「わたしたちは踊る」(2015年9月20日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

shuichifujii2015-09-21


聖書:ルカによる福音書7章18節〜35節

 今日は、オルガンの席に、あまり見慣れない人が、すわっていますけれども、いや、夫としては、よく見慣れた人なんですけど、とにかく、今日、生まれてはじめて、オルガンの奉仕をなさるそうで、そばで、わたしまで緊張しているわけです。

 ご本人は、まさか、自分が、オルガンの奉仕を、するとは、思いもしなかったと、いっておられましたけれども、
教会というところは、その「まさか」が起こる、現場なんですよねー。きっと、みなさんも、そんな体験をしておられるでしょう。


 昨日の夜は、男性グループの会食会だったんです。そこでクリスマスの祝会で、男性グループで賛美を歌いましょうかと、提案が出たのですけれども、初めは、みなさん乗り気じゃなかったんですね。もう、若くないからなぁって、なんだか、お疲れみたいで、暗かったんですよ。
ところが、途中で突然、話の流れが変わって、Oさんなんか、水を得た魚のように、活き活きとしだして、結局、賛美歌を歌うどころの話ではない、もっと楽しいことをしよう、という話になった。教会って、「まさか」ってことが、起こる現場なんですよね。

 実は、ちょうど一年前の9月21日。わたしは、酒田での開拓伝道の話をしてくださいって頼まれて、はじめてこの花小金井教会にきて、メッセージをさせていただいたんです。たまたま呼ばれたから、来ただけだと思っていたのですが、

「まさか」一年後、こういうことになっているとは、まったく思いもしなかったです。本当に。

 わたしたちは、どんなに知恵を尽くしても、やはり目の前のことしかわからないのです。歴史は、人間が自分の意思と計画で造っているようだけれども、そうではない。人の思いや願い、計画を超えた、神が、愛をもって、神の国へと導いている歴史を、わたしたちは、生かされている。

だから、目の前の状況で、一喜一憂しない希望を、頂きたい。心よわる時にこそ、神の愛を思い起こし、共に心を向けるために、賛美の歌を歌い続けたい。

そう願って、今、わたしたちは、ここに集められているのではないでしょうか。


さて、先ほど、朗読された、今日の福音書の箇所は、だいぶ長い箇所でした。

簡単におさらいしましょう。まず、バプテスマのヨハネの弟子が登場してきました。

バプテスマのヨハネ」はご存知ですね。イエスさまの前に現れ、イエスさまが来られる道そなえをした、預言者ですね。

彼は、もともと、伝統ある祭司の家系に生まれたのです。ところが、その安定した世界から飛び出して、
厳しい荒野で、野蜜を食べて生きていたという、人。

この世界の、目に見える力、金、伝統、組織などの上に、安住しつつ、神の言葉を語ったのではなく、むしろ、そのような場所から離れて、この世界の、何ものをも恐れない立場から、人々に向かって、神に立ちかえりなさい、悔い改め、バプテスマを受けなさいと、説いていたのがバプテスマのヨハネです

ローマ帝国に支配され、苦しんでいたユダヤの人々は、この何ものをも恐れず神の言葉を語る、カリスマ溢れるヨハネこそが、神の約束された、メシア、キリストではないかと、思い、沢山の人々がバプテスマを受けに集まってきたのです。

でも、このヨハネという人は、そんな人々の人気に乗っかって、「君臨」しようとするどころか、むしろ反対に、

「わたしはメシアではない」と、「人間宣言」をします。

そうではなく、「わたしの後からくる方が、わたしよりもすぐれた方なのだ。わたしなどその方の履物のひもをとく値打ちなどない」といい、イエスさまこそが、その方であると、人々に告げ、イエスさまに頼まれてバプテスマをしたあと、ヨハネは退場していきます。


そうなのです。イエスさまが登場したあと、ヨハネは現れなくなるのです。なぜなら、ヘロデに捕えられ、投獄されたからです。

その様子は、ルカの福音書には書いていないのですが、マルコの福音書には書かれています。

ヘロデとは、ガリラヤ地方の領主です。ヘロデは自分の兄弟の妻を奪って、結婚してしまうのです。

そのヘロデに向かって、バプテスマのヨハネはこう叫んだ。
「そんなことは、律法で許されていない」
それが、ヘロデの怒りを買い、憎まれ、ヨハネは投獄されてしまう。

ヨハネは、人を恐れない、まっすぐな人間でした。

現実主義的な、妥協とか、自分の立場を守ろうとする、駆け引きとか、そういうことから、全く遠い人でした。

今、わたしたちの日本でも、自分の立場とか、政治的な駆け引きとか、そういうところから遠い人々が、叫んでいます。

「そんなことは、憲法でゆされていない」と、国会議事堂の前で、叫んでいます。

力をもつものの横暴から、弱い立場の人々を守る「憲法」の精神が、骨抜きにされるかのような、危機を感じる今。

バプテスマのヨハネが、ヘロデに向かって「そんなことは、律法でゆるされていない」と叫んだ声は、
「そんなことは、憲法でゆるされていない」という声と、重なって聞こえてこないでしょうか。


