「話して聞かせなさい」(主日礼拝2015年11月22日主日礼拝メッセージ)

主日礼拝151122

ルカ8章26節〜39節

 今日はわたしたちの花小金井教会に、新しい仲間が与えられる。Nさんが、神の家族に加えられるという、神さまの出来事を、共に体験いたしました。

出会いは不思議ですね。だれかと出会いたくても、出会いはコントロールできませんので、出会いほど、人の人生に大きな影響をもたらすものはないわけですから。

そんな、人との出会いの中で、実は、主イエスと出会わされている、ということに、後から気がつくことも、あるのではないでしょうか。

もうすぐ、クリスマスです。クリスマスといえば、有名な童話。トルストイの「靴屋のマルチン」が、まさに主イエスとの出会いのテーマでした。

 愛する人を失い、ひとり淋しく生きる望みもなく生きていたマルチンが、ある老人と出会って、聖書を読むようになる。
そして聖書を読みはじめたマルチンは、ある時、「マルチン、明日、町の通りをよく見ていなさい。お前の所に行くから。」という声を聞くわけです。
マルチンは、孤独なわたしのところに、イエスさまが来てくださると、喜んだ。

ところが、家の窓から、雪降る町をみていても、イエスさまらしい人は現れない。

やがて、マルチンは、「年老いたおじいさん」そして「赤ちゃんを抱いて凍えるお母さん」をそこに見つけて、温かな家に招き入れたり、

また、リンゴを盗んだ子と、それを追いかけるリンゴ売りのおばあさんの間に割って入って、助けてあげたり。

でも、とうとうイエスさまは来なかったと、夜の寝床で悲しむマルチンの耳に、「マルチン お前にはわたしがわからなかったのかね。」と声がする。

そう、今日出会った1人1人を通して、主イエスは、マルチンと出会っていていただった。そう気づいて、マルチンは喜びに包まれる。

これは、マタイ25章のイエスさまの言葉。「小さい者にしたことは、わたしにしてくれたことなのだ」というを言葉を元にした、お話ですけれども、

今、この不安な時代、イエスさまはどこにおられるのだろうかと、心沈む、わたしたちにも、

「おまえには、わたしがわからなかったのかね」と、主イエスはいわれてはいないでしょうか。

あらゆる出会いの中で、互いの関係の中で、主イエスはわたしたちと出会い、働かれ、導いてくださっている。


その一つ。主の導かれた人生の、一つの出来事が、今日のNさん入会式であることに、気づきたいと思います。


エスさまは、99匹を残してでも、迷った1匹の羊を探さずにはいられない、愛と憐れみに富んだ羊飼いに、ご自分のことを譬えられました。

神に愛され、神に望まれて生まれた自分の命、その存在のかけがえのない素晴らしさを、見失って不安と恐れに、縛られ迷う1人の人を、

主イエスは探して出会い、その悪いものの束縛から、解放し、本当の自分らしさ、命の輝きを取り戻して、群れに連れ帰ってくださるお方です。

さて、今日、朗読された聖書の御言葉もまた、迷い苦しむ1人を、探し救いだされる、主イエスの憐れみを、ある意味、劇的な形で伝えています。


8:26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
8:27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。


ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方」とは、ユダヤ人のイエスさまたちからすれば、異邦人の土地。外国なのです。

エスさまが弟子たち「湖の向こう岸に渡ろう」と言い、途中で嵐に舟が揺らいで、死ぬ思いをしてまで、湖の向こう岸に渡ろうと、イエスさまがなさった、そのわけは、


今日の聖書の箇所で登場してきた、誰からも見放され、墓場に住んでいた、この一人の人と出会うためだったと言えるのです。なぜなら、この人と出会った後、すぐイエスさま一行は、ユダヤに帰ってしまうのです。


エスさまは、ユダヤ人の神を信じているわけでもない、異邦人のこの人を。

しかも社会の中で居場所を失い、墓場だけを唯一の居場所としていた、この人と出会うために、イエスさまはやってきてくださった。わたしはそう読みます。

この男性は、悪霊に取りつかれていたと、書かれています。

悪霊に取りつかれていると聞くと、現代に生きるわたしたちは、おどろおどろしいものをイメージしますけれども、

マグダラのマリアも、かつて7つの悪霊に憑かれていたと書かれていたり、弟子のペトロでさえも、イエスさまから、「サタンよ引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と、叱責されていたり、

