「主こそが権威者」(花小金井キリスト教会 6月11日夕礼拝メッセージ)

ローマ12:17〜13:7
先週わたしは映画を観たのです。
ローマ法王になる日まで」という映画です。
2013年に第266代ローマ法王に選出された、法王フランシスコの人生を描いたイタリア映画です。
1960年。アルゼンチンのブレノスアイレスで神父になる決心をしてイエズス会に入会した本名は、「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ」と言います。

その16年後から、アルゼンチンは軍事独裁政権の時代を迎え、当時南米イエズス会の管区長になっていたベルゴリオ周辺も、軍がじわじわと圧力をかけ始めます。

反政府運動をする人々は捕らえられ、失踪者が100人単位で増え始め、反政府の動きをしたと神父が銃殺される事件がおこります。教会の内部でも意見が分かれます。あくまで、貧しい人々に寄り添おうとする神父や、軍に協力する神父。

ベルゴリオは、その板挟みの中で、苦悩しつつ葛藤しつつ、生き抜いていきます。その暗黒時代に、沢山の友人を彼は失いました。

一箇所忘れられない彼のセリフがあるのです。

ベルゴリオが監督する神学校に、軍が反政府の青年を捜索にきたとき、軍の司令官がベルゴリオに向かって、「君も組織の人間だったら、命令が絶対なのは、分かっているだろう」といった時、ベルゴリオが「わたしが逆らえないのは、良心の命令だけだ」といった言葉が、すっと心に響いたのでした。


先ほど、使徒パウロの手紙を読みました。パウロは言います。
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」と。

パウロがここでいっている「権威」とは、当時のローマ皇帝を頂点とするローマ帝国の権威です。パウロはなぜ、ローマにすむ人々に、こんなことをかいたのだろうかと、思います。

確かにローマであれなんであれ、実際に力をもって、人が人を支配するという枠組みのなかで、ある程度の秩序や安定した社会が実現することはあるでしょう。

ラテン語で、パックスロマーナといわれた、ローマの平和ですね。圧倒的な軍事力によって実現する平和。

確かに、あらゆる権威がなくなってしまう、無政府状態ほど恐ろしいものはない。

東アフリカのソマリアという国が、1991年の内線勃発によって、無政府状態がしばらく続きましたが、政府がないということは、法律もないのですから、自分たちの部族の利益の為なら、人を殺しても罪に問われなくなるわけです。まるで戦国時代。

日本も、あの戦国時代に比べれば、その後、圧倒的な徳川家の権力のもとに安定した秩序が300年近く続いた江戸時代のほうが、いいのでしょう。。

それは、あくまで比較の話ですけれども、権威者がいない世界では、人はどうても、自分が権威者になるというエゴが丸出しになるので、どうしても一定の権威は必要。

地上の権威が、「必要悪」とまではいいませんが、ある程度、罪と悪によってこの地上が住みにくくならないようにと、神様が、一定の期間、権威をある人々に与えて、この地上に秩序と安寧を与えられていると、理解できるし、

パウロはそういう意味で、今立てられている、権威に従うべきであると言っているのだと理解します。

3節以下で、「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です」「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのだ」と言うのは、そういう意味でしょう。

それが、「今ある権威はすべて神によって立てられた」とパウロが語る理由でしょう。

ただ、それはあくまでも、「神が立てた権威」なのであって、「神」こそが「権威」の源泉。根拠。

この天と地を造られた主なる神。そして主イエスキリストこそが、本当の権威者なのであって、その主が、一定の期間と範囲のなかで、権威を立てているに過ぎない。

つまり、あくまで主人は神なのであって、権威者たちは、神ではないし、この世界の主人でもないわけです。いつかは死にゆく限界ある人間であるし、同じ人間として、罪の問題を抱えているわけです。

神に建てられた権威者だから、間違えることがない、ということではない。それでは、神になってしまうわけですから


そう考えるなら、パウロは権威者への従順を語り始める、この13章の直前で、具体的には、12章の19節以下で、

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と言っている言葉は、まさに、この権威者に対する、神の復讐という意味なのではないかと、読むこともできるでしょう。

「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる。と書いてあります。とパウロは言います。

この主なる神が復讐する相手とは、実に、神が立てられた、権威者を指して言っているのではないか。

確かにこの世界が、安定し秩序をもって営まれるためには、権威のもとに、人々が従うという構造がどうしても必要。それは時代によっては、

皇帝であったり、王様であったり、選挙で選ばれた代議員であったり、大統領、総理大臣になるわけだけれども、それはすべて、この地上に一定の秩序を与えるために、期間限定、範囲限定で、神が立てられた権威でしかない。

しかし、その権威も、人間であるがゆえに、どうしても間違いを犯す。その権威が、神の御心から外れ、悪を行うなら、わたしたちはどうすればいいのか。
少なくとも、パウロは、テロや革命、暗殺をしてでも、その権威を叩くべきだとはいわない。聖書は全体として、神が立てた権威に対して、反抗することを、悪に対する悪として、批判している。

