ヨハネの手紙1 3章11節〜18節
この夕べ。さわぐ心を静め、存在の源、いのちの源の神さまの言葉を分かち合えること、感謝しています。
今、朗読したみ言葉。「互いに愛し合うこと」。このことのために、神の子主イエスが、人間としての命を、捧げてくださったという、この最初であり、最後の教えを、このことの意味を、ちゃんと受け止めさえすれば、もう、何も要らないのだという、み言葉の恵みを、深く心にとどめたいと願います。
私たちが、今、存在しているのは、だれかのため。お互いが愛し合うという、そのことのために、短い人生の時間、この地上に置かれていると、突き詰めて言えば、生きるとは、そういうことじゃないでしょうか。
なぜ、初めから天に生まれるのではなく、この不完全で、罪と暴力と、悲しみ多き、この地上に生まれるのか。
それは、その悲しみや不完全さ、弱さという、1人では生きられない限界を抱える地上を生きることで、
「互いに愛し合う」ことがなければ生きられないことを、
「互いに愛し合う」ことがどれほど人間にとって意味あること、喜びであるのかを、体験し、味わい生きるためなのでしょう。
それは、組織とか、国とか、そのような外側、枠組みを愛するのではなく、
目の前の1人の人と、向き合うことであるし、愛し、愛されるという関係への招きとチャレンジを、主イエスから、わたしたちはいただいているということです。
一匹の羊が迷ったら、99匹の羊をおきざりにしても、その一匹を探さないではいられない、羊飼いの姿に、神の愛とはどういうものなのかが、現れているように。
1人に対して100分の一ではなく、たった1人のために、100%ご自分の命を注がれた主イエスの愛は、今、ここに集うわたしたち一人ひとりに、注がれています。
だからわたしたちも、人数ではなく、目の前の1人を、国を愛するという以前に、目の前の1人と、互いに愛し合うことを、たいせつにします。
日本という国を守る、日本という国を愛する以前に、目の前の人を愛するものでありたいと願います。
1969年〜1974年まで、西ドイツの大統領だった、グスタフ・ハイネマンという人がいます。
とても、素敵な言葉を語っておられるので、ご紹介します。
こんな素敵な国のリーダーがほしいなと、つくづく思う言葉です。
「わたしは妻を愛しています。しかし国家は愛していません。
国家に対する市民の関係は、故郷や、自然や、芸術を愛するような、「非合理的感情」によって支配されてはなりません。
「感情」ではなく、「理性」が、我々と国家との結びつきを規定すべきなのです。
「国家」は崇高な存在ではありません。むしろ国家は、社会正義を実現し、正義と平和を守るための、やむを得ない秩序なのです。
我々の「憲法」によれば、すべて国家権力は国民に由来します。
ですから、我々は、単に政治の対象ではなく、政治の担い手です。
国家を愛することが重要ではなく、我々の国家の、民主主義的な憲法秩序を守ることが大切なのです。
真の愛国者とは誰でしょうか。この国でどんなことが起こっても、絶対的に、この国を肯定する、自己満足者のことでしょうか。
それとも、この国の中に、自由と正義と人間性を広めるために、現状に対する批判者とならざるを得ない、人たちのことでしょうか。
信仰者は、政治に対して口を挟むべきではない、関係もない、出しゃばるな、という批判があります。
しかし、この世がたとえ過ぎ去るものだとしても、この世がある限り、我々はそこで働かねばなりません。
この世を「楽園」にするという意味ではなく、この世に秩序を与え、人間生活を改善していくために、
とりわけ飢餓と戦争に対抗してです。
そして、それはまさに最後の日には、地上のすべての支配者に取り代わって支配なさる、
世界の唯一の主と、我々が結びついているからなのです。」
素敵な言葉だなと思います。このような言葉をもっている、指導者を頂いている国を、わたしは羨ましくさえ思います。
「わたしは妻を愛しています。しかし国家は愛していません」と言える、国の指導者。
「最後の日には、この世のすべての支配者に取り代わって支配なさる、世界の唯一の主」がおられることを、
そのお方を恐れて、国のリーダーとして仕えようとする指導者を、
わたしたちのこの国にも、与えてくださいと、祈ろうではありませんか。
