「ただ信じなさい」(花小金井キリスト教会2016年1月3日新年礼拝メッセージ)

ルカによる福音書8章41節〜56節

元日の礼拝で、お会いできなかった方もおられますから、最初に、新年のご挨拶をいたしましょう。
「あけましておめでとうございます」

今日は、新年の礼拝をイメージした、すてきなお花がいけられています。
日本の教会の葛藤は、きっと、いつまで、クリスマスの飾りを残しておくか、ということじゃないかと思うのですね。
教会の暦では、1月6日まではクリスマスが続いていますので、クリスマスの飾りを出していてもいいし、今日も、クリスマスの賛美を歌ってもかまわないわけです。
去年の暮れに、クリスマスの飾りをはずしますか、どうしますかとある方から聴かれて、一瞬迷ったんですね。
でも、今日、この新年をイメージするお花が、ここに活けられることを伺って、それならクリスマスの飾りははずしましょう、ということにいたしました。
西洋の教会で伝統的に守られてきた、教会暦のもっている、信仰的な奥深さがあるわけですけれども、キリスト教の2000年の歴史からすれば、日本の教会は、まだ伝道が始まったばかりのようなものですから、
この日本という土壌、慣習、文化と、うまくおつきあいしながら、地道に福音を語っていきたいわけです。
「元日礼拝」というのも、まさに日本の教会ならでは、と思います。
 元日には、日本人のだれもが、神社にお参りに行くわけですから、この日に、実は、教会も礼拝をやっていますよ。いかがですか。日本だけの神様より、この天地のすべてを、あなたを作った神様をこそ、お参りしませんかと、教会が門を開いて、お招きすることは、実に日本の教会ならではの宣教の仕方と、思います。
この時期、教会の入り口に、賽銭箱をおいておいたらどうですかね。投げてくれる人、いるんじゃないですか。おみくじの代わりに、聖書の御言葉を書いた紙を、おいておいたら、どうでしょうね。
申し上げたいことは、福音が中身なら、文化は入れ物。大切なのは、キリスト教の文化を伝えることではなく、つまり、入れ物を伝えることではなく、時代時代に変わってきた、入れ物にいれられて、2000年の時を経て、今日まで大切に運ばれてきた、中身。福音をこそ、私たちは伝えたい。
「福音」
今日も、その大切な中身。「福音」の言葉を聴きましょう。
新年から、また、ルカの福音書を順に読み進めていきます。

先ほど、朗読された聖書の物語。

まず、ヤイロという会堂長が登場します。シナゴーグと呼ばれる礼拝をするための会堂を、管理運営する責任者です。

社会的な地位の高い人です。

そのヤイロの娘が、重い病なのでしょうか、死にかけていたのです。

その娘のために、どうか家に来てほしいと、ひれ伏して主イエスに願うヤイロ。しかし、その家に向かっていく途中、娘が亡くなったという知らせを、ヤイロは聞くことになります。

その出来事の途中に、挿入されるような形で、12年の間、病に苦しみ、医療費に財産のすべてを使っても治らず、絶望の中に置かれていた女性と、主イエスの出会いの出来事が記されています。

この二つの出来事は、別々に、二つのメッセージとして語られることも多いようですけれども、今日は、一つの物語、ひとつのメッセージを聞きとるために、一気に読みました。

その一つのメッセージとは、「ただ信じなさい」ということです。今日の説教題でもあります。

この、絶望の暗闇の中に落とされた、二人の人に共通するテーマは、信仰であるからです。

主イエスは、12年の病からとき放たれた女性に、こう言われました。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と

自分が置かれている、自分ではもはや、どうにもできない現実を前にして、

絶望するしかなかった彼女に響いた、主イエスの言葉

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

そして絶望に突き落とされたヤイロに響く、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば救われる」

この主イエスの 「ただ信じなさい」という呼びかけは、

この2016年という、先の見えない、激動の時代を歩み始めるわたしたちも響く、主イエスの言葉です。

「恐れることはない ただ信じなさい そうすれば救われる」


この主イエスの宣言を、娘が死んだ絶望の暗闇のなかで、ヤイロは聴いたのです。

「おそれることはない、ただ信じなさい」

さて、「ただ信じなさい」といわれたヤイロが、信じたこと。それは何だったのでしょう。

ヤイロは、娘が生き返る、ということを信じたのでしょうか。

この後の出来事を読んでみましょう。

「イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネヤコブ、それに娘の父母のほかには、誰も一緒にはいることをお許しにならなかった。