たとえば、イスラエルの初代の王、サウル王は、悪い王様であったけれども、そのサウルに、ダビデは徹底して復讐をしなかったことや、主イエスご自身も、当時のローマの支配への戦いを期待していた弟子たちの期待を裏切りつつ、無抵抗のまま支配者たちに捕えられていったのでした。

しかし、主イエスは、その権力者たちの横暴によって、十字架につけられ死んだけれども、神はその主イエスを復活させられ、この世界の王となさったのだ。

今、目に見えないけれども、主イエスはこの世界の王として、聖霊によって働かれ、世界を神の国へと導いておられる。

パウロはそのような理解を踏まえて、こういうのではないでしょうか。

だから、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と

神が立てた権威者が、神の御心から外れていったなら、その権威に対して、いつか神は正しく裁かれるから。神がちゃんと怒り、神が報復をなさるから、神に任せなさい。そうパウロは言っているのではないでしょうか。

今日は12章17節から読みました。
「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」

悪が行われているからといって、悪をもって報いれば、それはむしろ悪が広がり、平和から遠ざかることにある。

悪のはびこる時代にあっても、いや、むしろそうであるならなおのこと、善を行おうではないか。神の愛を広げようではないか。主イエスのように。


「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」

権威者の悪に対して、悪を持って報いるのではなく、なお隣人に対して、善いことを、愛を行わせる力は、

あの主イエスが十字架の上で祈られたあの祈り。

「彼らをお許しください。彼らは自分がなにをしているのか分からずにいるのです」との祈りによって示された、神の愛と赦しの力。

ローマの強大な権威も、やがて失墜していったのです。

その後、沢山の権威が現れては、消えていった歴史を、わたしたちは知っています。

旧約聖書には、道を誤ったイスラエルの民を裁くために、神が北からアッシリア帝国を起こされたのだと、預言者が語った言葉があります

しかしその、神によって立てられたアッシリア帝国も、神によって滅ぼされていくのです。

そのような大きな歴史のスケールから、このパウロが語っている、上に立つ権威には、神に由来しない権威はないゆえに、従いなさい、という言葉を受け止めたいのです。


上に立つ権威が、必ずしも正しいとか、善であるといっているのではない。

アッシリア帝国は残酷な帝国だった。そのアッシリアを神は立てて、イスラエルを裁くために用いた。でも、神はそのアッシリアをも、裁かれた。

ローマもまたそうであるし、そして、それは今の日本や世界の、あらゆる権威もまた、同じでしょう。

政治、経済、軍事、様々な権威をもつ者は、神が一時的に立てただけの権威。

やがて神の時に、神がその責任を問い、裁かれるでしょう。


さて、最初に紹介した、映画の話ですが、

やがてローマ法王に選ばれることになる、ベルゴリオは、この映画を観る限りにおいては、反権力や反政府主義者ではありませんでした。

でも、かといって、自分の良心をねじ伏せて、権力や組織に、面従腹背をする人でもなかった。いうべき時に、いうべきことを言った。

しかし、彼も、主イエスだったらどうするだろうという想いの中で、

弱い人々と共に生きることと、権力に従うという、その狭間で、葛藤し、苦悩し、生き抜いた一人のクリスチャンだった。

ある彼の仲間の神父は、同じように葛藤と苦悩のなか、殺されていき、ベルゴリオは生き残った。それがなぜなのかはわからない。神のみぞ知ることです。

やがて、絶対の神のようにふるまったその軍事政権も、崩壊していきます。

そのころ、田舎に引っ込み、ひっそりと村の司祭として生きていたベルゴリオは、神様の不思議な導きのなか探し出され、やがて全世界のカトリック信者のトップ。ローマ法王へと推挙されていきました。実に、神が人を選び指導者へと立てていかれる、不思議さを思わされます。

法王フランシスコになってからの、彼の言葉をいくつかご紹介しましょう。

法王就任後の記者会見で、彼はこう言いました。

「わたしは貧しい人々による貧しい人々のための教会を望みます」

また、法王に選出した人々にむかって、こういいました。

「あなたたちがわたしのような者を選んだことを、神さまがおゆるしくださいますように」

イエズス会の学校で、「法王になりたかったのですか」と聞かれたとき

「法王などというのはなりたい人はならないものなのですよ」

そういった、彼は、だれよりも、神に立てられたということを、真剣に受け止め、自分をこの立場に立てた、主なる神をこそおそれて、カトリック教会の改革を、どんどん推し進めていくのです。


彼は、数々の前例を覆し、自分が関わる様々な慣例を質素なものに変更し、暗殺計画さえささやかれるほどの、法王庁改革を成し遂げています。
貧しさや貧困にあえぐ人々に寄り添う奉仕活動を展開し続けています。ここに、あるべきリーダーの姿。神に立てられたものの、誠実さをみます。

権威あるものに従うという、パウロの言葉は、

同時に、権威を受けたものは、神から責任を問われることを、恐れつつ、誠実に神に仕えていくことと、切り離すことはできないのです。


パウロの言葉をもう一度読み、メッセージを終わります。

12章19節
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」
復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる。