ルカによる福音書18章18節〜30節
今日のメッセージの題は、主イエスがこの議員に告げた言葉から「あなたに欠けているもの」としましたけれども、こうしてメッセージの題として掲げてみると、なかなかチャレンジな題だとあらためて思います。
水曜日の夜のお祈り会では、集まった方々と、前もって次の日曜日のメッセージの箇所を読み、語りあうのです。この前は、ある青年が、「あなたに欠けているものがある」というイエスさまの言葉を受けて、「自分も欠けたところがあることは、気が付いてきたのだけれど、なかなか素直に認められないんです」と正直な気持ちを語ってくれたり、ある壮年の方は、「自分は長い人生生きてきて、十分、自分が欠けだらけだってわかっているから、いまさら言われても、なんともないよ」といわれて、達観しておられるなあと、関心したりいたしました。
皆さんは、どうでしょう。「あなたに欠けているものが一つある」と主イエスにいわれたなら、どう思うでしょうか。
今日のルカの福音書の記事に登場する、この議員はそう言われて、素直に認められずに反発したのでも、おっしゃる通りですと、達観していたのでもありませんでした。
そうではなく、彼は非常に悲しんだのです。
非常に悲しんだ。それはいったいなぜなのでしょう。
彼はなにをそんなに悲しんだのでしょう。
最初からこのお話をみてみます。
最初、このユダヤの議員が、主イエスのところにやってきて、こう質問したことからお話は始まります。
「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」
彼はそう問いました。ただ、この人は「ある議員」と書かれていますけれども、もともとのギリシャ語では、「人の上に立つ人」という意味の言葉なので、ある聖書では、「役人」と訳されたり、「指導者」と訳されたりしています。
新共同訳聖書は、当時のユダヤの最高議会の議員と解釈して、訳しているわけです。
ローマ帝国に支配されていたユダヤも、ある程度の自治は認められていましたから、その議会の議員の一人ならば、ユダヤ社会では社会的には尊敬を受け、経済的にも恵まれていたであろうことは、イメージされるわけです。
そんな彼が、なんの社会的な立場のない、旅人の主イエスところにきたのです。
「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」彼は主イエスに、そう問いました。
「何をすれば」「永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」
あえてわかりやすく「永遠の命」を、「救い」と言い換えてみるなら、彼は言ったのです。
自分は何をしたら、救われますかと。
彼はユダヤの議員という、宗教的にも社会的にも、経済的にも、最高の立場にいながら、救われている確信がなかったのです。
自分には、まだ、なにかが足りない。そう思っていたからこそ、主イエスのところにやってきたのでしょう。
しかし主イエスは、答えを求めてくる彼の問いに、すぐには答えません。
むしろ、彼が「何をしたら救われるのか」と問うてきた、その彼の生き方そのものに、光をあたえ、気づかせるような、言葉をかけられます。
主イエスは彼にこういいました。
「なぜ、わたしを善いというのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と
自分はどんな善いことをすればいいのかと、あなたは善い先生なのだから教えてほしいといった彼に、
主イエスは言われます。「なぜわたしを善いというのか。神おひとりのほかに、善い者はいない」と
つまり、神にしか、絶対的な善はないのだ。
主イエスは、そう答えることで、善いことをしてみせると言わんばかりに、「なにをしたらいいのか」と問うてきた、その思い上がりに、いきなりカウンターパンチを食らわせたのです。
そしてたたみかけるようにして、主は言われます。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ」と。
神の戒めを、あなたはすでに知っているはずだと、問いただすのです。
主イエスは、彼の質問に答えません。むしろ、彼になにかを気づかせようと、問いかけていきます。
主イエスに問われた議員は、答えました。
「そういうことはみな、こどもの頃から守ってきました。」と言いました。
そう答えるのは当然です。なぜなら、神の掟をちゃんと守ってきたからこそ、ユダヤの指導者になれたのです。ユダヤ社会で律法を守ろうとしない人が、指導者にはなれません。ましてや議員であるなら、律法をもとに、人々を裁く立場に立つわけです。
その彼が、「そういうことはみな、こどもの頃から守ってきました」と言ったのは、ある意味当然。
にも関わらず、彼は、まだ自分はなにか足りないのではないかと思っていたのです。まだなにか足りないのではないかと、不安を感じているからこそ、主イエスのところにやってきた。
そういう意味で、彼は実にまじめな人です。権力にあぐらをかいて、えばっていた人ではない。自分はこれでいいのだと、満足していた人ではない。
真理を求める求道者、努力家であったと思う。だからこそ、人々からも尊敬され、ユダヤのリーダーになったのでしょう。
しかし、それでもなお、このままでは、なにかが欠けていると、彼は感じている。
これでは、永遠の命を受け継ぐことはできない、つまり、神に受け入れられていないと、彼はわかっている。
だからこそ、彼は、主イエスのところにきたのです。