人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。

「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」

人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。」


人々は、目の前の現実。娘の死の現実に、泣き、悲しみ、絶望に暮れています。

しかし、その絶望と悲しみの闇のなかで、主イエスは「泣くな」と叫びました。
「死んだのではない。眠っているのだ」と叫びました。

周りの人々は、そんな主イエスを、あざ笑うのです。

こんなにも明らかなる、絶望的な現場で、

あなたは、今、この状況がわからないのか。なにを言っているのか。頭がおかしいのではないかと言わんばかりの、人々のあざけりを身に受ける、主イエス

ひとびとにあざけられ、ばかにされている、その主イエスの後に、ただひたすらついていくしかなかった、会堂長のヤイロと妻。そして三人の弟子たち。

つまり、主イエスが言われた、あの宣言
「恐れることはない。ただ信じなさい」とは、つまり、

この、目の前の絶望にとらわれ、泣き、悲しむ人々の言葉ではなく、

むしろ、そのような人々に、バカにされながらも、神の言葉を語り宣言する、わたしにこそ、従ってきなさい。

わたしの言葉を信じなさい、という招きだったのです。

娘が生き返るという、自分の心の願いを、強く念じるのでも、信じるのでもなく、

むしろ、そんな自分自身の願いなど、打ち砕かれるような、目の前の現実のきびしさのなかで、

なお、主イエスの言葉を信じ、その後についていく。

ヤイロは、社会的な立場もあり、人々の対面を気にする人だったはずなのです。

しかし今や、人々にあざ笑われようとも、この方の後ろについていく。自分のプライドなどかなぐり捨て、ヤイロは主イエスの後についていくのです。

それゆえに、ヤイロは、主イエスの恵みの業を、体験することになります。

「ただ、信じなさい。そうすれば、娘は救われる」


それは、ただひたすらに、主イエスの言葉を信じ、その後についていくこと。

それは、12年の病に苦しんでいた女性も、また同じでした。

12年もの長い間、血が止まらない、女性ゆえの病。

その病は、当時、宗教的に、汚れているされ、人々から差別されたのです。肉体の苦しみに加え、だれにも理解されず、助けてもらえない心の苦しみ、心の傷をも、背負っていたにちがいない女性。

その苦しみから開放されたいゆえに、何人もの医者に、全財産を使い果たしたのに、だれからも治してもらえなかったと、書いてあります。

このルカの福音書の書き方からは、医者たちさえも、彼女を利用したような、そんなニュアンスを感じます。財産がなくなったら、医者さえも、彼女を見すてたような、印象をいだく描き方です。

つまりこれは、病の問題だけではないのです。お金の問題だけでもない。

むしろ、だれからも見捨てられ、深い心の傷をおわされた、女性の話。

今、話題になっている、慰安婦の問題も、政治の話や、お金の話である以前に、女性が負わされた、癒えることのない、心の深い傷の問題であることを、連想させられます。

だれからも見捨てられてしまう。その彼女の絶望の闇は、どれほど暗かったことか。

それを、もはや、言葉にすることは、出来ません。

その彼女が、ここで、主イエスに出会い、

ただただ、イエス様の、服の房に触れたという、そのときの、

その彼女の心の思い、その信仰とは、

どのようなものだったのか。

主イエスから、「あなたの信仰があなたを救ったのだよ」と言ってもらえた、その彼女の信仰とは、

いったい、どのような信仰だったのでしょう?



