「イエス・キリストの名によって」(2017年7月2日花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

使徒言行録3章1節〜10節

 今、使徒言行録からメッセージをしていますけれども、あの弱かったイエス様の弟子たち。

最後は、全員主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちが、復活した主イエスと出会い、

共に集まり祈りつづけた、その集まりの上に、

ペンテコステの日に、聖霊が、主イエスの霊が、降るという出来事がおこって、

あの弱弱しかった弟子たちは、変わってしまった。変わったというか、彼らのなかに、目に見えない姿で、聖霊というあり方で、イエスさまが宿った。そういう集まりのことを、教会というようになって、今に至るわけですね。


聖霊」とか、イエスの霊とか、弟子たちやわたしたちのなかに、主イエスがおられる、つまり、臨在されるということについて、ことばで説明することは、難しいのです。

知的な理解をこえて、感覚とか、信仰の体験というレベルで、ああ、主イエスは今も生きておられる。わたしたちのなかに生きて、働いておられるという、聖霊の働きとか、イエスさまの臨在ということを、味わっていく。そういう言葉で説明できない、信仰の領域ですから。

ただ、一つ言えることは、「聖霊」が降った弟子たちの口からは、福音の言葉、イエス・キリストを証する言葉が、あふれ出てきた。

かつて「イエスなど知らない」と言ってしまったペトロの、その同じ口から、

「このイエスこそ、メシア、キリストです。わたしたちはその証人です」と確信に満ちた言葉が溢れでたわけですから、

今も、ナザレのイエスこそが、あなたを救うメシア、キリストです。わたしたちもイエス様を信じて救われました。見てください、わたしたちはその証人ですと、そういう言葉があふれ出てくるところで、「聖霊」は、「イエスの霊」は、豊かに神のお働きをしておられるに、違いない。


 今日朗読された、使徒言行録の3章の中で、かつてイエスさまを見捨てて逃げたペトロとヨハネが、足の不自由な男性に向かって、

「金や銀はわたしたちにはないが、わたしたちが持っているものをあげよう」と、堂々と宣言したこの変わりよう。

かつての彼らであれば、「自分たちには、金も銀もない」「申し訳ないが、わたしたちはあなたに何もしてあげられない」と、自分の無力さ、ふがいなさを、責めたり、ごまかしたり、逃げたりしたかもしれません。

ところが、この時のペトロとヨハネは違う。

自分には、金も銀もない。力も知恵もないと、自信なく、おどおどとしてなどいない。むしろ正反対に、堂々と、確信をもって、宣言をしたのです。

「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。


彼らは、自分のなかにある力に頼っているのではないのです。そういう自分の力とか、自分の努力、頑張りなどには、とっくの昔に、失望してしまった。主イエスを裏切り、逃げ去った時点で、彼らは自分の力ときあ、自分の信心とか、それがいかにもろいものなのかを、思い知らされた。

その自分に絶望しきった彼らに、復活した主イエスは出会ってくださり、そして今、そのイエスの霊、聖霊に導かれて、彼らは言葉を語っているのです。

「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。

それは、今、ここに集っている一人一人に対しても、

今、生きておられる主イエスが、あなたのいのちに、人生に、働いてくださることを信じて、

イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」という宣言として、受け止めたい。



もちろん、この生まれつき足の不自由だった男性の足を、癒やし立ち上がらせたのは、ペトロでもヨハネでもなく、復活の主イエスご自身。


ペトロとヨハネは、その主イエスの愛と力が、この人のなかに働くための、きっかけを造ってあげただけです。

ペトロとヨハネに、そして、歴史の教会に、わたしたちの教会に、ひとり一人に、人を癒やす力や、新しい人生へと立ち上がらせる力などありません。

そうではなく、ペトロとヨハネも、教会も、ただイエス・キリストの名を宣言するとき、

このイエス・キリストご自身が、復活のイエスご自身が、

信じ、委ねる人の内側で、よい働きをしてくださることを、信じているのです。

そして、本当に復活の主イエスが、聖霊が、信じる人々のなかで働き続けているからこそ、

今日も、ここに教会は立っています。教会こそ、聖霊が働いている証そのものです。



イエス・キリストの名とは、今も生きておられる、主イエスの存在。そして働きです。

ペトロとヨハネ。そして教会を通して、イエス・キリストは、神の国の、よい働きを、始められたのです。

その最初の、象徴的な出来事が、この生まれつき足が不自由だった人に起こった出来事といえます。


ほかにもたくさん、癒しの出来事があったのかもしれませんけど、この男性に起こった出来事は、神の国のよい働きが、始められたという意味で、とても象徴的な出来事なのです。