さて、イエスさまは、このヨハネについて、今日の聖書の箇所で、このようにつげています。

24節〜26節まで、お読みます。

ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。

では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。

では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である


・・・そうイエスさまは人々に問いかけつつ、ヨハネについて、語ります。

みなさん、ヨハネは、いったい、どこにいましたか。
この世の力、繁栄のなかに、宮殿のなかに、いましたか。そうではないでしょう。

神以外に、なんの頼るもののない、荒れ野にいたでしょう。

神の言葉は、この世界の力、繁栄、成功、という中から聞こえてくるのではなく、

むしろ、そのようなところから、とおい現場から、弱さや貧しさを抱えさせられる場所から、荒れ野から聞こえてくる、響いてくるのではないですか。あなたがたは、ヨハネの言葉を、荒れ野で聞いたのではないですかと、イエスさまは言われます。


自分のプライドとか、自分の立場とか、財産とか、守るべきものが増えて、心縛られると、荒れ野から聞こえてくる、声が、神様の愛の声が、聞こえなくなっていくのです。

7章29節と30節には、こうあります。

民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人でさえもそのバプテスマを受け、神の正しさを認めた。

しかし、ファリサイ派の人々は律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。


ファリサイ派や律法の専門家たちは、自分たちのあり方を守るために、社会的立場や仕事を守るために、荒れ野から響くヨハネの言葉、神の語りかけに、耳をふさぎました。

わたしたちも、同様です。自分の心のなかに、良心に響いてくる、神の言葉の語り欠けに、耳をふさがせるような、

罪に、縛られてしまうことが、わたしたちにも、きっとあるはずだから。

神の言葉に聞き、聞きとった言葉に、応えていきていくこと。

それは、この世にあっては、簡単な道ではないのです。時には、厳しい道を選ばされることもあるでしょう。

それは、イエス様を信じるが故に、確信をもって、歩み抜けるということではなく、

むしろ、イエスさまを信じるが故に、困難のまえに、心が揺らいでしまう。そんな道。

バプテスマのヨハネは、その道を歩んでいたのです。

ヨハネは、牢獄のなかで、心が揺らいでいるのです。イエスさまへの信仰がないからではありません。あるからこそ、揺らぐのです。

ヨハネは、自分の二人の弟子をイエスさまのところにつかわし、言わせます。

「来るべき方は、あなたなのでしょうか」

この不正と、悪と、暴力が、支配している現実を前に、真実を語ったが故に、投獄されたヨハネ
その牢獄の中で、ヨハネは心揺らぐのです。

「イエスさま。あなたは本当に、神の正義を実現してくださる、メシアなのですか」と

エス様がこられているのに、未だ、正しいものは苦しみ、正しくない者が、宮殿で豊かに暮らしている現実。

悪が栄え、正義がないがしろにされているように見えるから。

メシアがこられたのだから、そんな悪は正され、正義が実現していくはずではないだろうか。

なぜ、いつまでたっても、自分はこの牢獄の中にとらえられているのだろう。正義が実現しないのだろう。

「ほかの方を待たなければならないのではないか」
そのように、ヨハネは心揺らぐのです。

「イエスさま。本当にあなたは、来るべき方なのですか」

「あなたは、神の国を来らせる方なのですか」と、弟子たちを使わして、問わずにいられなくなった、ヨハネ

そして、このルカの福音書が書かれた時代の教会も、イエスさまを信じているからこそ、迫害されるという状況の中で、

「あなたは、本当に神の国を来らせる方なのですか」と、信仰が揺らぐこともあったでしょう。

そして、今、イエス様を信じてここに集うわたしたちもまた、信じていないからではなく、信じているからこそ、
目の前の暗く厳しい現実に、「イエスさま、あなたは本当に神の国を来らせてくださるのですか」と、問いかけたくなることが、あるでしょう。

エス様を信じていないからではなく、信じているからこそ。

心から信じ、従い、ゆだねて歩むからこそ、この世にあっては、心が揺らぐ。苦悩する。なぜですかと、問いたくなる。

それは、主イエスを、信じていないからではなく、信じているゆえなのです。
信仰とは、そういうものです。


そんな信仰の苦悩を味わうヨハネに、また、わたしたちに、
エスさまは、このように応えてくださったのです。

22節から、お読みします。

「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

「わたしにつまづかない人は幸いである」と

「わたしにつまずかない人は幸いである」とイエスさまは言われます。

エス様がしておられたこととは、なんでしょう。

それは、ある一人の目の見えない人と出会い、癒すことであり、また、ある一人の、足の不自由な人と出会い、癒したことであり、またある重い皮膚病の人、耳の不自由な人、そして、泣いていた、やもめの母の、死んでしまった1人息子を、憐れんで、生き返らせたこと。

