を見つけてやってきたのでした。それぞれに数か月から数年、礼拝や私たち家族との交わりを共にし、やがてそれぞれに社会のなかに居場所を見つけ、旅立っていきました。

 彼らとの出会いのなかで、わたしのいたらなさゆえに、彼らを傷つけてしまったこともありました。そういう出来事の中で、自分のかたくなな思いや考えが問われ、砕かれていきました。今思えば、実は神様から成長を待たれていたのは、自分だったのだと、やっと気づき始めています。

『園庭は答えた「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」』ルカ13:8

花小金井キリスト教
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