 場所は、「美しい門」と呼ばれる、神殿の門の前だったことも、大変象徴的です。

 この門は、当時エルサレムの名所の一つだったようです。

神殿のなかの、異邦人しか入れない庭の先、ユダヤ人しか入れない庭の入口に、この「美しい門」はあったらしい。

外国からやってきた人々は、この「美しい門」をひと目見て帰ったのだと、何かの本で読みました。


美しい凱旋門だったようです。ところが、その「美しい門」の傍らに、決して美しく見えなかった、一人の男性が、物乞いをするために座っていた。

彼は40歳を過ぎていたと、この後の箇所に記されています。壮年だったわけですね。

 現代でも、新宿とか、繁華街を歩くと、この状況と似た光景に、わたしたちは出くわすのではないでしょうか。

 美しく飾られたショーウインドウのわきに、段ボールを敷いて寝ている人々の姿を、私たちも見ることがあるでしょう。

 その段ボールの上で寝ている人々の脇を、通り過ぎるわたしたちの目には、美しいショーウインドウのデコレーションは見えても、その脇に座っている汚れた服の男性は、目に入らないかもしれない。いや、むしろ視界に入らないように、目を背けてしまうかもしれない。

 約2000年まえに、この「美しい門」の前を歩いていた人々も、同じでしょう。この美しい門に、目を奪われている人々には、

 その脇に座って、物乞いをしているこの人が見えていない。いや、自分の視界にいれないようにしていたかもしれません。

 彼はここに「運ばれてきた」のでした。

「運ばれてきた」と訳された、もとの言葉は、普通、人には使わない言葉なのだそうです。人ではなく、物に対して使う言葉が使われている。

彼は、おそらく家族か仲間たちによって物のように扱われ、ここに運ばれ、いつもの場所に、いつものように置かれたのでした。

 先ほど歌ったユースの賛美の歌詞を覚えていますか。

「いのちってうれしいな」と始まる歌詞でした。しかし毎日、置物のようにここに運ばれるだけのこの男性は、「自分のいのちがうれしい」とか「自分には価値がある」と、思うことができたでしょうか。