ですから、必ずしも悪霊にとりつかれるということが、なにか「オドロオドロシイ」状態になるということではなくて、

むしろ、神に愛されている自分自身を、見失わせて、恐れに縛りつけてしまうような霊的な力。

神の御心、神の愛から、切り離して、人間らしさを失わせてしまうような、そういう霊の働きを、聖書は悪霊と表現しています。


この墓場に住んでいた男の人も、イエスさまに向かって、28節で、こういうことをいうでしょう。

「イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい』」


この汚れた霊はこの男性に、「かまわないでくれ」と言わせているのです。

「いと高き神の子イエス」と、実に素晴らしい信仰告白が、ここでイエスさまになされているように思えるけれども、

信仰とは、その「いと高き神の子」と、わたし、あなたとの関係、信頼関係こそが、信仰であるわけです。


その方を、わたしの「主」「主人」ですと信頼するのか、あなたはいと高き神の子らしいけど、わたしには「かまわないでくれ」というのは、全く違う話でしょう。

エスさまに向かって、「かまわないでくれ」。わたしはわたしで生きていく、といわせるのが、汚れた霊なのだとしたら、

わたしたちにもこれは無関係な話しではなくなってきます。

わたしたちも先週の歩みの中で、イエスさまの言葉を知っているのに、祈りなさい、互いに愛し合いなさいと、言葉を聞いたのに、

「もう、かまわないでほしい」と、主の言葉に耳をふさがせ、鈍感にさせ、聞き流させてしまう、悪い霊の誘惑を感じることも、あるでしょう。


今日の、Nさんの証しの言葉を借りて言うなら、今までも礼拝のなかで、イエスさまの言葉を聞き続けてきたはずなのに、イエスさまと出会っていなかった。

出会えていなかった。イエスさまとの、関わりがなかった。むしろもしかしたらずっと、「かまわないでくれ」と、神の愛から切り離させられ、「墓場」を居場所にさせられているような、恐れや怒りに、縛られてしまう日々だったのかもしれません。


神の言葉を、聖書の言葉を、知識として知っていることと、神の子イエスさまと出会わされ、イエスさまとの「関わり」の中で神の言葉にいきることは、

これは全く違う話しなのです。


使徒パウロも、かつては、神の教え、神の掟、律法をだれよりもよく学び、知っているものでありながら、
どうしてもその神の教えに、生きることができないようにさせるものが、自分の内にある、ということを嘆いています。

ローマの信徒の手紙の中で、パウロはこう告白しています。

7章18節
「7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」


神の言葉はもうよくわかっている。神を愛し、自分を愛するように、隣人を愛し合いなさい。赦しあいなさい。祈りあいなさい。
エスさまの言葉は、なんども聞いてよく知っている。

でも、そのイエスさまの言葉にこたえ、イエスさまとの関わりにいきることをさせない、心の思い、誘惑、悪い霊の働きというものが、ある。

神の御心であるとか、違ったもの同士が、互いに愛し合うとか、赦しあうことなど、理想論でしかない、単なる絵空事だ。

やられたら、やり返さなければだめなんだ。テロと戦い、空爆をつづけ、国境を厳しく監視して、敵を入れてはならないのだ。

今、そういう悪い霊の誘惑が、ヨーロッパに、世界に、そして、わたしたちの心に、広がってはいないですか。

永遠の命に至る、希望ではなく、死にいたる絶望へと、墓場へと、わたしたちを追いやろうとする、悪い霊が、跋扈(ばっこ)してはいないですか。


この悪霊は、イエスさまから「名は何と言うか」と尋ねられたとき、「レギオン」と言ったとこたえています。

「レギオン」とは、当時のローマの軍隊のことなのです。大体5000人くらいの部隊をレギオンといったのです。

力と暴力による支配を表す、実に象徴的な言葉「レギオン

理念より、数の力が支配する政治。

金をもつものが、もたないものを支配する、社会。

「レギオン」にとりつかれているのは、この男性だけの話しではないのです。

いやむしろ、この男性を、墓場へと追い出やっていた、家族や地域社会はどうなのでしょう。

こんな人とは一緒にいられないと、墓場へと隔離し、足枷をはめ、監視していた、周りの人々はどうなのでしょう。

現代でも、社会の中で居場所を失い、受け入れられないままに、墓場のようなところで、足枷をはめられ、監視される人はいないでしょうか。

それは、その人の中に「レギオン」がいるからでしょうか。それとも、そういう人を切り捨てて、見えないところに追いやりたいと願う、周りの人々の心の中にも

この「レギオン」が支配してはいないでしょうか。

互いに愛し合うことが大切なのは分かっている。イエスさまが、かつて弟子たちに言われたように、

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34

と言われたように、あの人とも、この人とも、あの国ともこの国とも、共に生き、互いに尊重しあい、愛をもって生きていくことが大切なことは、言われなくても十分分かっている。

