「キリストの系図の意味を思う」(12月9日週報巻頭言)

 今日は主イエスさまの誕生を待ちのぞむアドベントの2週目です。
 今日の礼拝で読まれる聖書の箇所は、マタイによる福音書の一番最初、イエス・キリスト系図です。
 聖書を初めて読む人は、この系図に何の意味があるのだろうと、思われるかもしれません。アブラハムから続くこの系図。それはこの世界が救い主が生まれることを待ち望んだ長い歴史そのものです。
 ある意味、イエスさまがこの地上に生まれるためには、この系図に載っている一人ひとりの人生の時が必要であったのです。系図に載っている人々は、信仰深い人ばかりではありません。異邦人の女性の名前もあります。大きな罪を犯してしまった王様もいます。系図の最後の方の人々になると、もう、どのような人生を生きたのか、旧約聖書にも書いていませんので、良くわかりません。
 とにかく、最後は大工のヨセフに至り、このヨセフは聖霊によって神の子を宿すマリアの夫となるのです。
 この系図に載っている人の、一人でも欠けたなら、救い主は生まれなかったかもしれないと思うと、この系図に感動します。
 イエス・キリスト系図があるということは、ここに記されているすべての人の人生が、神の救いを来らせるために必要であったということです。たとえその人の人生がどれほど失敗にまみれていようとも、ひっそりと、だれにも評価されない人生であったとしても、この系図に名前が記されているのなら、その人の人生は、この世界に神の救いを来らせるために欠くことのできない人生であったのです。
 神が造られた命に「いてもいなくてもいい」命など、今までもこれからも存在しません。たとえ今は、私たちが存在することの意味が、分からないことがあるとしても、やがて天の国において、知らされることでしょう。わたしたちの名前は天に記されています。だからわたしたちは、イエスさまがもう一度こられて、救いを完成し、すべてのことを明らかにしてくださる日を、待ち望む民なのです。失敗や罪や悲しみ、試練を前に、くよくよするのはやめましょう。過去を責めず、今の自分を認め、今ある命を十分に生きましょう。イエスさまはそのために、この系図のもとにこの世に生まれてくださったのですから。