「主イエスの仲間に」(2月7日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

shuichifujii2016-02-08

ルカ9章46節〜55節

2月になりました。ついこの前、2016年が始まったばかりなのに、あと11ヶ月でまたお正月がやってきますね、と私に言ってくださった方がいました。

月日のたつのは早いものです。

毎週、毎週の礼拝、今のこの時も、もう繰り返せない二度とない時間。今日も、こうして皆さんと出会うことができ、共に主を見上げる時をいただくことができました。

わたしは、昔、開拓伝道で、小さな借家に教会の看板を出して、家族だけの礼拝を、ながくしていたものですから、

10時半になっても、だれ一人教会に来ないなか、さあ、礼拝を始めようかと、小さな家族だけで、讃美歌を歌っていた日々を思い起こすたびに、

ああ、今日もこうしてひとりひとり、自分の時間を捧げて、共に礼拝を捧げようと、教会に来られることが、

そして、一緒に、主イエスの名によって、「アーメン」と心をあわせてくれる人が、いま、そこにいてくれる。

これがどれほどありがたい恵みであることかを、心底味わっているわけです。

これはたとえるなら、外国に、それも言葉の通じない外国に、一人取り残され、孤独に苦しんでいたとき、ばったり、自分の生まれ故郷の人と出会うことに似ている喜び。

同じ故郷である、神の国について、そして、お互いが愛してやまない、あのお方について、語り合い、共感し合い、分かち合えることの、なんと嬉しいことか。

それは、孤独な外国の生活の中に、まるで、一瞬、天の国の出張所がやってきたような、

共に主イエスの名により、同じ故郷の、神の国の喜びを分かち合い、心つながるひと時。

教会は、そんな神の国の出張所のような、出会いと交わり、そしてわたしたちをつなげてくださる、主に感謝と賛美を捧げる現場

それが主イエスの名によって、集められた仲間であるとすれば、

先ほど朗読された、今日の御言葉において、主イエスを囲んだ弟子たちが、誰が弟子の中で一番偉いかという議論をしていたことが、滑稽であることが分かるでしょう。

主イエスが、お互いを招いて、かけがえのない仲間にしてくださっているのに、なぜ誰が一番かなどと、互いを競争相手にしか見ないのかと、そのあさましさに、あきれる思いがするでしょう。

しかし、少し、この時の彼らの状況を、想像してみたいのです。

少し前の聖書の個所では、ペトロとヨハネヤコブという3人の弟子たちだけを連れて、イエス様は祈るために、山の上に登り、ご自分の栄光の姿を見せられた出来事がありました。このペトロとヨハネヤコブという3人は、やがてゲッセマネという場所で主イエスが苦しみ祈る現場にも、お供した3人です。


よく考えてみたいのです。いつも一緒に行動している弟子たちの中から、ある人たちだけが、特別に優遇され、重んじられているように感じたら、ほかの弟子たちは、どう思うでしょうか。

先週の礼拝では、山の下に残っていた9人の弟子たちが、悪い霊に付かれていた少年を助けられなくて、一見、イエス様から叱られてしまったような出来事でした。

残され、イエス様から怒られてしまった9人は、イエス様と山の上に登った3人のことを、どう思ったでしょう。

反対に、イエス様と山に登った3人は、山の下に残された9人に対して、どんな思いを持ったでしょう。

私は想像するのです。自分たちは、あなたたちが知らない体験をしたのだと。光り輝くイエス様を観たのだと、そんな優越感や、見下す思いを、心の底で抱いていても、不思議ではないのではないですか。

「誰が一番偉いのか」

この言葉は、岩波書店から出ている、新しい聖書翻訳では、

「誰が、自分たちのうちで一番大いなる者か」となっています。「大いなるもの」そちらの翻訳のほうが原語のニュアンスに近い

ですから、「偉い」という立場をあらわしているより、小さい者に対して、大いなるものと、対置したほうがわかりやすい。

そんな、誰が一番、大いなる者かという議論を聞き取った主イエスは、

むしろ最も小さい存在。一人の子どもを、そばに立たせて、

「あなた方のみんなのなかで、もっとも小さい者こそ、もっとも「大いなるもの」だと」言われたわけでした。

そんな大逆転が起こるのは、わたしの名のために、主イエスの名のゆえに、この小さな子を、受け入れる現場。

それは、こどもを大切にしましょうという、道徳の話ではなく、子どもを愛し、小さき者を愛しておられる、主イエスの名のゆえに、そういうことが起こる現場。

それはやがて、主イエスが自ら、もっとも小さきものとなるために、十字架へつけられていくゆえに。

その主イエスの名によってこそ、この逆転の奇跡は起こります。


一番最初の教会は、そのことを、忘れないように、こんな讃美歌、キリスト賛歌にしました。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」エフェソの手紙2章6節〜