わたしは、牧師という働きをするようになって、15年ほどになります。

一番最初に、牧師牧師として招いてくれた教会で、就任式をするときに、その準備として、近隣の教会の牧師の方々を招いて、諮問会議というものをしたのです。

諮問会議です。

牧師になろうという、あなたの信仰について諮問するぞ、という、ちょっと怖い会議です。昔は、就任式の前には、よくやったのです。


わたしが書いた、信仰告白の文面を、並みいる先輩牧師の方々の前で読み上げて、諮問される。ああ、なんて怖いんでしょう。

いったい、なにを言われるかわからないから、ひっしで準備しました。どこから、なにを言われても答えられるように、根拠の聖書箇所を、調べあげておいたり。

それでその会議は結局どうなったのかといえば、わたしの信仰告白を聴いてくださった先輩牧師の方々から、なにも細かいことは、つっこまれなかったのです。

むしろ、一つだけ、忘れることができない言葉を聴きました。

その場にいた最長老の牧師さんが、こう言われたのです。

「どうぞ、ここに書いて告白した通りに、信じて歩んでください」

なにか、すべて見透かされていたようでした。

なにを言われても大丈夫なように、言葉遊びのように、理論武装していた、ピントはずれな自分を、見透かされていたようで、忘れられない一言でした。

自分の信仰とは、これですと、言葉にすることも、時には必要でしょう。。

でも、自分が本当に信じていること。主イエスへの信仰は、言葉に出来ないんじゃないか。そういう言葉にできない思いというものが、あるんじゃないか。

エス様の後に、ただついていくしかないヤイロのように。イエス様にただ、触れることしか出来なかった、この女性のように。

言葉に出来ない思い、主イエスへの信仰、というものがあるのです。

主イエスに向かって、あなたはメシア。キリストですと、はっきり、言葉で告白したわけではない、この女性のなかに、

しかし、主イエスは、彼女には、確かに信仰があると、言ってくださった。その信仰があなたを救ったと言ってくださるのです。

整った言葉にならないとしても、その人の中に、神が与え、神が救われる、「信仰」というたまものがあるのです。


信仰とは、自分が信じているという、自意識さえ打ち壊されてしまう、自分というものの、弱さのなかにこそ、見えてくる、神のたまもの。

まだわずかに残っている、自分の力で、主イエスを信じます、という話でさえ、ないのです。

もう、自分の中には、なにもありません。空っぽです。その無力なわたしのまま、主イエスの懐に、倒れなさい。わたしに触れなさい。ついてきなさい。

ただ、信じて、わたしにあなたの身を投げだしなさい。

それが、「恐れることはない。ただ信じなさい」という、主イエスの招きなのです。


わたしたちは、信仰というものを、難しく考えなくてもいいのです。

神からくる、たまものなのですから。

神の側から、「おそれるな」「ただ信じなさい」「大丈夫だ」「わたしはあなたの神」

そう語りかけてくださる、神の言葉と出会うとき、わたしたちの中に生み出されてくるのが、信仰というものなのですから。

エスの母マリアは、信仰深かったので、主イエスを宿したのではなく、

あなたは、主イエスを宿すことになるという、神の言葉との出会いによって、畏れつつも、そのすべてを、自分の身に受け入れたことが、マリアの信仰だからです。

信仰は、私たちがあらかじめ持っている、ものではなく、神の出来事、神の言葉、主イエスの言葉との出会いによって、

私たちの中に、今日、また新しく生まれるものなのです。

ある人は、信仰とは、「主イエスの中に働いている、恵みの力を「わがものとして感じ取る能力」といいました。

主イエスが、今日も、今も、働いておられる。そのことを、わたしのこととして、感じ取る能力。感性。

それは、あの病の女性が、自分を癒す、主イエスの恵みの力を、感じ取ったように。

私たちも、自分の中に注がれる、主イエスの恵みを、感じ取る「信仰」が与えられているからこそ、今日も、ここに集まり、礼拝をしています。

主イエスの恵みを、癒しを、今、ここで、自分のこととして感じる為に。

そして、癒された彼女に、主イエスが「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言葉をくださったように。

わたしたちも、主イエスから、「安心して行きなさい」と言葉をいただいて、2016年を歩み出すために、

今、礼拝を捧げています。


人の思いが、願いが、空っぽにさせられたとき、初めて気づく、感じる、神の恵みのあることを信じつつ。


カトリックの司祭だった、ヘンリナウエンの言葉を、一つ紹介させてください。

「空っぽであることといっぱいであることは、一見全く、相反するもののように思われます。

しかし、命のあふれる豊かさを神からいただくためには、いのちの杯を完全にのみほさねばなりません。

 イエスは十字架の上でこれを成し遂げられました。完全に空となる瞬間と完全に満たされる瞬間とが同時になったのです。

 天の父にすべてをゆだねられたとき、イエスは叫びました。「成し遂げられた」と

 十字架につけられたイエスは、同時に復活への挙げられました。

 自分をむなしくして低くへりくだられたイエスは高く挙げられ、「あらゆる名に勝る名を」与えられました。

「このわたしが飲もうとしている杯を、飲むことが出来るか」

というイエスの問いに耳を傾けましょう。



会堂長のヤイロ。そして12年の病の女性。

彼らも、自分の杯が空にさせられたことが、神の恵みに満たされることと、一つのことになりました。

私たちの杯を、満たすことが出来る神の恵み。

わたしたちも、わたしたちの器に、いのちを注いでくださる神の恵みを、ただひたすらに信じます。

死を越えた、復活のいのちの恵みをくださる神を、

「ただ、ただ、信じます」

この後に行う、晩餐式は、主イエスが行いなさいと定められた、神の恵みへの信仰告白です

わたしたちの空っぽの杯に、ただただ、神の恵みが、神のいのちが、注がれますようにと。

今、ここで、罪許され、今ここで、神の子とされ、今ここで、死んでも生きる神のいのちに、

わたしたちは、救われる。そのことを、ほかのだれでもない、自分のこととして感じ取るために、

わたしたちは、パンと杯をいただきます。

この神の恵みがなければ、生きられない、ほかになにものをも満たすことが出来ない、渇ききった器を満たす、

神の恵みを、

ただ、ただ、ひたすら神の恵みを信じて、わたしたちは、主イエスのいのちを、パンと杯を、いただきます。

そいて、この神の恵みに、すべての人は招かれているのです。

主イエスは言われます。

「恐れることはない、ただ信じなさい。そうすれば救われる」

のだと。

祈ります。