 だれもが素晴らしいと見つめた「美しの門」と比べて、物乞いのために置かれていた彼の「いのち」に、価値があると、見つめる人が、今までいたでしょうか。

 ところが、その彼の目の前に、彼のことをじっと見つめる人々が現れたのです。

 3時の祈りのためにやってきたペテロとヨハネです。

3節から、こう記されています。

「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った」


 ペトロとヨハネは、だれもが目をそらしたであろう彼をのことを「じっとみた」のです。

そしてこの彼に対しても、「わたしたちを見なさい」と言ったのです。

彼は、おそらく、人生の中で、こんなことを言われたのは、はじめてだったんじゃないか。

ただ、物のように運ばれて、ここに置かれるだけの人生だったのだから。

彼は、自分の生活を支える、「お金」をじっと見つめることはあっても、人間と、ちゃんと向き合い、目と目を合わせることなど、長い間なかったのではないかと、想像します。

人と人とが、目と目を合わせる。それは人格と人格が、まっすぐに向き合う出会いの出来事。


 ペテロとヨハネの目には、この物乞いをするしかない彼の、その「いのちの価値」「美しさ」が見えたのです。

所詮、人がつくった「美しい門」よりも、

神が造った、「いのち」のほうが、はるかに美しい。その、人間の価値がちゃんと見えるペトロとヨハネは、だから彼のことをじっと見つめた。

そして、自分では、自分の価値や美しさが、分からなくなっていたであろう、彼に、


自信を失い、人と目をあわせられなかったであろう彼に、

「わたしたちをみなさい」と語りかけた、ペトロとヨハネ


いや、ペトロとヨハネが語ったというよりも、

彼らと共におられる、彼のなかにおられる主イエスご自身が、

この男性に、「わたしをみなさい」と語ってくださっている。


かつて、「重い皮膚病」に苦しみ、差別され、見捨てられていた人に、あえて手を触れて、癒された、あの主イエスが、


また、12年間、出血が止まらず、苦しんでいた女性が、必死の思いで求め、イエスに触れて癒されたとき、

その「あなたの信仰があなたを救ったのだよ」と、言葉をかけてくださった、あの主イエスが、

今や、ペトロとヨハネを通して、この男性と出会おうとしてくださっている。


ところが、まだこの男性は、自分にとって、本当に必要なものがなんなのか、そのことに気付けてはいませんでした。


「わたしたちを見なさい」と声をかけられて、彼は、なにかもらえるんじゃないかと思って、二人を見つめたと書いてあります。


彼がほしかったのは、「お金」なのです。お金が自分を「救ってくれる」と、そういう世界の中で、彼は40年のあいだ、この場所で生きぬいてきたのだから。


神殿という、もっとも神さまに近づくはずの、その「美しの門」のわきで、

わたしを救うのは「神」ではなく、「金」なのだ。「金」がほしいと、生きている人がいる。

いや、そう考えていた家族や仲間たちによって、もっといえば、そういう社会によって、彼は物のようにここに運ばれ、置かれ、40年の間いきてきたのです。

結局、人間を救うのは、「神」ではなく、「金」だ。


神殿のなかにおられる「神」は、結局自分を救ってくれない。

40年の間、「神」ではなく「金」が、わたしの生活を救ってきた。だから、わたしは今日もここで、物乞いをしている。

金をくれ。

「神」とか信仰とか、きれい事をいっても、人生は「金」なのだ。さあ、金をめぐんでくれ。

金がわたしの「神」なのだ。

なにかくれるんじゃないかと、ペトロとヨハネをみつめる、

彼の心の声が、聞こえてきそうです。

いや、それはもしかしたら、この教会の門をくぐって、礼拝をしている

わたしたちの心のなかに響いてくる、誘惑の声かもしれません。

「神」が救うといっても、結局は「金」がなければなにもできないじゃないか。

「神」に祈るよりも、まずは目先の「金」じゃないか。

そんな誘惑は、いつの時代の教会にもあったはず。


中世の教会を皮肉った、こんなお話を聴いたことがあります。


 中世の神学者トマス・アクイナスが、当時の教皇、「イノセント二世」のもとを訪ねてみると、

 教皇は、莫大な額のお金の勘定をしている最中だった。

 金を数えながら、教皇はトマスに、こう言い放った。

「トマス君、教会はもう『金や銀はわたしにはない』とは言わないよ。そんな時代はとうに過ぎ去ったねえ」。

トマスアクイナスはその言葉を聞いて、こう答えた。

「はい、本当にそうでございます。教皇様。それと共に、教会はもはや、『イエスキリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』と言うこともできなくなりました。」

 こんな、笑うに笑えない、皮肉な話です。これは中世の教会の話ではなく、いつの時代の教会も、繰り返し問われることです。

問題の本質は、金や銀など、なければいい。貧しいほうがいいという、そういう話ではないのです。

そうではなく、そもそも教会は、何のために存在し、なにをするために集まっているのかという、存在の本質の話です。


この「金」のため、利益のためなら、「人」を踏みつけ、傷つけて、平気な時代のなかで、

「金」が「神」と拝まれ、人々の心を支配している、この時代の中で、

教会は、なにを語ることができるのか。だれを証するのかという話です。


「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」

この宣言を、

まことの神、主イエスキリストが、今も生きて働いておられるという、この希望を、目と目を合わせて、まっすぐに宣言し、

そして、確かに主イエスキリストが働いておられることを、体験し、証していくことが、教会の存在意義であるのです。

教会にしかない宝。イエス・キリストを伝え、人々を本当の自分へと、立ち上がらせていく、かけがえのない使命を、

わたしたち教会は、神様からいただいています。


自分のいのちも、人生も、なんの価値もないと、座り込んでしまった人々を

体が癒やされようと、癒やされまいと、

状況が変わろうとかわるまいと、そういうことを越えて、

この自分は、神に愛され、神に生かされている、かけがえのない、価値ある自分であることを、

イエス・キリストの名によって、宣言し、神が下さった、一度きりの本当のその人の人生へと、

人々を立ち上がらせ、歩ませるお方。

イエス・キリストの名を、わたしたちは伝えていく仲間です。

 使徒パウロはこう言いました。

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、信じるもの全てに救いをもたらす神の力」であると。

 福音。それはまさにイエスキリストの名そのものです。

福音と伝えるとは、イエス・キリストの名を伝えると、同じ意味です。

私たちは、イエスキリストの名を恥としません。なぜなら、イエスキリストの名こそ、信じる全てのものに救いをもたらす神の力だから。

神から離れ、罪に座り込んでしまった私たちを、本当の自分へと立ち上がらせ、神を賛美し、神にある人生へと立ち返らせていく力だから。

わたしたちは、今日ここから、イエス・キリストの名によって、あらたな自分となって、一週間を歩み始めていくのです。