あらゆる名にまさる名。主イエスの名。それは、十字架の死に至るまで、ご自分を小さく小さく、無にして、へりくだり、僕にさえなり、十字架についたお方の、名、なのです。それゆえに、主イエスの名は、あらゆる名にまさる名。大いなる名となった。

ですから、この主イエスの名を、一緒に崇めている人々の間に、主イエスの仲間のなかにこそ、この逆転は起こります。

逆をいえば、小さい者が重んじられ、大切にされている現場には、主イエスが働らいておられる。主の名によって、そこに神の国がやってきている。

神の国の出張所となっている。

わたしたちは、そんな神の国の出張所のような教会に、心から憧れます。

主イエスの名によって、愛し仕え合う神の国に、心から憧れます。



さて、今日の御言葉の後半、51節からは、主イエスエルサレムへ向かって旅を始める決意が記されています。
51節からもう一度お読みします。

「イエスは、天に上げられる時期が近付くと、エルサレムに向かう決意を固められた。
そして、先に使いの者を出された。彼らはいって、イエスのために準備をしようと、サマリアの村に入った。
しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスエルサレムを目指して進んでおられたからである。
弟子のヤコブヨハネはそれを見て、
「主よお望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼滅ぼしましょうか」と言った。
エスは振り向いて二人を戒められた。


ここで、主イエスエルサレムに向かう決意、つまり、十字架へ向かう決意を固められたと記されています。

小さくされ、僕のように殺されていくその道を、

その道だけが、この世を救う道ゆえに、十字架へと、エルサレムへと向かう決意を固め、旅を開始されるのです。

その旅の途中で、サマリア人の村を通ったとき、サマリアの人々に歓迎されませんでした。

その理由は、53節

53節
「イエスエルサレムを目指して進んでおられたからである」と書いてあります。

サマリアの人々は、エルサレムに向かう人々を、歓迎しませんでした。

ユダヤ人が、エルサレムの神殿で行う礼拝こそが、本当の礼拝だと、ほかの場所で礼拝する、サマリアの人々を、差別し、見下していたことへの、敵対意識があったからです。

もとをたどれば、サマリア人ユダヤ人も、同じイスラエルの民なのです。ある出来事をきっかけに、別々の場所で礼拝をすることになったのです。

その理由を話すと長くなりますので、今日はお話しませんが、大切なのは、もともと彼らは一つだったのに、お互いがお互いを憎み合っていたのだということなのです。

近親憎悪なのです。
似ているからこそ、相手の少しの違いが受け入れられない。礼拝の場所ということのこだわりが、決定的にお互いを敵にしてしまった。

それは、お互い同質だからこそ、近いからこそ、少しの違いがゆるせないということです。

地方の、農村部の話を聞くと、隣村と隣村、隣の部落と隣の部落が、以外に険悪な関係だったりします。

遠くから見ると、みんな同じ方言を話しているように見えても、近くではお互いのちょっとした違い、考え方の違いが、お互いを決定的に分けているということが、よくあるのです。