その彼が感じていた、欠けとは何なのか。その本質をえぐるような言葉を、主イエスは言われたのです。
「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。
この議員にとって、この主イエスの言葉は、まるで金槌で頭と叩かれたような、ショックな言葉だった。ありえない言葉だった。だからこそ、彼は、この言葉を聞いて、非常に悲しんだのです。
なぜこの主イエスの言葉は、彼を非常に悲しませることになったのでしょうか。
「持ち物のすべて売り払い、貧しい人に分ける」ことなどできない。それでは生きていけない。生活できない。明日から食べていけないからでしょうか。
確かに財産を失うことは、怖いことです。それはわたしたちも、よくわかります。わたしたちも、主イエスからこんなことを言われたら、不安と恐れで、心がいっぱいになるでしょう。
財産を売り払ったら、明日からどうやって生きていけばいいのか。そんなことできないと、思うでしょう。
そのときに湧き上がってくる感情は、「恐れ」であり、「不安」ではないでしょうか。
ところが、この議員は、この主イエスの言葉に、「恐れ」たのでも「不安」を感じたのでもないのです。
そうではなく、彼は「非常に悲しんだ」。悲しみを感じたのです。不安と悲しみは、決定的に違う感情です。
なぜ彼は悲しんだのか。
人はどんなときに、悲しみを感じますか。彼の悲しみのわけは、何だったのでしょうか。
すこしだけ、わたしの若いころの話を、させてください。
わたしは小さい頃から音楽が好きで、学生時代は吹奏楽部で「ホルン」という楽器を吹いていたのです。自分の楽器がほしくて、3年間、新聞配達のバイトをして、何十万もする楽器を買って、毎日毎日必死に練習して、「ホルン」が好きで好きで、自衛隊の音楽隊に入ることを決めて、オーディションを受けて、音楽隊に入れていただく約束をいただいて、自衛隊に入隊したのです。そして1年間、一般の隊員と同じように厳しい訓練を受けて、やっと音楽隊に配属になったのです。やっとこれで好きな「ホルン」を吹いて音楽活動ができると、喜んだのもつかの間、何かの手違いで、その音楽隊に、もう一人「ホルン」を吹く新しい隊員が配属されたのです。ありえないミスです。ホルンの定員は決まっている。どちらかが「ホルン」をやめて、ほかの楽器を一から始めなければならない。そしてもう一度オーディションをやったのです。その後、上官の人がわたしの所にやってきて、こう言いました。
「あなたの方が彼よりも上手だし、あなたならほかの楽器に変わっても、かならずうまくなるから、楽器を変わってくれないか」
あり得ない言葉でした。まさに青天の霹靂。頭をハンマーで殴られた一瞬でした。
今までただ「ホルン」が好きで、努力を重ねて、つらい訓練にも耐えてここまできたというのに、その「ホルン」を捨てなければならない。これは受け入れがたい言葉でした。そのとき、わたしの心の中にわいてきた感情は、「恐れ」や「不安」ではなかったのです。そうではなく、非常な悲しみでした。自分が積み上げてきたそのすべてを捨てなければならないとき、感じる感情は、非常な悲しみだったのです。
この議員は、わたしは小さい頃から律法を守ってきたと言いました。ひたすらこの道が正しい道だと信じ、自分を磨き、自分という土台の上に、彼は一つ一つ積み上げてきたのです。
そしてやっと議員となり、人々の尊敬と地位と財産を得たのです。
その彼が信じて生きぬいてきた、その人生の象徴が、彼の持っていた財産であった。
それを捨てなさいということは、これは、生活費がなくなってしまうという、「恐れ」という以前に、
もっと本質的な問題。今まで自分が信じ、歩んできた人生が、否定されたという、悲しみを彼は感じたのではないでしょうか。
この人は、お金に執着していたから手放せなかったというより、むしろ、
「わたしは、なにをすれば、永遠の命を受け継ぐことができますか」
そうやって、自分は、なにをすれば、自分は、自分はと、自分という土台の上に、積み上げていく生き方そのものが、
主イエスによって揺さぶられた。
ここに、彼の非常な悲しみのわけがあるのではないでしょうか。
主イエスはこの議員に言われます。
あなたが、自分という土台の上に積み上げた、そのすべての持ち物を、貧しい人々にわけてしまいなさい。
「そして、わたしに従うのだ」と
主イエスは彼に言いました。「わたしに従うのだ」と
「自分はなにをすればいいのか」と問うのではなく、
神のみ心を100パーセント語られる、主イエスに従うこと。
自分ではなく、主イエスを土台に据えていきること。
自己実現ではなく、神実現に、方向を180度変えること。それが、神の国、永遠の命へ至る、ただ一つの道だから。
主イエスは、その永遠の命に至る道へ、この議員を、そして、今日、わたしたちを、招いて言われます。
「わたしに従いなさい」と。
しかし、それは口で言うほど簡単なことではないのです。
主イエスは言われます。金持ちが神の国に入るより、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」のだと。
自分という土台に、こつこつ積みあげてきた、その生き方を、
主イエスに従い、主イエスを土台に変えることなど、人間にできるわけがありません。
主イエスは、「らくだが針の穴を通るほうが易しい」とさえ言われます。
これは、人にはできない、不可能な方向転換なのです。
ところが、この話を一部始終聞いていた弟子たちは、言いました。