でも、一方で、このシンプルなイエスさまの言葉を、互いに愛し合いなさいという、言葉に対して、素直になれない心がある。

「そんなに現実は甘くない」と言いたくなる心の葛藤がある。

「いと高き神の子イエス」よ「そんなわたしに、かまわないでくれ」と、言いたくなる思いが湧きあがってくることがある。

この「レギオン」を、わたしたちの中から、主イエスが追い出してくださいますように。

神の言葉を、生きることをさせない、「レギオン」の誘惑から、束縛から、わたしたちを、解放してくださいますように。

週報の巻頭言に、一つ新聞記事を載せさせていただきました。


先週の朝日新聞に掲載された、パリ同時多発テロで妻を亡くされたアントワーヌ・レリスさんの言葉です。
朗読させてください。

「金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。

 だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。

 今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。

 私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから」


この方の言葉を読んで、使徒パウロの言葉を思い出しました。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」という言葉を思い出しました。(ローマ12:21)

やられたらやり返す。力と暴力の連鎖を生みだし墓場へといざなう、「レギオン」の支配からの解放を、悪に打ち勝つ、本当の勝利への道を、わたしたちはここに見ます。

パウロはそのローマの手紙の箇所で、こうも言います。

「あなたがたを博学する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
喜ぶものと喜び、泣く人と共に泣きなさい。
互いに思いを一つにし、高ぶらず、
身分の低い人々と交わりなさい。
自分を賢いものとうぬぼれてはなりません」


エスさまは、だれからも認められず、生きる価値もないと思われていたであろう、身分の低いこの男性と出会うために、

ガリラヤ湖の向こう岸から、いのちがけで嵐を乗り越えやってきてくださいました。

2000匹の豚という経済的な価値を犠牲にしても、この1人の男性を、「レギオン」の束縛から解放するために。

その主イエスは、

今、この時代に生きるわたしたち1人1人にも、あの靴屋のマルチンの物語が示しているように、今日もまた、出会ってくださるはず。

十字架につき、全ての絶望を味わい死なれた、主イエス

どんな絶望も、悪魔の支配も、「レギオン」の束縛も、全て打ち破り、

解放してくださる「いと高き神の子」として、復活し、今日も、わたしたちと出会ってくださる。

礼拝は、まさに、その現場です。

今日、礼拝の中で、Nさんは、その証しをしてくださいました。わたしたちもまた同じです。

主イエスとの出会いを、解放の喜びを、証しするために、ここからそれぞれの家に、居場所に帰っていきます。

この男性が、こうイエスさまから言われたように

「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさたことをことごとく話して聞かせなさい」と。

しかし、彼が帰っていく家も、地域社会も、彼のことをすぐには受け入れてはくれないかも知れません。

彼を「レギオン」から解放してくださった主イエスを恐れて、ここから出ていって欲しいと人々は願ったと書いてあります。

彼が帰っていく、家も地域社会も、必ずしも、彼を暖かく迎えてくれるとは限らない、厳しい現場かもしれません。

お前のせいで、2000匹の豚が損害にあったと、非難される現場かも知れません。

それでも、いやそうだからこそ、そこに生きる人々に、

99匹を山に残してでも迷い苦しむ、1匹の羊を救わないではいられないのが、神様の愛なのだということを、

わたしは、その愛で愛され、こうして、新しく生かされたのですと、この神の愛と救いの出来事を

彼でなければ、伝えることができない、人々に、

語り聞かせなさいと、主イエスは言われます。

そして今日、この礼拝で主イエスに出会ったわたしたちも、

私たちでなければ伝えられないあの人に、この人に

主イエスに出会った喜びを、主イエスと関わる喜びを、語ります。福音を分かち合います。

それは、主イエスご自身が、わたしという人間を通して、1匹の羊のようにされた、あの人と、この人と出会いたい。関わりたいと、願っておられるから。

わたしたちは、この口で、主イエスの愛を語り伝えるのです。


祈りましょう。