日本人のわたしたちも、明らかに違う欧米の人より、身近で人種的に似ている、韓国や中国やアジアの人々との違いが、なかなか受け入れられないことはないでしょうか。

同じ年齢の子どもたちが集まっている学校という空間で、同質だからこそ、小さな違いが原因で、いじめが起こることもあるでしょう。

「同じ日本人なのに」「同じ村なのに」「同じクラスなのに」「同じ親族なのに」、「同じ教会員なのに」

むしろ、同じじゃないか、と思うところで、断絶と争いを繰り返しているのが、わたしたちの現実。



主イエスの12人弟子たちも、「同じ仲間じゃないか」と思うからこそ、なぜあの3人だけがいつもイエス様と一緒なんだ。山に登ったんだと、心が騒いだでしょう。

反対に、山に登った三人は、同じような仲間と比べて、小さな違いで、自分たちは大したものだと思っていたでしょう。


そんな思いあがりの言葉が、54節の、ヤコブヨハネの言葉であるわけです。

54節
「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼滅ぼしましょうか」

これを言ったのは、主イエスとともに、山の上に登った3人のなかの、ヤコブヨハネです。

その昔、預言者エリヤが、天からの火で人を焼き滅ぼした出来事を、彼らは自分たちにも起こせるし、すべきだと考えるほどに。

彼らは思いあがり、かつて同じ民族だった、サマリア人のことを、「天から火を降らせて、焼滅ぼす」対象としてしか、見れなくなっていたのです。

これを主イエスとともに、山の上で、特別な宗教体験をした、彼らがいったことに、人間の罪深さを、思うのです。


これが、主イエスの十字架がわからないままの、人間の実態ではないでしょうか。

「主イエスの名によって」ということが、すなわち「十字架につけられた主イエスの名」であることがわからないまま、

十字架がわからないまま、神を信じているつもりになることの、危うさではないでしょうか。

天から火を降らせるとか、そこまでいわなくても、

あの人のこと、この人のことを、裁くことが、主の望まれることだ、わたしたちは主の御心に近いのだと、信じていたヤコブヨハネは、

もしかしたら、わたしたち一人ひとりの心の中にも、いるのではないでしょうか。

49節では、このヨハネが、主イエスの名で「良い働きをしている人々に」

「わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせました」と言っています。

そんな、自分とは違うやり方、考えの人に、イライラし、やめさせたくなるヨハネと同じ心が、

私たちにもありませんか。

結局、今日の御言葉が、問うているのは、

自分と共に生きる人々のなかで、

違う考え、やり方とであったら、あなたはどう振る舞いますか、ということなのです。

やめさせますか。

天からの火を祈り求めて、焼き滅ぼしますか。

なぜ、その存在がゆるせないのでしょうか。

わたしが一番偉くありたい、重んじられたいからでしょうか。

裏を返せば、それほど、今の自分ではだめなのだ。重んじられていないのだ。認められていないのだという根深い思いが、不安が、

人を攻撃させるのではないでしょうか。

自分たちを受け入れないものなど、いなくなれと、ヨハネが天からの火を願う、そのイライラは、

そうせずにはいられない、自分自身の不安の、裏返しでしょう。人は自分の存在を脅かすものを、攻撃するからです。


わたしは小さな借家で何年も苦闘していたとき、自分がやっていることに意味があるのかと、存在の不安を抱えたのです。

その結果、人が集まる近くの教会をねたみ、あのやり方はおかしんじゃないかと、批判したくなる思いに縛られたことがありました。

同じ主イエスの名によって働いている、仲間なのに、むしろ、同じ主イエスの名によって働いているからこそ、ねたんだのです。

だからわたしにはよくわかるのです。この時のヨハネの気持ちが。

自分に関係のないところで、主イエスの名によっていくら良いことが起こっても、喜べないエゴがあるから。

喜ぶものと一緒に喜ぶことのできない、ヨハネと同じ、どろどろしたエゴが、自分の中にもあることに気づているんです。

だれが一番偉いのかと、言わずにはおれない、存在の不安。

それは結局、この今のありのままのわたしを認めてほしい、愛してほしいという、叫び。

そんなことを競わなくても、主イエスは、すべての弟子を愛しておられるのに。

なお、自分こそが、一番主イエスに重んじられたいと思うのは、


今すでに、その小さいままで、無力なままで愛されている、主イエスの愛がわかっていないから。

だから主イエスは言われます。この無力で小さい子どもを、受け入れなさい。

この無力さ、弱さを、受け入れなさい。それが、わたしの愛を受け入れ、わたしをつかわした天の父の愛を、受け入れることだからと、

神があえて無力になり、小さくなり、十字架につけられるのは、

わたしたちが、人と比べて、どんなに無力で、小さく、弱かろうと、

人からなんと言われようと、自分自身さえ、自分を否定し、責めようと、

そんな小さいく、弱さに震えるあなたをこそ、

主イエスは、もっとも偉い者なのだ。大いなるものなのだよ。あなたのために、命をすてるのだからと、いわれている。

その愛を、現実のものとするために、今や主イエスが決然として、徹底的に小さくなり、無力となる十字架へと、向かわれる


やがて、主イエスが十字架にしに、三日目に復活したとき、

主と再会したとき、

弟子たちは気付くのです。

主を裏切り逃げ去った自分たちこそ、もっとも弱く、小さいものであったことを。

そのみじめなわたしたちを、すべて知っておられ、すでに主イエスは愛し、忍耐し、受け入れておられたことを。

そしてそのあと、聖霊が下った弟子たちは、変わるのです。競い合う仲間から、愛しあう仲間へと。

共に生きる仲間となり、人々と繋がり愛し合うことを喜ぶ人々へと変わるのです。


あの、サマリアの人々を、天の火で焼き殺しましょうかと言い放ったヨハネが、

使徒言行録の8章では、サマリアの人々に伝道し、神の霊、聖霊を受けるようにと、サマリアの人々のために熱心に祈る人となっています。


最も小さくなり、十字架についた、主イエスの名によって、

サマリア人ユダヤ人も異邦人もなく、みなが主イエスにあって味方となる。仲間となる

そんな神の国の平和が、今や、広がり始めたのです。

そして今、わたしたちも、主イエスの名により、ヨハネのように変えられて、

共に生きることを喜ぶ主イエスの仲間となったのです。

祈りましょう。