また、小さく、貧しい人々に、福音を伝えたこと。

そんな、目立たない、1人1人との出会いと癒しでした。

その、ちいさなちいさな、目立たない、1人1人との出会いと癒しのなかに、神の国は実現しているのだ。

これこそ、メシアの姿、キリストのお働きであると、心の目が開いて、ちゃんと見ることが出来る人は、幸いだといわれたのです。

人の目には愚かで、時間のかかる、そんな仕方でしか、実現することのできないのが「神の国」だから。

小さなちいさな、「からし種」のなかに、無限に広がる命の力が秘められているように。

やがて、その小さな種が、鳥が、その枝で安らぐほどの、大木になる、その命の可能性が、そこに宿っていることを。

エス様の小さな働き、一人の人との出会いのなかに、見ることができるなら、実に幸いです。

嫌われていた徴税人。罪人と差別されていた人々。小さく、無力な、一人一人と出会い、癒し、福音を語ったイエス様の、その生き方の中に、

神の国をきたらせる、メシアの姿を、働きを、見分ける心の目を持つ人は、幸いです。

主イエスは言われます。「わたしにつまづかない人は幸いである」と

現代を生きるわたしたちは、政治の力や、軍事の力、経済の力や、そういう影響力が、神の国を、神の支配をもたらすのではないのだと、心の目を、開いていましょう。

むしろ、今、大きな力がうごめく中にあって、ひそかな神の働きは、なされている。

主イエスは、今も、もっとも小さな1人の人と出会い、もっとも小さな1人を癒し、愛し、慰め、神の国をもたらしてくださっている。

28節において、イエス様がいわれた、
ヨハネより偉大なものはいない、しかし、神の国でもっとも小さなものでも、彼よりは偉大である」とは、

今、この世にあって、もっとも小さな者、その1人の人のなかに、神が秘めておられる、計り知れない価値があるのだと、

互いに目を開き、認めあい、愛し合い、共に生きる現場に、「神の国」はやってきていることに、気づきたい。

その神の国の実現のために、主イエスは、今も、1人と出会い、一人を愛し、癒し、導いてくださっているのです。

ここにいるわたしたち1人ひとりも、そうやって、主イエスに触れられ、主イエスに出会い、救われた一人ひとりであるのだから。

そして、これから私たちが出会っていく、1人1人に、私達を通して、出会いたいと、主イエスは、わたしたちを用いてくださるのだから。

 このことを信じるとき、わたしたちは、目の前の現実の困難さに、簡単に、失望などしないのです。

困難な時代でも、いつも神の国の希望に、軽やかに生きていけるのです。

今まさに、ここに、この礼拝のただなかに、神の国は実現しているのですから。

今、私達とともに、主はいてくださるのですから。

「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。
葬式の歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。」

ヨハネが笛を吹き、イエスさまが、福音の歌を歌ってくださったのに、
自分たちの願う、力を求めるゆえに、踊りも、歌いもしない時代

しかし、主イエスにであった私たちは、そんなしらけた人間で、いられるわけがありません。

この世にあって、小さく無力に見える私たちを、

愛し、選び、救いだしてくださった主が、

奏でる笛の音に踊、歌ってくださる福音の歌を、共に歌わずにはいられないのです。

たとえ目の前の世界が、暗く希望なく見えようとも、

むしろ、そうであるからこそ、なおのこと、主イエスの愛の歌に声をあわせ、福音の喜びの歌を、賛美の歌を、わたしたちは、この世界に響かせていくのです。

使徒パウロとシラスが、イエス様の福音を伝えてとらえられた、エフェソの町の牢獄で、

その厳しい苦難のただ中で、真夜中、賛美の歌を歌ったように。

そのとき、主によって「まさか」と思われるような出来事が起こって、

そこにいた看守たちまでが、主イエスを信じるようになるという「まさか」が、使途言行録に記されていることを、わたしたちは知っている。

わたしたちは弱く、小さくとも、神の勝利の歌を、賛美の歌を、歌い続けることができる。

わたしたちの口から、賛美の歌を、奪うことのできるひとは、だれもいないのだから。

わたしたちは、こころ踊らせ、声をあわせ、賛美を歌い続けます。ともに歌い続けます。

どのようなときにも、神の愛に応えて歌う、
わたしたちは暗き世を照らす希望の光なのです。