足を洗いあうとは

 毎週水曜日の午前中は、お祈り会。「ナウエンと読む福音書」を少しずつ読み進んでいます。

今日は、イエスさまが弟子の足を洗い、弟子たちにも互いに足を洗いあいなさいと告げた箇所を読みました。

そこで、今を生きる私たちにとって「足を洗いあう」とは、具体的にはなんでしょう、という話になって、

「仕えあうことかな」という声もでましたが、でも「仕えあう」といういい方も、なんだか抽象的ですね。

よく考えてみれば、足は汚れの溜まるところ。

だから、洗う方も、洗われる方も、相手への信頼と愛が必要です。

自分の弱さを、いい加減さ、汚れ。こんなことを知られたら、嫌われるんじゃないかと、恐れて隠している自分の「足の汚れ」

そんな「足の汚れ」を、イエスさまはすべてご存じで、洗ってくださった。ゆるしてくださった。それを信じて、互いに足を洗いあうのが、教会の仲間

そうであるなら、お互い同士、「実は、こんな自分なんです」と、「汚れた足」を相手に差し出し、洗いあえれば素晴らしい。

「足を洗う」とは、すなわち ゆるし。神は主イエスにおいて、わたしたちの「足の汚れ」をすべて知り、ゆるしてくださっている。

相手の話を聞いたうえで、ゆるしを伝えてあげる。神はあなたをゆるしている。そのことを伝えてあげる。

それが「足を洗いあうこと」なんじゃないかと、わたしは思います。

カトリックでは、神父による告解という制度があって、神父に罪を告白し、ゆるしの宣言を受けるというものがあるのだけれど、

プロテスタントには、そういう伝統がないんですよね。

エスさまが言われた「互いに足を洗いあう」仲間。ゆるしと癒しのコミュニティーに憧れます。

そして、今日のお祈り会の交わりは、一瞬、そんなコミュニティーに近づいた気がして、嬉しかったのでした。

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