「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と。
確かに、彼らは仕事も家族もおいて、主イエスに従ってきたのです。
では、弟子たちはこの、不可能なことができたと言うことなのでしょうか。
いいえ。やがて弟子たちも、主イエスが十字架につけられていくとき、逃げ去ったのです。
すべてを捨てて従ってきましたと言った弟子たちは、最後まで従いきれなかったのです。
弟子たちも、自分という土台の上に、自分の力で頑張って積み上げていた。自分を捨ててはいなかった。
その自分という土台は、やがて必ず揺らぐ日がくるのです。
ひとはいったい自分自身から、自由になどなれるのでしょうか。
自分という土台の上に積み上げる、生き方から、自由になどなれるのでしょうか。
主イエスは言われます。それは、らくだが針の穴を通るより、難しいことだと。
「それでは誰がいったい救われるのですか」と人々は言いました。つまり絶望です。無理なのです。
ところが「できない」と言われた主イエスは、次にこう言われたのです。
「人間にはできないことも、神にはできる」と。
「人間にはできないことも、神にはできる」
人間の絶望の先に、神が働かれる世界があるのだと。
わたしたちは、この主イエスの言葉を信じ、ここに集う仲間です。
さて、今月21日から、遠藤周作原作の、「沈黙」という映画が上映されます。
「沈黙」の舞台は、江戸初期の、キリシタン弾圧下の長崎。
テーマは、なぜ神を信じる弱きものが苦しむなか、「神は、沈黙しておられるのか」ということです。
この問いに、本当の意味ですっきりと答えることは、人にはできません。
実は、遠藤周作が「沈黙」を書くはるか前から、すでに旧約聖書の時代から、神の沈黙への叫び、祈りはありました。
詩編の中には、「神よ、沈黙しないでください。黙していないでください。静まっていないでください。」という祈りがたくさんあります。
そして、実は、この神への叫びを、だれよりも激しく叫ばれたお方は、ほかでもない、十字架に付けられた主イエスだったのです。
「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と始まる、詩編22編。この詩編を、十字架の上で主イエスは祈られたのでした。
主イエスは、財産を捨てるどころか、十字架の上で下着さえ奪われ、すべてを失う悲しみを味わいました。
約三年の間、弟子たちとともに福音を告げ知らせ、あるときは、何千人という人に福音を語り、そのようにして、積み上げてきたそのよい働きも、すべては無になったのです。群衆は主イエスに向かい「十字架につけよ」と叫び、弟子たちさえも、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまった。
すべての働きは、すべて無駄だった。何ひとつ残らず、すべては無になりました。
すべてをはぎ取られ、十字架につけられた主イエスの悲しみは、計り知れない。
あの議員の悲しみとは比べ物にもなりません。その悲しみの叫びを、主は十字架の上で叫んだ。
「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。
絶望の叫びの末に、息を引き取られた主イエス。
何もかもが捨て去られ、神にさえ見捨てられ、すべては無に帰したと、人の目には見えたのです。
ところが今、2000年の時を超え、ここに、主イエスを信じる人々が集まっています。
すべてを捨てて、無になった主イエスこそが、救い主と信じる人々の群れが、
2000年の間、この世界に増え広がったのです。キリシタンの弾圧をさえ乗り越えさせて・・・・
「人間にはできないが、神にはできる」
神による復活。
すべてを捨てた主イエスを、神は復活させ、わたしたちを救うお方となさった。
これが、主イエスが言われた「人にはできないが、神にはできる」という言葉の意味です。
それゆえに今日、ここに主イエスを信じる教会が建っているのです。人に捨てられた主イエスを、神は復活させ、わたしたちを救う、人生の土台をしてくださった。
人にはできないが、神にはできる。わたしたちは、この神の働き、聖霊の働きを信じます。
その聖霊が、今日、人にはできないことを、してくださると、信じます。
自分、自分と、自分にとらわれ、自分の上に積み上げていく、罪の束縛から、
聖霊は、人を解放してくださる。自分の力ではできなくても、神にはできる。聖霊が働かれるなら、人は変わることができる。
与えられた一度きりの命を、たまものを、
隣の人と分かち合っていきる力を、自由を、
聖霊は与えてくださる。
「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てる」
つまり、自分の家族とか、自分の財産とか、自分の会社とか、自分の国とか、
そういう自分を中心にした、自分の家族、自分の仲間だけを愛するという、エゴを捨てるということだから。それが神の国にはいるということだから。
自分だけではなく、あなたと共に、あなたの仲間と共に、あなたの国と共に、敵も味方もなく。
すべての人と共に生きる、神の国に入るということだから。
それは、自分中心にいきるより、何倍もの祝福を、この地上で味わっていきる道。
人にはできない。自分にはできない。しかし、神にはできる。
神は働いてくださっている。今、ここで。
だからやがて天に召されるとき、わたしたちは知ることになるのです。
主イエスはちゃんと約束通り、
「永遠の命」という「天の住まい」を、わたしたちのために用意していてくださることを。