先週、国会議事堂前のデモに、何度か足を運びました。個人として、この法案の中身以前に、この決め方に、不安を感じていたからです。
そういう思いを、声を、今、形にするには、あの場所に行くしかないので、いきました。強制でもなく、動員でもなく、まったくの自由意思として、個人として、その場に体を運んだわけでした。
ただ、やはりデモはデモですから、主催者側が、叫ぶ言葉に、そこにいたみんなが、声をあわせるわけです。「戦争反対」「憲法守れ」というのは、いいんです。でも、「安部はやめろ」とか、「憲法読めない総理はいらない」とか、個人攻撃のような、シュプレヒコールには、わたしは個人的には、声をあわせる気にはならなかったのですね。
そのような、個人にたいする「憎しみ」を感じさせる言葉を、大勢の人間が連呼する。もしこれが「藤井はやめろ」だったら、きっと傷つくだろうな、デモだからしょうがないとはいえ、なにか恐ろしいなと、感じるのです。
12節
「カインのようになってはなりません。彼は悪いものに属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
ヨハネの手紙は、カインがアベルを殺したのは、アベルへのねたみと解釈しています。
妬み、憎しみ。そのような心の中の感情を、甘く見ていないのです。
15節には、
「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」とさえ言われています。
「声をあげる」ということと、「相手を憎む」ということは、同じことではないでしょう。
使徒パウロは、ローマの信徒の手紙で、このように語っています。
ローマ12章17節
「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭の上に積むことになる」悪に負けることなく、善をもって、悪に勝ちなさい」
また、ガンジーは、こういうことを言います。
「非暴力の信奉者は、報復を求めることなく、敵対者の心を変えてくださるように神に祈ります。それがかなわない場合でも、敵対者がその人になすどのような行為にも耐える用意があります。これは、臆病や無力からではありません。勇気を持って、顔には笑顔を浮かべながら耐えるのです。わたしは、本物で完全な非暴力は、最も固い心でも溶かすという、古い言い伝えを信じています」
悪に、悪をもって対抗すれば、悪は二倍になります。悪には、善をもって答えることこそが、悪に勝つ、といえるのでしょう。
主イエスが、十字架につけられ、人々に罵られ、つばさえはきかけられる、その悪に、罵りや暴力という悪を返さなかったことは、
イエスさまを信じる、わたしたちの生き方に、決定的な方向性を与えたのです。
力による横暴に、主イエスを信じるわたしたちは、あくまで非暴力で、罵りや、憎しみに捉われることのない、抵抗の道を歩みたい。
それが、わたしたちのなかに、永遠の命、神の命の宿っている証であるからです。
14節
「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです」
16節
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために、命を捨てるべきです」
17節
「世の富をもちながら、兄弟が必要なものに事欠くのを見て、同情しないものがあれば、どうして神の愛がそのようなものの内にとどまるでしょう」
わたしたちが、与えるよりも、奪わずにはおれないのは、良いものを、だれかと、分かち合うことができないのは、
わたしたちの心が、魂が、欠乏しているからでしょう。渇いてしまっているからでしょう。
ご自分のすべてを、与えてくださった主イエスの愛に、心を開き、愛を受け取りましょう。
ほかのなにものにも、かえることなど出来ない、主イエスの命という、宝を、わたしたちは、すでに頂いています。
心を開き、目を天に向け、神に愛されていることを思い続けましょう。すでにこれ以上の愛はない、という「神の愛」で愛されていることに、素直に心を開きましょう。
それだけが、
18節
「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛しあおう」
という、言葉に応えて生きる道だからです。